第8話 不利な戦い

「5人が揃うことはない。その通りね。そして彼らの人生もまた、そこから続くことはない」


「ええ、彼らの死の原因は私にある」


 ゾフィーの目尻が僅かに膨らむ。私は自分の頬が引き攣るのを感じた。


「その姿でそんなこと言わないで」


 目の前の美しい幽霊が見せる深い後悔は、ゾフィーの人間性の複写。人間の複写。Oにとって、この事件に巻き込まれて命を落とした彼らは、手を差し伸べ救わなければ自然と消滅するモノにすぎない。有って無いような命。根本的に立場が違うのだ。


「私たちの関係は対等じゃ無い。生存のための選択を人間の意思に委ねた理由も、高位的存在であるあなたが奴隷を持つなんて、下品で似合わないと思っているからでしょ」


 Oがセレストの人間に与えてくれた温情に悪態をついて、私は彼女の様子をみる。意図に反して、Oは私の罵りを肯定した。そうであるかもしれないと。

 

「わかってる。人間的な振る舞いがとても上手だけれども、あなたの存在はきっと私たちより偉大なもの。だから……だとしたら何故……犠牲者たちを守ることができなかったの?」


 レーダー号事件で消息を絶ったゾフィー、そしてヒルベルトホテルで保安局の裏切り者に暗殺されたセイフー・ケベデ。Oはその前兆を捉えながらも見て見ぬふりをしていたのか、それを知りたいと思った。全部をOのせいにしてしまいたい。


 宇宙船セレスト号の微重力空間を再現した夢の中、儚げに漂う黄金の髪束から目を背けるように彼女の言葉を待つ。かつて愛した人からの許しを得たと錯覚してしまう自分の無責任に、どうしようもなく腹が立ったから。


「私には……」


 ゾフィーという犠牲者の1人の殻に身を隠したまま、Oは口籠る。

 

「ケベデを守ることができなかった」


「その理由を知りたい。少しは、立ち向かった?」


「彼には全てを伝えたけれども、それは信念に拒まれた。私が彼の意思に介入することを許さなかった。単なる言い訳に過ぎないことは理解しているし、あなたたちを私の偽善に巻き込んでしまったことがすべての始まりと分かっている。今は強く後悔している。敵が私であるなら、取りうる手段をすべてとるべきだった」


 ゾフィーの死の真相が明かされると思っていた私は、Oがそこで口を閉したことに一抹の怒りを覚えた。しかしすぐにそれは打ち消された。


「つまり、つまり……ケベデが殺されるまで、犯人の正体が分からなかったの?」


「ラフカが襲撃されて、敵の言葉を聞いて確信したわ」


 幽霊もまた自身の言葉を受け止めきれないようで、寝乱れたような髪を毟る。夢にしては明晰だった空間がひどく歪み始め、ゾフィーの影がどこか遠くへ流れていく。廊下のようなイメージが透けて見え始めると、セレスト号から望む宇宙の星々が鈍く緑に濁り始め、私たちは細長い戦闘艦のコクピットに立っていた。しかしそのイメージも鮮明ではなく、誰かが慌てたように走るその影だけが残像のように残っている。歪んだ配管、風に乗る揺れ、斜体でレーダーⅢと描かれた誰かのヘルメット。


「O……?」


「レーダー号が私の監視下から脱落した時点で、何かが起きていると悟った。私はすぐに第三者からの干渉に抵抗を試みた。それが未来の私であるという可能性は仮定の中に無かった。そして実際、そこには第三者の干渉を思わせる予兆があった。そう思っていた」


 機首がグロムスの天を向き、私たちの身体はレーダー号の耐熱床に押し付けられる。低い声で繰り返されているのは、何かのカウントダウンだろうか。観測室の扉が重力に負けるようにスライドし、その向こうにOが構築した廊下のイメージが続いている。その先でもまた、宇宙人の時計が止められない速さで繰り下がっていく。そして、その廊下から誰かの影が飛び出してきた。


「ゾフィー……!」

 

 それが幽霊なのか、幽霊の記憶の中の生者なのかは分からなかった。強烈なGにゾフィーの幽霊の姿を追うことができない。手であたりを弄ると、防護服に覆われた不恰好な指が床下に入り込んでいくような気がした。まるでOがレーダー号のシステムを止めようとしているかのような、そんな焦りを感じた。


「O、この記憶は……?」


「あり得ないことだった。グロムスを観測している私が自己のデータを現在に転送する可能性は、ゼロだった」


 決して抗えない何かの力で、手が跳ね返される。ゾフィーの姿では無いが、私も知っているはずの誰かの手が私を記憶の中から追い出そうとする。未来のOなのだろうか。それを確かめる間もなく、レーダー号はロケット噴射に備え、僅かに上昇速度を緩める。瞬間、空間が回転し、船外に放り出された私は轟音に包まれる。廊下の突き当たりの扉が閉まる直前、グロムスの夜空と、大翼を広げたままのレーダー号が遠のいていくのが見えた。


「未来の私が、もしも私の記憶を頼りに5人の標的の抹殺を試みたのなら、量子的な振る舞いをするはずの精神場の選択は観測結果と因果律に支配される。それは自己の存在の否定、つまり有機生物的な存在における死。未完成理論への恐れを捨て、まだ誰も結果を観測したことのないパラドクスを生じさせたとしても、それと同時に私の記憶というO'最大の武器を放棄したことになるわ」


 ゾフィーの声は記憶とは異なる次元からはっきりと聞こえた。無限に落ちていくような感覚ののち、私は最初にOが創り出した小部屋のソファに身をもたせかけていた。


 強迫的なイメージがしばらく脳内で繰り返される。そうしていると、若きゾフィーの幽霊が再び本棚の向こうから現れた。放心的にその姿を追い、斜陽の差し込む部屋がまだ夢の中であると思い出す。


「今のは、誰の記憶……?」


「折り畳まれた空間から覗いた、私の記憶よ」


「ゾフィーが、あそこに……」


「未来の私がなぜこんな事をしているのか、まだ受け止めきれないの。ときに非合理的な意思を下すあなた達であれば、その答えを知っているのかしら」


「分からない。なにもかもが分からない」


 ゾフィーの霊は私に近寄ると、首筋に優しく指を絡ませてくる。警戒を解くように近づき、整えられた爪を皮膚につき立て、私の生存本能を掻き立てるように。


「私はいずれそれを知るのよ。侵略者さながらあなたたちの自由を奪い、過去を補強し、悪い種を蒔き、そうして同じ道を歩む事を強いるのね」


 Oのこれまでの話は、一つの結論を常に示していた。未来は観測されている。私がそれに反抗する余地はない。主観的経験を作る場の不確定性と多元的宇宙論を組み合わせた空想が顕現しない限り。


「O、私の成すべきことは何?」


「ラフカ、私をよく見て。ゾフィーではなく私を。知ってしまった未来に抗うこともできなければ、過去もまた私の本性を規定する。理論の奴隷に成り下がった宇宙人。人間は、自由意志の不存在を突き付ける未来の愚者に反抗しなければならない。自由意志を信じる選択すら許されないとすれば、それは奴隷と呼ぶにふさわしい存在なのだから。賢明な歴史を積み重ねてきたあなたたちには相応しく無い最期よ」

 

「いったいどうやって?」


 私は宇宙人の冷たく細い腕を掴んで力を込めた。Oは私の呼吸を解放し、5本の指を立てる。


「オブジェクティブ5。裁定の日に導くため私が干渉した、5人の主観的経験。客観的な痕跡を残さない秘密部屋。つまるところ、未来の私と現行の私が繰り広げる戦争の最重要目標だといえるわ。そしてその2つについては決着がついている。残る3人のうち、1人はO'の手の元に、1人はラフカ、あなた」


 最後の一本が残る。


「まだこの事態を知らない1人が存在する。このことが、私たちの勝機を示している」


 閃くのに時間は不要だった。


「奴が言っていた第五標的。一連の事件が生じた理由は、背後で最後の1人を追うゲームが行われていたからだと、煽動犯は私に言った……!」


 ガスマスクを装着していた煽動犯はなんと言ったか。ゲームに勝つためには、誰よりも先に第五の煽動犯を探さなければならず、そのことは他の人物に悟られてはならない。なぜ私に対してそのような事を告げたのか、それが大きな疑問だったが、Oはその答えを持っていた。


「煽動犯、つまり未来の私は、選ばれた5人が誰であるかを知らない。同義的に、裁定の日にそれぞれが示した立場も知らない。反対論者を暗殺し、精神場理論の完成へと誘導を行っているが、誰を裁定の場から排除すべきかを知らない」


 ゾフィーのFWチップを装着する程倫理観の欠如した人間で、ゾフィーに取り憑かれたように精神場理論の完成を目指していた私は、O'にとって利用できるというように捉えられたのであろう。ただ、引っかかる点があった。


「精神場理論の反対論者だから殺されたとは限らないと思うわ。幽霊を受け入れなかったケベデはともかく、決定論者だったゾフィーを殺し、標的を探すための暴動は反CMFのムーブメントに......」


「ゾフィーが決定論者とは思えないけれど。それに標的たちの立場はもはや些細な問題よ。もっと大事なことが」


 Oは淡々と分析を続ける。私も立ち上がりかけた腰をクッションに沈めて耳を傾けた。


「未来の私は現在の私の記憶を保持している、という絶望的な前提は、何故か全てに適用されるわけでは無い。裁定の日に何かが起きるのか、私がデータの消去を試みるのか……ただ確実なことは、最後の1人の保護という盤面では、私たちは大きくリードしている」


 最後の1人を生存させるとすれば、私と、O'を支持することが確定している煽動犯を合わせて3人の個の主観が集まる。裁定というのが多数決を指しているのであれば、未来を知らない私たちの主観上では裁定の結果はまだ定まっていない。


 Oが成すべきこと。それは最後の1人に煽動犯が接触する事を妨げること。ただしこれは私が成すべきことではない。裁定の前に解が組み合わさってしまってはいけない。最後の1人を守るのは、私であってはいけないのだ。


「あなたはあなたの計画をやり遂げるつもりなのね」


「いずれにせよ、裁定は必ず行われる」


「O’がこのタイミングに干渉してきたということは、それほど遠く無い未来にターニングポイントが存在するということ。そうね?」


 決定論的で不愉快、私たちの行動動機に著しく矛盾している論拠に気が遠くなる。私が立ち向かうのは、そういった事象なのだと。


「その結果は予測するしか無いけれども、もし彼の意図に反する結果が生じたのであれば、未来の私は因果を破るか、まだ観測されていない大未来に影響する種を蒔く必要がある。いずれにせよ、O'にとっても未知の世界であるなら私たちにとって好都合といえるわ」


「問題は……」


「裁定ではO'の望む結果が生じたけれど、O'はそれを補強するために、あるいはO'と対峙した今の私の経験を頼りに現在へ遡ってきたというシナリオの場合」


 ゾフィーの幽霊が瞼を閉じて黙り込む。斜陽は青白く部屋の中を染め、最後の輝きを放っていた。私の記憶にはないゾフィーの新雪のような肌が、噛み癖のある下唇が、まるで死人のように青ざめていく。母、教授、恩人、そのどれとも違う時間を生きた私の知らないゾフィー……


「……もうひとつ、不可思議なことがあるの」


「それは……?」


「未来の私の干渉を受けている1人、その主観への干渉が、一度も成功していない」


 いったいそれの何が間違っているのか、すぐには分からなかった。

 

「どういうこと、未来のあなたが何かしているのではなくて?」


「その確率が高い。けれど問題は手段にある。最初に干渉するときは、特定の座標にあるFWシステムの通信網を伝って私たちの格納されたデータを精神場に展開するの。でも、実際に仕掛けられているのはおそらく回路上の妨害ではない。そのもっと前に......」


 噛み跡のついた唇から血を滲ませながら、自分でも理解できていないというようにそれを告げた。


「O'が、私の想定していない誰かの主観へと回路を繋いだ可能性がある。私の設計した回路は、どこにもつながっていない」


 

「想定していない誰か......」


 Oの知らない誰か。


 因果律に縛られた戦略。

 

 標的を知らない未来人。


 私の知らないゾフィー。


「ひとつ、思いついた……」


 未来のOが好む結末が待っているとして、その結末がOの記憶に頼るものだとして、それを欺く術があるとするならば......


「あなたは、精神場に干渉できるけれど、それは一方通行の作用にすぎない。そうよね?」


「干渉の有無や、統合された記憶を解析することは可能よ」


「ええ、でも経験と不意思の発動に先んじてそれを読むことはできない」


「今の私には不可能よ」


「ならもし、私が現在のO、あなたの主観を騙すことができたら......」


 夢から醒める寸前、戸棚から色素が抜けて病室のタイル壁が浮かび上がってくるそのとき、Oの頬が不敵に弛むのがみえた。


「これ以上の対話はやめておきましょう。ちょうど目覚めの時よ。助けが必要を求められたらいつでもゾフィーの研究室に招待するわ。最後にひとつだけ助言を。AO5の行動員、彼らは5人目の標的ではないわ。力を借りて。こうしている間にも事態は大きく動いている」

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