第5話

 ディルの持ち金、というか全財産は残り銀貨三枚である。



 これからのことも考えると、生活費はなるべく抑えておきたいところではある。



 自然ディルが物を見る目は真剣なものになっていく。

 




「うーん、こっちは銀貨が一枚。あっちは銀貨二枚で……あれは五枚か、借金を背負わなくちゃ泊まれんの」





 やはり宿は、どこもそこそこの値段がする。



 しっかりとしたベッドで寝ようとすると、どうしても値段は張るようだった。



 一応大部屋の中で寝るという選択肢もあることにはある。


 大部屋で、知らない人間のいびきを我慢できるのならば、銅貨数枚という値段設定は魅力的だ。






 だがディルとしては、この年になって大部屋で雑魚寝というのはあまりしたくはなかった。



 プライドが高いだとか、良い年齢して気取ってるとかでなく、純粋に床で寝るのがきついのだ。



 固い床の上で寝ると、数時間もすると痛みから目が覚めてしまうのである。



 今は時々針を刺したような痛みがあるだけで、動く分にそれほど支障はない。



 だがもしこれ以上腰痛が悪化してしまえば、いかに見切りのスキルがあろうと、戦えなくなってしまう可能性は十分に考えられる。




 獣臭い臭いを我慢して馬車の厩舎で藁の中で眠るか、少々奮発してある程度のグレードの宿屋に泊まるか。


 ディルに取れるのは実質その二択だけであった。

 どちらを選ぶべきかという単純な問題が、どうしようもなく爺を悩ませる。




 既に帰りの代金の銀貨五枚が払えない以上、彼はここでなんとしてでも生きていかねばならないのである。もう泣き言を言っていられるような状態ではないのだ。

 



(まぁ、どうせある程度時間が経つまでは帰らぬつもりだったしの。踏ん切りがついて助かるわい)

  




 どこまでも楽観的なディルは、よしと思考を切り替えて一泊銀貨一枚の宿に入ってしまうことにした。









 思い立ったらすぐ行動と、先ほどまで悩んでいたのが嘘であったかのように、ディルは機敏に動く。


  

 見切りの度重なる使用により、既に彼の体の運び方や重心の移動の仕方は、常人のそれとかけ離れ始めていた。









 足を動かさずに進んでいるように錯覚してしまうほどヌルヌルとした動きで、銀色の小鹿亭と書かれた看板を立て掛けてある木の横を通り過ぎる。






 一泊銀貨一枚と親切に宿泊料金を貼ってくれているドアを開くと、受け付けとおぼしき場所にいる一人の女の子の姿が目に映った。






「いらっしゃい、お客さんですか?」

「そうじゃ、一泊させてくれ」







 とりあえず銀貨一枚を渡すと、カウンターから顔と手だけを出している少女と目が合った。



 ビロードのカーテンのように滑らかな銀の頭髪に、金紅石の一対の瞳。

 年齢は十歳より若いと思われ、背丈はかなり小さい。

 成人となる十五才の前に働くことは、決して珍しくはない。



 だが親元で働くその姿に、ディルは孫のマリルの姿を重ねてしまった。



 今、マリルは元気にしとるじゃろうか。

 望郷の念を感じ遠い目をする爺を見て、少女が怪訝そうな顔をした。 





「私の顔、何か付いてますか?」

「……いや、ふるさとにいる孫のことを少し思い出してしまっての。うちのマリルは、お嬢ちゃんよりかもう少し若いがの」

「そうですか、じゃあこれ部屋の鍵です。このまままっすぐ行ったところの突き当たりがお客さんの部屋なので」





 渡された鉄製の鍵を見て、鉄を贅沢に使っているのぉとディルは驚いた。



 普通の宿屋が使えるほどには、鉄が安価だということなのだろう。




(宿と食事をなんとかしたら、装備を整えるつもりじゃったが……この分ならそこまで苦労せずとも、鉄の剣を買えそうじゃな)




 ディルは真面目そうなお嬢ちゃんに礼を言って、木片とリングで繋げられている鍵を受け取った。



 このまま大過なく大きくなったなら、きっとここらでも評判の宿屋の看板娘になるだろう。そんな風に思えるくらいに、少女の顔は整っていた。



 まぁ、うちの孫娘には負けるがの。

 ディルは心の中で、意味もなく目の前のマリルを張り合いに出した。






「お嬢ちゃん、名前は?」

「アリスです。あと言い忘れてましたが、うちは夜ご飯だけは出るので食べたくなったら言ってください。運んでいきますから」

「あいわかった。それじゃあの、アリスちゃん」



 

 ヒラヒラと手を振って別れ、言われた通りの部屋に入る。

 縦にも横にも数歩分ほどの大きさの小部屋の右側に、ちんまりとしたベッドが鎮座している。




 ようやっと安住の場所が得られたと思い脱力すると、抗い難いほどの眠気が一気に押し寄せてきた。

 

 若干空腹も感じてはいたが、眠気が強すぎるあまりに今さら食事を摂りに宿を出ようという気にもならないでいる。





「馬車に揺られ揺られ……それから冒険者相手に戦って、ミースの相手をして、宿を探して……今日はちと、頑張り過ぎたかの」





 食事が出るという話だったが、今はもうとりあえず寝てしまいたい。


 明日はようやく、冒険者としての一歩を踏み出すのだ。




 齢六十を超えてからのこれからの人生、不安も期待も多いが……とりあえず全てを忘れて眠ろう。


 ディルは服も脱がず、着の身着のままの状態でベッドに体を倒した。

 そしてすぐに寝息を立て、スヤスヤと眠ったのだった。

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