第5話 狂気からの逃走

「はぁッ、はぁッ…!」


俺は左手で押さえていた右手を離す。

真っ赤に濡れてはいるが、傷は既になかった。

痛みも落ち着いてきた。


「自分の親指を手羽先みたいに折り裂いた男なんて俺くらいしかいないでしょ…!」


よくやったと自分を褒めるように独り言を言う。

喋っている間も歩みは止めていない。

振り向けば、結構な高さがあったはずの古城はもう見えない。

辺りに鬱蒼と茂る木々が覆い隠しているのもあるだろうが純粋に距離が離れていることを意味していた。


逃げた部屋の窓から見えた風景に拠点らしきものは見えなかったので、逆側に走っているが、実際それが正しい道なのか分からない。

それに加えて、恐らく野生動物も存在しているはずだ。

ヒナミが狩ることができる強さの野生動物だと一瞬安心しかけたが、彼女には再生能力と引力がある。俺がそれと同程度の力とは流石に言えないだろう。


もうどれくらい走っているか分からない。

足元はおぼつかなくなってきており、追われているという緊張感もあって普段より息が上がるのも早い気がする。


「一度休むか…」


俺は適当な木にもたれかかって休むことにした。


「このまま森の中で死ぬのは嫌だな」


せっかく異世界まで来れたのだ。ここで死んでしまっては無駄死にもいいところだ。

それに、先程までは逃げるのに一生懸命で考える暇はなかったが、この世界に礼亜がいる可能性はかなり高いと思っている。


ヒナミは自らのことを転生者と言った。

つまり一度死んで、この世界に転生した存在というわけである。

あの飛行機事故では、乗客全員の死亡が確認されているので、例の作家も含め完璧に死んでいる。だが、穴の向こう…いや既にこちら側だが…で生きているとメモを介して発表している。

つまり、あの飛行機事故の被害者はこの世界に転生している可能性が高い。


「まぁ…希望的観測だけど…」


悪い方に考えるとすると、不確定要素はかなりある。

まず大きなものとして、飛行機事故で亡くなった人全員が転生しているとは限らないこと。そこに関しては誰も言及していないため、礼亜の転生が確定したわけではない。

ヒナミが例の飛行機事故の被害者の1人であると確認できれば、少し期待はできるが、それでも確実ではないし、そもそも確認しに行きたくもない。


さらに考えると、転生というからには赤ん坊から生まれるものだと思うが、ヒナミはどう見ても5歳には見えなかった。つまり彼女は中学生か高校生に見える年齢…まぁ10代半ばだろうから、そのくらいの期間はこの世界で暮らしていることになるのではないだろうか。


ということは、あの穴は転生には関係なくて、穴が開く前から転生自体は起こっていた可能性もある。

たまたま穴が開いたおかげでこの世界にアクセスすることができたから転生者の存在を知れただけで…。


「いや、それは…違うな…」


例の作家がメッセージを送ってきたのは事故から1、2年経過後くらいだったはず。そうすると、赤ん坊が小説を書いて、さらにサインしたことになる。


「あれだ、この世界と元の世界では時間の流れが違うっていう可能性は…?」


そっちの方がしっくりくる。昔見ていた、少年少女たちが異世界転生して、相棒のモンスターと冒険をするアニメでもそうだった。

まぁ考えても意味はない。俺は既にこの世界に来てしまったし、礼亜を連れ帰ると約束もしている。

そのためにはここで死ぬわけにはいかなかった。


「よし、休憩完了。そろそろいくか」


「どこへですか?」


「うぉあ!!」


後ろからした声に驚いて振り返ると、そこには今俺が最も会いたくないであろう人物がいた。


「ヒナミ…!」


彼女は古城で最後に見たときのまま、こちらに近づいてくる。全く疲労の様子もないが、まさか真っ直ぐに追いかけてきたというのだろうか。

だとすればどうして?発信機のような、俺の位置を知らせるような何かが?


「お散歩は終わりましたか?そろそろ帰りましょう」


「お断りだ、俺にはやることがあるんでね!」


考えるのはあとでもできるが、捕まってしまえば次は逃してもらえないだろう。今は逃げるしかない。

俺はすぐにヒナミに背を向けて走り出した。


「私の能力のこと忘れてしまいましたか?」


ヒナミは俺に手のひらを向けて引力を発動する。


「忘れてるわけないだろ!!」


ものすごい力でヒナミに向かって引き寄せられ始めた俺は、むしろヒナミに向かうように地面を蹴った。

万が一のために考えていた作戦だった。

俺は飛び蹴りのような姿勢でヒナミに猛スピードで突っ込む。


「きゃっ」


自らの能力でさらに威力の増した俺の飛び蹴りを胸に受けたヒナミは勢いのまま後ろに転がる。

思ったとおりヒナミの身体能力はそこまで高くない。

そして彼女が姿勢を崩したタイミングで引力も失われた。


「よし!」


見事は着地を決めた俺は、そのまま走り出す。

先程向かっていた方角とは逆方向になってしまうが、今は距離を離すことが最重要。


「止まらないと酷い目に遭いますよ」


ゆっくりと立ち上がる彼女が、徐々に遠ざかる俺に言うが、そんな見え透いたハッタリに引っかかる俺ではない。

後ろを気にしながら全力で走る…はずだった。


「うわっ!?」


俺が踏み出した足は空を切る。

眼の前から急に足場が消え、足元には急な斜面…というよりほぼ崖のような光景が広がっていた。


「うぉぉぉぉおおおお!!!」


落ちるように急斜面を転がっていく。

枝や葉、露出した地面が俺の表面を傷つけていき、増幅された痛みが俺に襲いかかる。


「だから言ったのに。でも安心してくださいね、またすぐ会えますから」


崖の上からヒナミのそんな声が聞こえた気がした。

もう会いたくないよ、と思いながら、それを最後に俺は意識を手放してしまった。

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