お父さんの密やかな楽しみ
楽しみだ。
実に楽しみだ。
今日は月に一回のお楽しみの日だ。
仕事を終えた俺は素早くデスクを片付けていた。
「内海主任、何か機嫌良さそうですね」
「ん? そうかい?」
「ええ、そう見えますが」
「まぁ、大したことじゃないんだけどね」
「はぁ?」
部下は不思議そうな顔をするのだが、もちろん本当のことなんて教えてはあげない。これから家に帰って始まるのは、昔からの俺の密やかな楽しみなのだ。決して他人になど教えてあげることはない。ニヤニヤした笑いを必死にかみ殺しながら、俺は会社を後にする。
俺の名前は
そう誰にも負けない。
これだけは絶対に負けないという事がひとつだけある。
それは俺の妻である
彼女と出会ったのは忘れもしない。大学時代の最後の年だ。共通の知人の紹介により知り合った当時の彼女は可憐なクールビューティーだった。いや、今でも十分に可憐だし、十二分過ぎるほどにビューティーだ。ただ、あのときと比べると性格は年をとって少し丸くなった。若い時のナチュラルに他人を見下す、あのゾクゾクする目が懐かしいときもあるのだが、それはそれ。今の彼女もたまらなく魅力的だ。
家に帰ればその魅惑の妻が待っている。それだけで俺の灰色の人生が彩られるのだ。
「ただいま」
玄関を開ける。
嬉しさを隠しきれずに声が大きくなってしまう。
だがそれも仕方がない。俺には密やかな楽しみがあった。それは月に一度の楽しみだ。妻は美しいだけでなく多才な人間なのだが、その中にとりわけ素晴らしい特技を持っている。それは耳かきだ。彼女の指先が生み出す妙なる技は出会って20年以上経った今でも飽きることなく俺を魅了し続けるのだ。
しかしそんな素晴らしい特技であるが、俺は自分の中で厳正なルールを敷くことにしていた。それが『耳かきは月に一度だけ』という取り決めだ。悦楽は飽食してはいけない。一か月の忍耐の後、溜めに溜めた耳垢を取り除いてもらうことで、俺は解放のカタルシスを味わうことが出来るのだ。
はやる気持ちを抑え、靴を脱ぎ、家に上がる。
むっ? おかしいな?
この時間なら妻はすでに帰っているはずだ。靴も置いてあるし、家にいるはずだ。ドアの向こうからテレビの音もする。しかし反応が返ってこない。
少し心配になり、俺はキッチンに入り、そこからテレビの音がする居間に目を向ける。
そのとき、俺の目には信じがたい光景が飛び込んできた。
「あら、アナタ、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
ソファに座っている妻を見て、俺は何とかその言葉だけ返すことが出来た。
「えっと……何をやってるんだい?」
もちろん何をやっているかなんて見れば解る。しかし聞かずにはいられなかった。そして妻は思った通りの言葉を口にした。
「ああ、誠にね、耳かきしてあげてるのよ」
「そ、そうなんだ……」
そんなことは解っている。
俺が聞きたいのはどうして誠を膝枕で耳かきしているのかっていうことだ。
俺は妻の正面に回り込んで膝を見ると、そこには血を分けた実の息子が恍惚の表情をしながら母親に膝枕されていた。それを見ると心の底からふつふつと嫉妬心が湧き上がってくる。
おい、お前! その膝枕は父さんのものだ!
いったいぜんたい誰の許可を得て、その
そこは父さんだけの
「アナタ、どうしたの?」
「いや、何でもないよ。それにしてもいったい、どうして急に誠に耳かきなんてしてあげているんだい?」
「この子がね、耳が痒いっていうから。この子、自分で耳かき出来ないんですって」
「へぇ……そ、そうなんだ。誠も大きくなったけど、子どもっぽいところがあるんだな」
それだったら母さんじゃなくて、お前の彼女にやってもらえばいいじゃないか!
思わず言葉に出そうになったが、それを何とか飲み込む。母さんに似たのか、息子の誠は容貌に不足がなく、女性からモテることが想像に難くない。家に連れてきたのは今の彼女である美咲ちゃんが初めてだが、中学や高校の時にも女の子と付き合っていた節がある。
別に羨ましい訳じゃない。何たって、父さんには母さんという最高の伴侶がいるからな。有象無象の女など、父さんの人生には必要ないのだ! ただ父さんには母さんしかいないんだから、お前は他所の女で満足していてくれ。
「あら、ここも汚れてるわね。ちょっと強くするけど痛くない」
「うん……だいじょうぶ、きもちいい」
母さんが耳の奥を責めると、よほど気持ちが良かったのだろう。だらしのない顔をして誠は答える。きっと耳の奥をグリグリと責められているのだろう。
「痛くない?」
「ダイジョウブ……コレ、スゴイ、キモチイイ」
「そう、じゃあ、もっと強めでしてあげるわね」
「ぁぁ~~~ぁ」
めくるめく快美感に身を委ねているのか、誠は唸り声をあげる。
妻が自分以外の男に耳かきをしている。その事実に嫉妬の炎が燃え上がる。
クソッ!!!
これまで一度も手を上げたことがない自分にとって、実の息子をグーで殴ってやりたいと思ったのは生まれて初めてだ。殺意すら湧き上がってくるのだが、これでももうすぐ五十になる一児の父だ。殺気と怒気を刀の鞘に納めるように抑える。
大きく深呼吸だ。
「どうしたの、ため息なんてついて?」
「いや、ちょっと疲れてね」
「そう?」
息子の耳をほじるのに夢中になっているのか、幸いにも妻は俺の異変に気づいてはいない。
さぁ、落ち着くのだ。
別に母さんを盗られた訳じゃない。思い出せ。相手は自分の息子だ。ならば許そう。耳の穴をほじられて法悦混じりの息を吐く誠の姿に、怒りの針が振り切れそうになるが、広い心で許すのだ。
キッチンでお茶を淹れ精神を落ち着かせる。そしてお茶と一緒に嫉妬の心を飲み干すのだ。
耳かきが終わった時、息子は呆然自失としていた。
ふん、未熟者め。
醜態を晒す我が子に幾ばくの優越感を感じるのは雄としてのプライド故だろう。そんなとき魅惑の妻の声がした。
「アナタもしてあげるわね」
ソファに座った妻は膝をポンポンと叩く。これは妻が耳かきしてくれるときの合図だ。
今日は月に一回のお楽しみの日だ。柔らかい膝枕が待っている。しかしだ。
「いや、今日はいいよ」
「え!? そうなの?」
「ああ」
「め……珍しいわね」
妻は驚いた顔をするのだが、今日は耳かきしてもらう訳にはいかない。
さっきまで息子の頭が乗っていた膝を見て、俺はそう決心するのだった。
◇
楽しみだ。
実に楽しみだ。
今日は月に一回のお楽しみの日だ。
仕事を終えた俺は素早くデスクを片付けていた。
「内海主任、何か機嫌良さそうですね」
「ん? そうかい?」
「ええ、そう見えますが」
「まぁ、大したことじゃないんだけどね」
「はぁ?」
部下は不思議そうな顔をするのだが、もちろん本当のことなんて教えてはあげない。これから家に帰って始まるのは、昔からの俺の密やかな楽しみなのだ。決して他人になど教えてあげることはない。ニヤニヤした笑いを必死にかみ殺しながら、俺は会社を後にする。
先月は結局、耳かきしてもらわなかった。あの後も、そういう気分にならなかったからな2カ月分の耳垢が溜まった耳はもう痒くて仕方がない。しかしこれも怪我の功名だ。ここ20年くらい、こんなにも耳かきをしなかったことはない。この耳のコンディションで耳を掻いてもらえば、それはもうボリボリと凄い音がするだろう。
めくるめく体験を夢想しながら、俺は帰途へと着く。そうして玄関を開けて、キッチンから居間を覗いたとき、俺は驚愕のあまり言葉を失った。
「あら、アナタ、どうしたの?」
「あ、いや……その」
上手く言葉が出てこない。だがそれも詮なきことだ。何しろ帰ってきた我が家の居間。そのソファの上では女の子が膝枕されながら、耳かきされているのだ。
「どうしたんだい?」
「ああ、美咲ちゃんのこと?」
「うん、そうだね」
もちろんこの娘のことは知っている。息子の彼女である
そんな彼女がいったいぜんたいどうして耳かきなんてされているんだ?
戸惑いながら理由を聞くと、どうやら愚息が原因らしい。
おのれ、誠め。先月に続いて父さんの邪魔をするとは、なんたる親不孝者だ。
ギリリと歯噛みして美咲ちゃんを見ると、彼女は夢見心地の表情で膝枕されている。
ああ、なんと言うことだ。父さんの
恨みがましい視線を向けるも、母さんの妙技にみせられたら美咲ちゃんは焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。彼女は耳の穴を掻き回されるのがよほど心地よいのか、母さんの指先が動くたびにピクピクと足の指をのけぞらせて痙攣していた。
ぬぅ、何たることだ。
今日、そこで耳かきしてもらうのは父さんのはずだったのに。それに母さんも母さんだ。君はそんな誰にでも耳かきするような女だったのか?
実の息子ならば、まだ許そう。しかし美咲ちゃんは他所の子じゃないか。それを自分の膝の上に乗せて、あまつさえ耳かきまで!!
ふつふつと怒りが湧き上がる。
しかしそんな内情など知らない母さんはのんびりとした口調で言うのだ。
「次は美咲ちゃんが誠に耳かきしてあげないとね。あの子、けっこう遊んでるから、美咲ちゃんがきっちり手綱を握っとかないとね」
「ふぁ……ふぁい、わかりまひたぁ」
焦点の合わない目をしたまま美咲ちゃんが答える。
しかし俺はその言葉を聞き、稲妻を受けたような衝撃を覚えた。
そうだ。彼女はいずれ誠のお嫁さんになるかもしれない女の子なのだ。実際に誠の口からも彼女との将来について少し話したことがある。つまり、それはもう彼女は家族も同じということだ。
俺は大きく深呼吸をする。
「どうしたの? 大きな溜息ね」
「いや、ちょっと今日はくたびれたんだよ」
「そう、いつも大変ね。誠が帰ってきたらすぐにご飯にするわね」
「ああ」
会話の間にも耳かきは忙しなく美咲ちゃんの耳の穴を弄り回し、彼女の口元から悶えるような声が漏れている。その声に激しい嫉妬を覚えるが、俺はそれを必死になって凍りつかせる。
耐えろ! 父ならば、男ならば、この言いようのない怒りを呑み込むのだ。
うむ、大丈夫。これで平常運転だ。あといっぱいお茶を飲めば、何とか今日はやり過ごせるだろう。
それから少しして買い物に出ていた誠が帰ってきたのだが、その日の夕飯は何だか味を感じない、複雑なものだった。
その晩、俺は頭から布団をかぶりながら床に着いていた。結局、今日も耳かきはしてもらっていない。そういう気分にならなかったからだ。
ああ、何だか今晩は夢見が悪そうだ。
そう思った時、隣の布団から妻の声がした。
「ねぇ、アナタ」
「ん? 何だい」
「耳かきしてあげるわよ」
そう言われて布団から顔を出すと、妻がいつものように座って膝をポンポンと叩いていた。
「どうしたんだい……急に?」
「だって、して欲しいんでしょ?」
「ぐぬぅ」
その言葉を聞いて唸りをあげる。どうやら彼女にはずっとお見通しだったようだ。
そうだな。今ならもう他人の匂いなんて残っていないだろう。そう思い、俺は妻の膝にその身を委ねる。左耳を下にして頭を乗せた膝枕は相変わらず柔らかで心地の良いものだった。これこそが俺だけの
「それじゃあ、耳かきするわね」
「ああ、やってくれ」
夕飯前に感じていた嫉妬心など、もう微塵も残っておらず完全に吹き飛んでして待っていた。もう楽しみで仕方がない。何しろ2カ月ぶりの耳かきなのだ。
耳かきの先端にある小さなスプーンが耳の浅い部分に触れたときズボリと大きな音がした。
「おおっ!!」
「凄く溜まってるわね」
「ああ、ボリボリ音がするぞ」
興奮混じりに応える。
ズブリ、ズボリ、と音がする。2か月かけて堆積した耳垢は層になっていて、妻の操る耳かきがそれに触れると粉々に粉砕されていく。同時に感じるむず痒さと、掻き毟られるような爽快感。音が鳴るたびに俺の総身に震えが生じた。
ボリボリ、バリバリ――大きな音が鳴り響く。
余程の量なのだろう。普段なら数回も掻けば終わる部分なのだが、今日はなかなかに終わらない。
細い指先が繰る耳かき棒は踊るように垢を掻きだしていく。耳の浅い部分にある窪みが時間をかけて暴きたれてられると、俺の身体からは完全に硬さというものがなくなってしまっていた。
「気持ちいいな。やっぱり君の耳かきは最高だよ」
「そう? そう言われると嬉しいわね。誠も美咲ちゃんも、耳かきしてるとすぐに寝ちゃうから。じゃあ、奥の方もするわね」
「ああ、頼むよ」
妻の声が弾んでいる。表情は見えないが、きっと満足げに微笑んでいるのだろう。この笑顔を引き出せるのは夫である俺だけなのだ。
ぬほぉっ! きたぁっ!!
考えている間にも耳かきは続く。
次に責められたのは耳の奥の部分だ。指では絶対に触れることが出来ない奥まった秘所。そこに竹で出来た器具が押し当てられる。竹は粘りと柔軟性のある素材ではあるが、それでも薄い粘膜を刺激するには十分すぎるほどに鋭い感触を持っている。それが押し当てられるのだ。
スプーンの先っちょが触れると、痛みにも似た快感が電流となって脳内をかき混ぜる。
ぐぬぅぉ! 今日は一段と効くなぁ!!
ゾリゾリ、ズリズリと音が鳴る。奥に溜まった細かい垢を繊細な動きでかき集めているのだ。先ほどの豪快な、バリバリ、ボリボリが重機を使った土木作業なら、この、ゾリゾリ、ズリズリは繊細な遺跡の発掘作業だ。
ゾリゾリ、ズリズリ、最後にズゥ~っと掻き出される。
ぬぉ~っ! スゴイ、掻き心地だぁ!!
意識を極彩色に染めながら、俺は妖しい快楽に身を委ねる。
もちろん時間をかけて溜められた耳かきがこれだけで終わるはずもない。むしろ妻の耳かきはこれからだ。
耳かきはしなるように振り回され、耳道に張りついた垢の塊をカリカリと擽っていく。子気味のよい音が幾度か鳴り響いた。
「大きいのがあるわね」
そう言って、妻は何度もカリカリと耳垢を引っ掻いていく。そこはこの2カ月の間、俺の耳に痒みを発生させ続けていた急所のひとつだった。
カリカリ、カリカリ、カリカリ
耳垢の塊が端っこの方から少しずつ剥がされていく。何度も繰り返され、垢は半ばまで剥がされる。すると最後にスプーンをぐいっと垢の下に押し込み、テコの原理で引きはがすのだ。
ベリッッ!!
大きな音が鳴る。もちろんそんな大きな音など鳴るはずがないのだが、耳の中で生じた音はイメージとともに増幅される。爽快なほど大きな音を立て、この2カ月間、俺の耳を痒ませていた根源のひとつは取り除かれた。思わず大きな吐息が漏れる。
「やっぱり、君は最高の女性だよ」
「もう、いつも大げさね」
妻は呆れたように笑う。
しかしこれはお世辞なんかじゃない。
俺は今年で49歳になる、二流商社に勤めるしがないサラリーマンだ。会社では冷遇されているわけではないが、出世の道もすでに閉ざされ、これ以上スキルアップの伸びしろもない。家に帰れば息子は生意気だ。家のローンは払い終える目途がついているものの、毎月の保険料の支払いで、財布の中身はいつも悲鳴を上げている。そんな冴えない人生を送っている俺ではあるが、妻と妻の耳かきだけは最高なのだ。
そしてそれだけで俺は生きていけるのだ。
俺はもう一度彼女に「
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