第5話 急転直下、あるいは予測しうる出来事

 佐伯カコが住んでいる場所は、思ったよりもコンビニから離れていなかった。歩いて十分と言ったところだろうか。

 オレンジの壁は日にせて、色がぼけている。手すりや鉄柱、雨樋あまどいの塗装も剥げ落ちており、一部はびていた。


 新しい集合住宅の建設が禁止のこの地域では、年季の入ったアパートやマンションはよく見かける。それでも、ここまでおんぼろなアパートは珍しかった。


 目的の人物の部屋は拍子抜けするほど、簡単に見つかった。

 アパートの一階、一番手前。「一〇一号室 佐伯」と書かれた表札のインターフォンを美和が押した。リンゴーンと鈍い音が響く。チャイムの余韻をしっかり聞き終えても反応がない。

 美和が、「おかしいなあ」眉間にしわを寄せる。今度は、扉を遠慮なくゴンゴンと叩く。


「カコさーん? あたし、美和だけどお。居るー?」


 すぐに、内側からガタッと音が聞こえた。中に誰かいる。それは間違いなかった。けれども、返答がない。


「まさか、泥棒?」


 そう呟いた美和を筆頭に、全員に緊張が走った。しかし、耳を澄ましていると、緊迫した空気に不似合いな、トタトタと妙に軽い不規則な足音が近付いてくるのが分かった。何かが来る。俺は、帆布のリュックを前にして身構えた。

 ギギギと、ドアが小さく開く。

 次の瞬間、吐き気を催す酸っぱい匂いと、トンという音、そして女の子の泣き声が俺の耳に入った。


「美和ちゃん! おばあちゃんが!」


 真っ先に部屋に入ったのは、天神だった。遅れを取る形で、俺も部屋に入る。

 室内は、外気と同じくらいに蒸し暑い。そして臭い。狭いキッチンのある廊下は一瞬で終わり、次に目に入ったのは布団を剥ぎ取られて、ぐったりと横たわる老婦人だった。


「何をして、」

「早川! 今すぐ救急車を呼べ!」

「え?」

「早く!!」

「わ、分かった!」


 よく見れば彼女の側には、吐瀉物としゃぶつが散らばっていた。悪臭の原因はこれかと、俺は鼻をつまんで外に出たくなる。けれど、この部屋の主人ともっとも関わりがなく、この場所に不似合いのスリーピースを着た男がしゃがみ込み、老婦人の首に手を当てているのを見て、それは出来なかった。


 勢いに呑まれて答えたものの、俺はこの家の住所を知らない。分かるとすれば、彼女くらいだろう。玄関で泣く少女を抱いてあやす美和に急いで声を掛けた。


「美和さん、すみません。ここの住所って分かりますか? 救急車を呼びたいんですけど」

「え、救急車?!」

「はい。今、奥で天神が何かしているみたいですが」


 美和の顔が途端に青褪あおざめていく。意外にも冷静さを先に取り戻したのは、彼女に抱きついていた少女だった。


「ひな、わかるよ!」


 少女は、パッと美和から身体を離すと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を強引に袖で拭う。トトトッと冷蔵庫に走りより、側面を指さした。そこには、『もしものメモ』と書かれた、文庫本くらいの大きさの紙が貼ってあった。

 名前、血液型、生年月日、住所。ご丁寧に、かかりつけ診療機関まで。「自分の情報」と印刷された左側全ての項目が記載されてあった。念の為、やけに白い右側の「緊急連絡先」と書いてある項目も見る。そこには、〇九〇から始まる携帯番号と、括弧かっこくくられたヒナ母と書かれていること以外は何もなかった。


 スマートフォンで一一九を押して、消防署に住所と状況を伝える。突如、フッと風が通るのを感じた。

 窓を開けたのか。

 臭いが少し弱まり、先程よりは幾分涼しくなった気がした。


 布団の上で横向きにされたカコは、両足を上げられ、顔は横に向けられていた。脇には、氷が挟まれ、額には白いシートが貼られている。

 両隣に陣取る美和とひなは、何かの雑誌で、懸命にパタパタと扇いでいた。

 天神は、コップにスプーンを突っ込んでは、カコの口元に運ぶことを繰り返す。口元からこぼれた液体は、丁寧にタオルで拭う。

 俺の知らないうちに、見事な連携が出来上がっていた。


「今、消防に電話した。直ぐに向かうって」


 俺が声を掛けると、僅かにホッとした空気が流れた。


「なんか手伝えることある?」

「エコバッグからペットボトルを取り出して、カコさんの腋に挟んでほしい。あと足首にも」

「了解」


 言われた通りにペットボトルを配置しながら、失礼に当たらない程度に、老婦人を盗み見た。顔色は少しマシになった気がする。よく見れば、皺だらけの細い首にも白いシートが貼られていた。


 佐伯カコから離れ、ぐるりと部屋を見回す。本当にこぢんまりとした部屋だった。小さなテレビ。粗末なテーブル。変な形の本棚。その本棚の一角に置かれているのは、空に見えるジャム瓶。唯一、カーテンだけは、夏祭りのヨーヨー風船みたいな綺麗な模様の入ったスカイブルーをしていた。


 それから十分足らずで、救急車は到着した。救急隊員たちが手際よく、ストレッチャーで佐伯カコを搬出する。美和とひなは一緒に乗って行くらしい。俺と天神は遠慮した。特に強い関わりや思い入れがあるわけでもなかったからだ。家の鍵を使うことの出来ないひなに代わり、美和が戸締りをする。


「ひなちゃん」


 救急車に乗り込もうとする少女に、天神は小さな箱を手渡した。突然の貰い物に、彼女は目をパチクリとさせる。天神は優しく笑いかけた。


「幸せが訪れますように」


 小さく細い首が目一杯傾く。ひなは、改めて手元の箱をジッと見つめた。間もなく彼女は何かに気が付いたのだろう。まん丸の目が更に大きくなる。少女は、小さな箱を胸にギュッと抱きしめた。


「ありがとう! 神様!」


 ひなは小さな手を大きく振ると、慌ただしくしている救急車に乗り込んだ。ひなが乗ったのと入れ違いに、美和が顔を出す。


「あなたたち、ありがとう! また、今度、会いましょう!」


 それだけ言うと、また車の奥へと引っ込んで行った。パタンと目の前で救急車の後ろの扉が閉められる。俺たちは、サイレンを上げて走り去る白と赤の車を静かに見送った。

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