第2話 初日 昼下がり

 機動車の振動が木造りの車両に響いていた。

 蒸気機関車の水蒸気がホームに雲のようにたなびいている。

 乗客席は木製ベンチで硬く、私はひどくその座り心地に違和感を感じていた。

「お兄さん、どちらに行きなるね?」

 目前に座った和服姿の老女が、柔和な笑顔を向けてきた。銀色の髪を櫛で留め、青魚の鱗のように光る色無地を纏っていた。

「不意に思い立ちまして、故郷に帰省することに致しました」

「親御さんは」と尋ねられたが、事情を詳しく説明するのは億劫で、しかもこの世界に信頼を置けず、ありきたりの返答をした。

「健在です」

「それは親孝行だねえ」と老女は袂から紙小箱を取り出して、私にその中身を揺すって勧めた。それは酢昆布の入った小箱だった。

 隣の乗客席にはまた西郷柄の大島紬に、肩にトンビというコートをかけた初老の男が、煙管を取り出してマッチで火をつけた。そして中折れ棒を揺らせて軽く咳き込んだ。大正時代か、昭和初期の探偵小説に出てくるような姿だと思った。

 その時、出発の汽笛が鳴った。


 数刻もたたないうちに、異変に気づいた。

 私の記憶では梅田駅から御堂筋線に乗車していたはずだった。

 無機質な高層ビル群の基底部を這い回る光景が見えているはずだった。

 この蒸気機関車に乗り換えてから、車窓には豊かな郷里の山並みが流れていた。距離というものが夢がそうであるように、無かった。記憶に残っていない景色は、すべて省略されるように思われた。

 数駅を列車は通過して、とある山間の駅に到着した。蒼天に雲がたなびき、陽光が輝いていた。そして奥深い森の梢から鶯の囀りが聞こえてきた。谷底の野火の匂いが風に乗って届いてきた。

「じゃあ私はここで。お兄さん、お相手してくれてあんがとさん。いい気晴らしになりましたわ」

 と老女は席を立った。私には会話をしていた記憶などなかった。省略された時間にその会話は埋もれてしまったのだろうかと、思った。


 ひとりになって、私は不安に陥っていた。

 どこで降車したのか、初老の男の姿もない。

 振動と騒音が新たな車窓の光景を、次から次へと手繰り寄せてくる。

 左手に内海の入江があり、そこへ流れ込む河口に掛かる橋を列車は渡っていく。窓を開けると潮風の匂いが充満してくる。

 そして汽笛とともに故郷の駅に到着した。

 私は乗り場で渡された周遊券を改札で提示して、若い駅員の一暼のもとに降り立った。木造駅舎は色褪せて青白い姿で、懐かしい思いが溢れた。

 三段の石段の脇に石造りのスロープがあって、幼い時はそこを滑り台がわりにして遊んでいた。それは俵など重量のある荷物を滑らせて下ろす場所であろうと、今の年頃には想像がつく。

 街並みを見て、それは記憶の外のような時代だと思った。

 道路には乗用車もまばらで、駅前を行き交うのは三輪トラックなどの働く車であった。そして二輪車ですら荷物を運ぶ使役を勤めていた。

 埃っぽい匂いがする小石舗装の街へ、私は踏み入れた。

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