第11話 三日目 正午

 蒸気機関車の後尾灯がついに見えなくなった。

 膝の砂埃を払って暫く戻り、母から貰った手包を拾った。すっかり脱力して徒労感に襲われたので、ホームのベンチにへたり込んだ。

 なぜ母があの列車に搭乗出来たのだろう。

 はっと私は大事なことに思い当たった。内ポケットからズボンから、全てを探ったが周遊券は無かった。どうも財布に納めてそのまま、母の車窓に投げ入れたのだろう。咄嗟のことで致し方なかった。

 こうして無銭になり、唯一の身分証も失い解決策が見えてこない。袋小路に迷い込んだ徒然に、母の手包を開いた。竹の皮に小ぶりのおはぎが3つ並んでいた。その竹皮の下に何か手紙のような感触があった。

 それは、懐紙に包まれた周遊券と母からの手紙だった。その手紙を貪るように読んだ。


 案内所に居たのは、やはりあの白眉の老駅員だった。

 私はもうひとつの、周遊券を出した。

 彼は「ほう、滝の観音の、あの菩薩様の周遊券ですね」と言った。

「現代に戻りたい。この周遊券の残数を使い切っても構いません」

「肉親のものであれば、ご利用は構いませんが、時間旅行はかなり目減り致します。救った方の余命と、失ったご自身の余命のポイントと、時間を行き来するポイントの差額になりますので」

「構いません。別れを告げたいひとはまだ居ます」

「あとご注意ください。この旅行で見聞したことを他人に語ったり、特に未来の話をしても相手には通じません。その間の相手の記憶は消去されます」

「大丈夫です」と答えた。

 彼は周遊券の、母の名前を丁寧に二本線で消して、私の名前を書いた。


 最初に天井の染みと、次に黄色の花弁が窓辺に見えた。

 乗用車の行き交う音と、燻んだ日光が窓から斜めに差していた。

 喉が乾いていたので、身動きをすると鈍痛があちこちにある。特に背中が痛かった。動きの悪い手を叱咤しながら、のろのろとナースコールを押した。

 程なく血相を変えた看護師が現れた。タイミングが良かったのだろう、小一時間もしないうちに、妻が顔を涙で崩しながら病室に倒れ込んできた。

 私はもう二ヶ月も意識不明で入院していたらしい。

 どうしてこの病床にいるのか、妻に説明を求めた。

 それは地下鉄での人身事故だったらしい。私は車椅子の老人が転落しそうになったのを助けた。反動で線路上に落ちた。そこに回送電車が侵入してきた。幸いにも咄嗟に、事故防止用の窪みに逃げ込めたらしい。外傷は少なかったが頭部を強打して意識が回復しなかった、という経緯を聞いた。

「そうか。何だか不思議な夢を見ていたと思っていた。会社は・・・会社はどうなってんの?」

「社長の温情で営業中の労災扱いにしてくれて。長期療養として補助も頂いてんのよ。あ、それから眼鏡も持ってきたわ。不便でしょうから」

「わかった。衣花はどうしてる?」

「あの娘がねえ、意識のない貴方にしがみ付いてわんわん泣くのよ。久しぶりにそんな姿を見たわ」

 私は苦笑して「おれも見たかったな」と言った。それから妻に頼んだ。

「長崎まで航空券を手配してくれないか。どうしても訪れたい場所がある。勿論、衣花も一緒に。お墓参りをしたいんだ」

「リハビリがあるでしょ?起き上がれるの」

 私は渾身の力で上体を起こしながら「これは励みになるな」と息も絶え絶えになって言った。

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