世界で一番残酷な夢(2)

 気が付くと男は森の中にいた。

 ここはどこだ、と辺りを見回すが全く心当たりがない。生い茂る草木の様子は人の手が入った公園の一角などには到底見えず、明らかに都市から離れた地であるという印象だ。

 目を凝らすと遥か遠くに高い塔のようなものがあるのがぼんやりと分かるくらいで、周囲には何もない。もちろん、このような場所を訪ねた覚えは一切なかった。


 悪い夢でも見ているのかもしれない。

 そういった考えが浮かんだが、しかしすぐに自身で否定する。それにしては意識がはっきりしているからだ。

 夢を自覚している状態で見る夢を明晰夢というらしいが、それとはどことなく違っている気がした。


 腕時計に目をやると、示す時間はおよそ九時半。樹々の高さと厚い雲に覆われて太陽は確認できないが、おそらく夜ではないだろう。


「……仕事に向かってたよな、俺」

 時間を意識することで思い出した。本来なら今頃は勤め先に着いて開店準備をしているはず。それなのに、どうして森に。


 曖昧な記憶をたどる。


 今朝はいつもよりかなり遅く起きた。ここのところ精神的に参っていて、それを紛らわせようと昨夜遅くまで慣れない酒を飲んでいたせいだ。

 髪を整えるのもそこそこに、歯を磨いて着替えて家を出る。朝食は食べ損ねたが仕方がない。

 いつもの道を急ぎ足で通り抜け、コンビニの角を曲がり、ドラッグストアの前を過ぎ、そしていつもの駅へと駆け込んだ。愛想の良い駅員がすれ違い様に挨拶を投げかけてきたのも覚えている。

 それから改札を抜け、ホーム階へと——向かおうとしたところまで、記憶があった。


 しかし、その後が思い出せない。


「まさか死後の世界ってことは……いや、それはないだろうな」

 電車に轢かれたのではないか、との考えがよぎり自分の想像力に苦笑する。

 この森がどこかは知らないが、おそらく天国ではないだろう。そして地獄ではないと思いたい。


 もう少し考えてみよう、と男は冷静さを失わぬように深呼吸をし、所持品を確認することにした。

 手にしていた鞄やポケットの中身を一つずつ取り出し地面に並べていく。鞄は男の見た限りでは、使い慣れた自分のもののようだった。


 まずは財布。中のクレジットカードや免許証、現金に至るまでそのままだった。元々考えにくいものではあったが、強盗目的の拉致という可能性はこれで消えた。

 次にスマートフォン。電源は入るし、中のデータもおかしくはない。ただ予想したとおりに圏外で、通話もメールも使えない。

 その他、家の鍵。定期券。折りたたみ傘。名刺入れ。ティッシュ——どれも普段持ち歩いているものだ。


 少なくとも所持品を用いてこの場所を特定したり、脱出の手助けとしたりするのは難しい。

 男はそう結論付けると、再び自身にすべきことを問いかける。


 酔いが抜けるにはやや早い気もするが、頭は問題ない程度に働いているといえる。身体の方にも特に怪我などは見当たらず、動かすことに支障はない。


 おそらくこの場に留まっていても状況は変わらないだろう。

 それならば、と男はとりあえず助けを探しに森の中を歩くことにした。


   ◎


 それからどのくらい経っただろうか。


 体感としてはさほどでもないが、気が付けば日は沈み辺りは闇に包まれている。変わらず響くのは鳥の声と自身の足音くらいのものだ。

 歩き続けているにも関わらず、不思議と足に疲れはない。それどころか朝から何も口にしていないはずなのに、食欲はおろか喉の渇きすらほとんどない。


 異常であるのは理解していたが、それと現状がどう結びつくのかはまるで分からなかった。


「このまま……この森を出られないなんてことは」

 嫌な未来ばかり思い浮かぶ。

 一応、進みながら木に傷を付けて目印としてはいる。同じ道をぐるぐると迷うのを防ぐ為だ。そして今のところ一度通った場所へ戻ってはいない。

 それがむしろ心配だった。


 あれからの時間と歩いた距離とを考えると、そろそろ森を抜けてもおかしくはない。

 どこだか分からないとはいっても、家を出る時に見た時計の時刻から記憶が途切れているのは一時間と少々。その間に移動するにも限度がある。極端に生活圏から離れていることはないだろう。

 そう思っていたのだ。


 もしかしたら、と男は最悪のケースを考える。

 駅からこの森に至るまでの記憶の空白は一時間どころではなく、そこに加えて数日間空いているのでないだろうか。

 自分は何者かに拉致され、国内の僻地だか下手をすれば外国の郊外だかに放り出されているのでは。


「なんて、そんなわけはないか」

 考えながらもまた否定。さすがにありえないだろう。

 所持品も盗らず、身体も傷一つなく健康。何の為にわざわざこのようなことをしたのか、思い付く限り無意味でしかない。


 結局のところ、男に残された行動は道なき道を歩き回ることだけなのだ。


「……あれは」

 再び進もうと足を踏み出した時、視界の端に揺れる光が映った。わずかに上下しながら、ゆらゆらと。よくは見えないがランプか何かのようだった。

 誰かがいる。灯りを手に歩いている。


「あの! すみません、ちょっと!」


 声をかけると同時に、もし相手がこの状況を作り上げた張本人だったら、という可能性に思い至ったが、時すでに遅し。

 ランプを持つ者は声に振り向き、手の中の炎を高々と掲げた。


 幼い子供だった。

 厚手のコートに帽子、そこにマフラーを幾重にも巻いている。垂らした三つ編みにはリボンをあしらっているようだ。頼りない炎でも分かるくらいに髪の色は赤い。

 暗さと装いの為に表情は分からないが、おそらく向こうもこちらを見ているだろう。


 男はその姿にやや躊躇った。三十路過ぎの自分が、子供相手にどうしたものか。

「ごめんね、君。道に迷っているんだ。ちょっとこの辺りを案内してくれないかな?」

 ——駄目すぎる。客観的に見てその場で通報されても文句を言えない。


 だがしかし男には選択肢がなかった。この子供以外の誰か大人に、今後遭遇する保証はないのだ。

 人を呼ばれるならむしろ本望である、と開き直り男は意を決して口を開く。なるべく爽やかに、距離は詰めずに。


〝すまない。道が分からないんだが、誰かこの森に詳しい人が近くにいないだろうか。もう数時間も迷っていて困ってるんだ。助けてほしい〟


 男は悩みながらも英語で話しかけた。髪の色や服装からして、目の前の子供は日本人でない可能性がある。相手の言語は分からないが、日本語よりも英語の方が幾分かましだろう。


 言葉が通じたのか、子供は逃げ出すどころか近付いてくる。男はその様子に安堵しつつ、さらに念の為に両手を上げて敵意がないことも主張しておく。


〝お兄さん、迷子なの?〟

 小声でも聞き取れるくらいの近さまで歩み寄ると、少女と思しき子供は流暢な英語でそう尋ねた。

〝そうなんだ。気が付いたらこの森にいて、帰り道が全く分からない〟

〝大人なのに?〟

〝……ああ。大人なのに、迷ってる〟


 男の答えに少女はくすくすと笑う。どうやら迷子の大人を見るのは初めてのようだ。


〝道、分からないの?〟

〝恥ずかしいことに、そう。誰かこの辺りの道に詳しい大人に心当たりはないかな〟

〝お父さんとお母さんなら街へ行くことがあるから、ヒトの多いところも知ってると思う。家に案内してあげようか?〟

〝助かるよ、ありがとう〟

〝こっち。ついてきて〟

 少女はそう言うと踵を返して元来た方へと歩き始めた。


 親切なのは良いことかもしれないが、見ず知らずの他人に対し危機感がなさすぎる。

 男は正直なところ少女の行く末をかなり心配したが、今回ばかりは自身の怪しさを棚に上げて優しさに甘えることにした。けれども後で親御さんにはそっと、今後の忠告を伝えておいた方がいいかもしれない。


〝ねぇ、お兄さんは森の外から来たんでしょう? 街に住んでるの?〟

〝そうだよ。遠い街〟

 少女の言う街が彼にとって馴染みのある場所とは到底思えなかったが、変に否定しても面倒なので曖昧に答えておく。

〝いいなぁ! アンはね、森からほとんど出たことないの。街で遊んでみたいなぁ〟


 どうやら少女の名前はアンというらしい。


 アンは入り組んだ樹々の間を慣れた足取りで跳ねるように進んでいく。はるかに歩幅の広いはずの男でも、遅れないようについていくのがやっとだった。彼女にとってこの森は家の庭のようなものなのだろう。


〝お兄さん、ここへは独りで来たの? それとも友達と一緒?〟

〝独りだよ〟

〝そうなんだ! 友達いないの?〟

〝……いるよ〟

 歩きながらも幼い好奇心は尽きないようで、無邪気な質問を繰り返す。男は一つ一つそれに応じていき、少女はその度に笑ったかと思うと、すぐにもう次の答えを求めるのだった。


 会話が続くにつれ、アンは次第に男に気を許したようで、時折ちらちらと後ろを振り返るようになった。

 前を見ず暗がりを歩く危うげな仕草に対して男は注意するべきか悩んだが、そのまま何も言わなかった。

 少女が、腕に抱えた何かを落とすまでは。


〝よそ見はしない方がいい。こう暗いと、次は転んでしまうぞ〟

 そう言いながら少女が落とした物を拾ってやる。お姫様か何かの人形だ。

 アンは素直に頷くと、男から人形を受け取ってぎゅっと抱きしめた。その腕の中にはもう一つ、兎のぬいぐるみが顔を覗かせている。


〝それは君のお友達かな〟

〝うん。ほらケティ、ちゃんとお礼を言わなきゃ〟

 人形を揺すり挨拶させようとする様子に男は微笑み、ふと思った。そして何とはなしに思いつきを口にした。


〝この子の名前はケティ、っていうのか〟

〝そうなの。かわいいでしょ〟

〝そっちの兎さんも友達?〟

〝もちろん。名前はね……〟


〝〝モーリス〟〟


 二人の発した言葉はぴったりと重なる。

 アンはきっと目を丸くし、驚いた表情を浮かべていることだろう。夜闇で見えないのが残念だ。


〝どうして知ってるの? お兄さんは使なの?〟

〝はは、違うよ。ただちょっと本が好きなだけだ〟

 幼い少女は男の言う意味がよく理解できなかった。

〝本が好きだと名前が分かるの?〟


 一方、男はてっきりアンがを知って由来としていると思っていたので、彼女が不思議がることこそが不思議だった。


〝なんだ、君は知っててそう名付けたわけじゃないのか〟

 それならば彼女の父母が名前を決めたのだろう。偶然で付ける名にしてはあまりに出来すぎている。


 アンはなおも気になっているようで男の方に顔を向けたままだったが、再度問おうとしたところでぱっと振り返りランプを持つ手を突き出した。


 闇の中にぼんやりと灯りが見える。木造の小さな家だ。

 次第に見えてくる切妻屋根の外観はまるで絵本の挿絵から抜き出してきたような雰囲気で、明らかに男の街とは文字通り住む世界が違う感じがする。


〝お父さん、お母さん! ただいま!〟

 アンは家の玄関へと駆けていくと、元気に声を張り上げた。言い終わるかどうかのうちにきぃと音を立てて扉が開き、中から声が聞こえる。

〝アン、こんなに遅くまで外で遊んでは駄目じゃないか〟

〝心配したのよ。これからお父さんと探しに行くところだったんだから〟

〝ごめんなさい……もっと早くに帰るつもりだったの。でも、遅くなっちゃった。お兄さん、歩くのがゆっくりなんだもの〟

〝お兄さん?〟

〝そう。道に迷っていたから、ここまで案内してきてあげたのよ。悪い人じゃなさそうだし、とっても困っていたから〟


 アンの両親は娘の話でようやく外にもう一人、来客がいることを知った。暗がりの中、娘のものより一回り大きなランプを手に外へ出てきて頭を下げる。

〝すみません、お客さんがいらっしゃるとは。娘が失礼なことをしなかったでしょうか。何もない家ですが、中へどうぞ〟


 男は絶句した。


 家から現れたのは小柄な生き物——ウサギのような人間のような、何者かだった。


 まるでバニーガールのように獣の耳がついた人間、というわけではない。かといって服を着て喋る動物、というのも違う。

 骨格はヒトに似て、首や肩、腰などの位置はしっかりと分かる。手足の形状もヒトと近い。髪と呼べるものもある。

 しかし顔を含む皮膚には柔らかい毛が生えており、耳は天を向くように頭頂部から伸びて時折ぴくぴくと動いていた。


〝……あー、ええと……〟


 これは何だろう。

 夢、なのかもしれない。けれど夢にしてはあまりにも妙で、何かが違う。数時間前に自身で否定しているくらいに、夢らしからぬ何か、よく分からない違和感をどこかで認識している。


 アンの父は男の動揺の理由がまさか自分達の存在とは思いもせず、男のことを純粋に心配していた。

〝大丈夫ですか? おや、よく見ればなんて薄着なんだ! 身体が冷えているんだね、早く中にお入りなさい〟

 促されるままに家に迎えられる男。どうやら寒さにやられてうまく話せないでいる、と思われたようだ。

〝お母さん、お客さんに暖かい飲み物を〟

〝ええ、そうね。アン、お手伝いして〟

〝うん、分かった!〟


 見れば帽子やマフラーを取り去ったアンも両親と同様に長い耳を立て、およそヒトらしからぬ毛並みの肌をしている。全く気付かなかった、というよりもまさかこのような姿とは思いもしなかった。


 尋ねることも考えることも出来ぬまま、あれよあれよと男は食卓につかされた。肩には毛布が掛けられ、卓上には温かい紅茶らしき飲み物とクッキーに見える菓子が並べられる。


〝あの……〟

〝遠慮はしないでいいんだよ。道に迷っていたのなら、お腹が空いているだろう? まだ夕食の支度はこれからでね、申し訳ないが準備ができるまではこれでも食べて待っていてほしい〟

〝あ、その……はい。ありがとう、ございます〟

 本音をいうと空腹はさほど感じておらず、何より落ち着いて食事をするどころではない。

 しかしながらこの家族の善意を無下にしてその存在を問う、というどう考えても不躾な行動をとる気にはなれなかった。


 結局、男は紅茶を手にしたままぼんやりと親子を眺めつつ、混乱している頭を落ち着けようと専念することにした。

 素朴な味の菓子をつまみながら、改めて親子三人で料理をする様を観察する。見れば見るほど、その外見的な異質さを除けばおかしな点は何もない。

 自分の感覚の方がおかしいのでは、と男が自問し始めるくらいには、ごく普通の一家の日常に見えた。


 あぁ、おかしいのはこの家族なのか、それとも俺なのか。

 まとまらない考え、見つからない答え。

 靄がかかったような男の心を現実に引き戻したのは、背後から聞こえてきた言葉だった。


「声が聞こえたんだけど、お客さん……かな?」


 二階へと続く階段から少年が顔を出していた。アンやその両親とは違う。男が思うところの——自分と同じ、普通の人間だ。


「晩ご飯の用意なら、僕もお手伝いするよ」

「いやいや、いいんだ。君もお客さんなんだからね。また呼びに行くから、部屋でゆっくりしていなさい」

「分かった、ありがとう。何かあれば言ってね」


 男は驚いた。

 少年の存在に、ではない。その言葉にだ。


 少年が使っていたのは、そしてそれに応じたアンの父が返したのは——紛れもなくだった。


 内心の動揺を抑え、男は口にする。

〝……すみません、俺の他にも先客がいたんですね〟

〝ああ、そうなんだ〟

「……さっきの子はご親戚ですか?」

「ははは、見てのとおり違うよ。あの子は若いけれど立派な旅人さんでね。独りで街を渡り歩いているんだ。私なんかよりよほど道に詳しいかもしれないよ」

〝……じゃあ、俺の住む街までの道も知っているでしょうか〟

〝どうかな。でも、そうだといいね。ここのところ雪が多いが、天気が安定したら街まで案内しよう。それまでは君もこの家に泊まりなさい〟

「……食事の前に少し、さっきの子に話を聞いてきても?」

「もちろん構わないよ。あの子に貸している部屋は二階の奥だ。緑色の扉だよ」

〝……ありがとう、感謝します」


 気持ちが悪かった。

 男が英語で聞くと、アンの父は英語で答える。日本語の時は日本語で返す。英語と日本語を織り交ぜても、相手はその会話に全く不自然さを感じていないようだった。明らかに奇妙だ。


 さっきの子供、はっきりと日本語を話していたあの子なら何かを知っているのかもしれない。

 男は希望に縋り、緑の扉に手を掛けた。


   ◎


 ノックして部屋に入ると、窓際に置かれた木製のベッドに少年が腰掛けている。年齢はだいたい中学生くらい。短く整えられた髪に、小綺麗なシャツと半ズボン。ご丁寧に蝶ネクタイやソックスガーターを着用している。

 男が普段街でよく見かける子供の普段着とはかけ離れているあたり、やはりここは日本ではなさそうだ。もっとも、アンの家族を見た時点で今更疑いの余地はないが。


 少年は男が部屋にやって来るとは思っていなかったようで、見るからに動揺していた。困り顔で眉を寄せ、不安げにぼそぼそと呟く。

「まいったなあ。後で話したいとは思ってたけど……どうしよう」


 男には少年が何を心配しているのかが分かっていた。この子供だけではない。多くの日本人は男の姿を見て、すぐに話しかけてこようとはしないからだ。


 さて、そろそろ安心させてやろうか、と男が思ったところで、少年は意を決したように顔を上げた。

「……大丈夫、うん。ええと」

 緊張を隠せてはいないが、一生懸命な作り笑いで明るく口にする。


「ハロー、ナイストゥーミーチュー。ハウアーユー?」


 たぶん、これが少年にとっての精一杯だったのだろう。棒読みでここまで一息に言ってはみたものの、この後どうすればいいのか分からないようだ。

 このまま黙っていたらどうなるだろう、と男は思ったが、さすがに可哀想だ。笑みをこぼして軽く手を振ってみせる。


「日本語でいいよ。こう見えて、祖母が日本人でね。もう二十年くらいは日本に住んでるんだ」

「えっ」


 真っ赤に頬を染める少年の黒い目に男の姿が映る。

 背はすらりと高く、肌は少年のものより白い。長くさらさらとした金の前髪から覗く瞳は淡く輝いている。


「あの、本当に? さっき、おじさん達と話している時に英語が聞こえたような気がしたから」

「ああ、その方がいいかと思って使っていただけだ。いや、まさかこんな所で日本語が通じるとは思わなくて。だってあんな……その、ウサギ……」

「ふふ、そうだよね。あぁ、それにしても良かった。おじさんかおばさんに通訳を頼まなくちゃ、と思っていたから」


 安堵の表情を浮かべる少年に対して男は聞きたいことが幾つもあった。少年の方もそれを察しているようで、男に小さな木の椅子を勧める。

「座って。その様子だとへ来て間がないみたいだし、僕に分かることなら説明してあげるよ」

「ありがとう」


 腰を下ろして考える。何から尋ねたらいいのだろう。


「それじゃまず、ええと。はどこなんだ? 日本じゃない、よな……さすがに」

「うん、そうだね。がどこかは正確には僕も知らない。僕も気が付いたら来ていたから。日本どころか外国でもなくって、きっと別の世界に来てしまったのかな、って僕は思ってる」

「まあ、そうだよな。だって……」

「アンの家族のことかい?」

「ああ。あの姿はどう考えても普通じゃない、というか……」

「うんうん、分かるよその気持ち。でも、本人達には言わないでおいてね。では別に、変でも何でもないことだから」


 少年の説明によれば、アンの家族のような者達は亜人と呼ばれているらしい。

 亜人はあくまでも人間であり、彼らといわゆるヒトとの差は、男の感覚でいうところの人種の違い程度のものでしかないそうだ。


「僕達の思う動物——獣と、彼らを一緒にしてはいけないよ。それはとても失礼なことだから」

「分かった」

「ありがとう。これは僕の恩人達にとって大切だから、僕にも大事なんだ。理解してくれて嬉しいよ」


 少年は饒舌で、思考や仕草が年齢のわりに大人びているようだった。ここに至るまで、彼にも色々とあったのだろう。

 男はそんな少年と出会えた幸運に心から感謝した。

 見慣れた世界に戻れるようになるまでどのくらいかかるか分からない。常識を知らずに生きていくのは無謀に思える。


「他にも何か覚えておくべきことがあれば教えてほしい」

「うーん、そうだなぁ。では魔法使いって呼ばれてる存在がいるらしいとか、そのくらいかな」

「言語問わずに言葉が通じるのは、魔法の力なのか?」

「それは違うよ……いや、違わないのかな? 魔法のかかった特別な場所があるらしくて、そのおかげなんだってさ」

「はあ」


 亜人。魔法使い。

 まるで、絵本の中にでも紛れ込んでしまったようだ。


「……念の為に聞いておくが、元の世界への帰り方は分かるのか」

「念の為、ね。そう言うってことは、分かってるんでしょう?」

 男の問いは少年の予想の範囲にあるものだ。なぜなら——少年自身もずっと、それを探していたのだから。


「僕も色々試してみたけど、どうにも分からないんだよね。寝て起きても意味はなかったし、誰かに聞こうにも同じ境遇の人に出会えたのは今日が初めてだし。死んだら戻れるのかも、とか思ったりもしたけど、試す気にはならないし」

「そうか……」


 男は嘆息するしかなかった。

 まあ、それはそうだろう。簡単に戻れるのであればこの少年がこんなにに詳しいわけがない。


 うなだれた男に少年は同情し、落とした肩にそっと手を置く。

「戻りたい……よね。そりゃあ」

「…………」

 男は頷くとそのまま顔を上げた。くよくよしていても仕方がない。ともかくも、仲間がいるのだ。この少年と協力してなんとか帰る道を見つけなければ。


「そういえば、名前は?」

 ふと、聞き忘れていたことに気が付いた。少年の方もそういえば、といった顔をしている。


「名前って、僕の?」

「他に誰がいるんだ」

「だよね。ええと、僕のことは『A』って呼んでよ」

「……A?」

「あ、うん。それでいいや」


 自分の名前が好きじゃないんだ、と彼は笑って言う。男はそれ以上は聞かなかった。


「僕はなんて呼んだらいい?」

「俺の名前は——」


 声に出して伝える。

 するとAは笑み失くし、大きな目を丸くして真顔のままもごもごと口を動かそうと努力した。この反応も慣れている。

 まあ、言いにくいよな。


「ほら、これ」

 取り出した名刺を一枚。大抵聞き返されるので、常に財布の中に何枚か入れてあるのだった。

「やるよ」

「わぁ、いいの?」

 Aは不慣れな手つきで名刺を受け取るとまじまじと眺める。人生で初めてもらった名刺に違いない。


「ふぅん、カフェで働いてるんだね。合ってる?」

「ああ」

「……でも、ごめんね。名前はやっぱり読めないや」

「そうか。だよな」

 名刺は店長の意向によって実用性よりも洒落感を重視したデザインになっており、名も英語で書かれている。

 カフェ、は読めたようだが、肝心の名前は読めなかったようだ。


「……あのさ、Qちゃんでいい?」


 頭文字を取って、と少年は言う。

 その呼び名に男は一瞬言葉を失い、ややあって頷いた。


「構わないよ。じゃあ、そう呼んでくれ」

「あの、もしかして駄目だった? 違う呼び方にしようか?」

「いや、それでいい。ただちょっと、思い出す奴がいただけだ」


 子供の頃に付けたあだ名を、大人になってからも呼び続けていた友人。彼は当時Aと同じくらいか、やや年若かっただろうか。

 もう会えないのか、と思うと寂しさが込み上げてきて、今更ながらに自分の置かれている状況がいかに孤独かを思い知る。


 その時、階下からアンの呼ぶ声が聞こえた。どうやら食事の準備ができたらしい。


「また後で話せるかな? 僕あんまり眠くならなくて、夜は暇なんだ。その、もしQちゃんがよかったら、だけど」

「俺もまだ聞きたいことがあるし、むしろ助かるよ。旦那さんに頼んで、床で寝るのでいいからこの部屋に泊めてもらえるように聞いてみるか」

「あ、それは……」


 Aは照れたように視線を逸らす。Qはその意図を図りかね、その顔を覗き込む。

 やがてAは目を逸らしたまま、言いにくそうに呟いた。


「それは、困る。ええと、気付いてなさそうだから伝えておくんだけどね? その、分かりづらいと思うけど……僕も一応は女性だからさ、ちょっとさすがに気にするかな」

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