耳かきをする妹の受難

バスチアン

姉妹編

デート前(妹目線)

『有頂天』という言葉かある。

Wikipediaによると、元々は仏教用語で天界の中でも一番スゴい場所を指す言葉らしい。

一般的には「嬉しくて仕方がない状態」のこと。

分かりやすく言うと今、私の目の前にいる女性のことを指すのだろう。


「ねぇねぇ、だから聞いてよ~」

「はいはい、さっきから聞いてるわよ」


もう何度目かのため息をつきながら目の前にいる床の上にスウェットでゴロゴロしている女性。つまり私の姉に視線を向けた。

彼女の言葉を要約するとこうだ。

大学のサークルでちょっといいかもと思っている男の子がいる。

その子が向こうから声をかけてきてくれた。

明日は初デートだ。

もう少し言うと、人生で初デートだ。


「はいはい、良かったですね。じゃあ、もう自分の部屋に戻ろうか」

「え~っ、奈美ちゃんなんか冷たい。もっとお姉ちゃんを祝福してよ~」

「明日がテストじゃなけりゃね……」


そう、私も鬼じゃない。本来ならお姉ちゃんを祝福してあげたいのだ。しかし今年、受験が終わったお姉ちゃんと違って、私の受験は来年なのだ。決して先に彼氏が出来たのが羨ましい訳ではない。

決してないのだ。


「え~っ、つ~ま~ん~な~い~」


スウェット姿でゴロゴロ。手足をバタバタ。この人もうすぐ二十歳なんだよな。我が姉ながら心配になってくる。

こんなお姉ちゃんだし一年しか年が離れていないせいで、私の方が姉だと思われることも珍しくない。

明日のデート大丈夫かな?

それともこういうタイプの方が受けるんだろうか?

私の内心など知らず、お姉ちゃんは立ち上がると自慢の長い黒髪を「どうだ」とばかりにかき揚げた。


「美容院行ってきた」

「あ、ホントだ。いつもよりキューティクルがスゴい。まぁ、スウェットだからポーズ決めてもマヌケに見えるけど」

「ネイルもばっちり!」

「うわっ、今回のは凝ってるわね。まぁ、スウェットだからポーズ決めてもマヌケに見えるけど」

「お気に入りのピアス‼」

「ああ、昔一緒に買いに行ったヤツね。まぁ、スウェットだからポーズ決めてもマヌケに……!」


どうだとばかりにポーズを決めたお姉ちゃんに冷めた視線を送りながら、ある部分で私の表情が凍りついた。

とんでもないことに気がついてしまったからだ。

いや、ありえない。

このひと、明日デートなんだよね?

これはアウトでしょ?

まぁ、私もデートなんてしたことないけど、これは多分アウトだ。


「ん……どうしたの?」


その表情に気がついたのかお姉ちゃんは聞いてくる。

正直、ちょっと言いにくい。

しかし、伝えてあげるのが妹としての責務だろう。

意を決して、私は言った。


「お姉ちゃん、耳が汚い」





そして今現在、姉は私の膝の上にいる。右手に握っているのは耳かきだ。

10分前にお姉ちゃんが「耳かきをしてくれ」と言い出したときは、正直ちょっとイラっとした。

もちろん最初は「自分でやったら?」と冷たく言ったのだが、どうやらこの御仁はひとりで耳かきが出来ないらしい。ちなみに私も人の耳を耳掃除するなんて初めてだ。

さっさとテスト勉強したいのだが、お姉ちゃんは半泣きになりながらしがみついてきた。

そんなお姉ちゃんを見て少し考えてしまった。

厳密にはお姉ちゃんではなく、顔も知らない彼氏さんのことを考えてみた。


ドライブデート中、助手席に座っている彼女の横顔を見たときに彼女の耳が汚かったら……

手をつないで歩いている最中、ふと見た彼女の耳が耳垢だらけだったら……

もしも、もしも、万が一だけど、良い雰囲気になって、キスするような場面で二人の距離が近づいて、大人の階段を登り始める一段目で耳くそだらけの耳が視界に入ってしまったら……

最悪だ。


『耳が汚くてフラれた女』


いくらなんでもお姉ちゃんにそんな不名誉な称号を与えるわけにはいかない。

そんなこんなで、私は耳かきをするはめになっているのだ。

それにしても酷い。


「お姉ちゃん、ホントに耳汚いなぁ」


そう、お姉ちゃんの耳は耳垢だらけだった。

もちろん少し離れたら分からないが、覗き混んだら薄い耳毛の先にちょこちょこ乗るっかっている耳垢のカスが結構見える。


「うぅ……奈美ちゃんいじめないで」

「まぁ、いいけど。とりあえずは耳の周りを拭くからね」

「は~い、お願いしま~す」

「はいはい、じゃあやるね」


言いながら、まず一旦耳かき棒は横に置いて、耳を拭くことから始めることにした。

ウェットティッシュを1枚とり、親指と人差し指で耳たぶを挟むようにして動かしていく。


「うわ~何これ、スゴい気持ちいい~」

「お姉ちゃん、お風呂入るときに耳の後ろ洗ってる?」

「う~ん、洗ってないかも」

「でしょうね……」


どんどんと黒ずんでいくウェットティッシュは誰にも言えない乙女の秘密だ。私はお姉ちゃんに見えないようにウェットティッシュをゴミ箱に投げると2枚目のウェットティッシュで耳を摘まんだ。今度はさっきと違い拭くのではなく揉むようにして耳たぶに力を加えていく。


「んっ、コレさっきと違う」

「次は耳たぶの溝のとこやってるから。痛かったら言ってね」

「は~い」


指先で耳介を撫でながら表面についた汚れを除去していく。


「ん~、何か耳がポカポカしてきた~」

「まぁ、拭くのと一緒にマッサージしてるようなもんだしね。血の流れとかも良くなってるんじゃない?」


適当に答える。

まぁ、多分、嘘はついていないだろう。

ひとしきり拭き終えたら、いよいよ耳かき棒の出番だ。

私は右手で耳かき棒を、左手でお姉ちゃんの耳たぶを掴む。


「じゃあ、取ってくね。初めてだから痛かったらすぐに言ってよ」

「うっ……ちょっとドキドキ」


膝の上のお姉ちゃんの身体が強張るのが分かる。


「ちょっと怖がり過ぎじゃない?」

「だって、耳かき怖いんだもん」

「まぁ、こんなになってもやらないくらいだからね」

「もう、いじめないでよ~」

「はいはい、じゃあやるね」


耳穴を覗きこむ。う~ん、女子としては失格の耳だ。

薄く生えた耳毛の先にホコリやカスみたいなのがいっぱい付着して何か変な植物でも生えてるみたい。ちょっとした腐海の森だ。もちろん間近でじっくりみないと分からないのだが、もしも大人の階段を上るために急接近でもすれば一発でばれてしまうだろう。


「腐海の森ね」

「フカイノモリ?」

「ほら、風の谷のアレに出てくる森よ。胞子とか吹き出しそう」

「あ……腐海ね。それはさすがにお姉ちゃんも傷ついちゃうかな」

「今、とっとかないと、お姉ちゃんの彼氏さんが傷つくことになるんだよ」

「すいません。お願します」


逆らう資格のない耳の持ち主だと自覚があったのかしゅんと静かになる。

うん、ちょうどいい、このまま大人しい間に終わらせてしまおう。

改めて耳かき棒を構えると奥深い耳の洞窟の入口の真上に先端を向けた。とはいっても、初心者がいきなりに耳に突っ込んでしまうのは無謀だ。姉とはいえ、ひと様の耳。雑に扱ってはいけない。

まずは照準を合わせるために左手でつまんだ耳たぶを軽く引っ張る。これをすることで内部の状況を確認すると共に光源を確保することが可能となる。

引っ張られるのと同時にお姉ちゃんの口から小さく息が漏れたが無視だ。

うん、内部の確認OK行こうか。

私は静かに耳かきの匙になった先端を耳孔の内側にそっと当てた。人の耳掃除は初めてだが、自分で耳かきはたまにする。なので、いきなり強い力でやることが厳禁なのはさすがに想像がつく。

初手は出来うる限りにソフトに。

最弱の力で!

皮膚の一番上。

即ち表皮の部分のみを剥ぐように最弱の力で撫で上げた。

それと同時にお姉ちゃんの身体がビクリと跳ねる。


「ごめん、痛かった?」

「ううん、大丈夫。痛いんじゃなくて……うん、大丈夫だから」

「……そう?」


よく分からないが、気を取り直して作業を再開だ。わたしは予定通り照準を定めると再び同じ位置に匙をセットした。痛くはないのだから、先ほどと同じ力で大丈夫だろうか?

もう一度同じ場所に、同じ角度、同じ力で、匙を当て、撫で上げるように掻く。


「お!取れた!」


軽く当てたはずなのに耳かき棒の先についたスプーンにはこんもりと耳垢を乗っかっていた。

あんな軽い力でこんなにいっぱい取れるんだ。これはちょっと面白いかもしれない。


「お姉ちゃん、痛くない?」

「大丈夫……どんどん、お願い」

「そう?じゃあ行くね」


手をギュッと握りしめて我慢している風にも見えたんだけど、とりあえず大丈夫みたいだ。

痛いというよりは、本人が言っていたように怖いのかな?

次は角度を変えてやってみると、やはりびっしりと耳垢がこびりついていた。


「うわ~、すごいね。耳の中バリバリいってんじゃないの?」

「うん……スゴイ音がしてる」

「このままドンドンいくね」

「え?ドンドン?」

「うん、行くよ~」


やばいな。これって結構面白いかもしれない。

テスト勉強でストレスもたまっていたのか、こういう作業は気分転換にもなる。

無心で匙になった先端の角度を変えて耳道をこすり上げて行く。

洞窟の天井部分を短いストロークで何度か往復してみる。

窪みになって固まっている部分をツンツンと突いて少しずつ垢を崩していく。

細かく粉砕された耳垢を長いストロークで入口付近まで掻きだしていく。

気分は遺跡を発掘する考古学者だ。耳道全体を薄く膜のように覆っている垢を少しずつ剥ぎ取りながら、その下に眠っているピンク色を帯びた皮膚の層を暴き立てる。

とれた獲物は発掘品のように白ティッシュの上に並べ立てられた。

うん、大量。あとは少しだけ残った耳のカスを、耳かき棒のお尻についている白いフワフワで吐き出して上げれば完了だ。耳穴を舐め上げていた匙を抜き取ると、クルリと持ち替えて白い羽毛の部分をゆっくりと挿入していく。散らばった耳カスが奥に落ちて行かないように、ゆっくりと白いフワフワを穴の奥に導いていく。そして穴に完全に収まりきったのを確認すると、わたしは耳かき棒を摘まむ二本の指に力を入れて収まった羽毛玉をくるっと一回転。

すると、その動きと同時に膝の上にいるお姉ちゃんの口から湿り気を帯びた声が小さく聞こえた。

え?

何だろう?

あんまり聞き覚えのない声。

言うなら「ひゃぅ」と「ひうっ」の中間みたいな声だ。

気になる声だったが、このまま棒を突っ込んだままでは危なくて視線を逸らすわけにはいかない。

何より今は掻きだした耳垢を無事に体外に排出することが先決だ。

剥ぎ取られた獲物を落とさないように、私はゆるゆると時間をかけて羽毛玉を抜いていく。

ズブッと安全にフワフワが取り出されたのを確認して、ようやく私はお姉ちゃんを見る余裕が戻ってきた。


「ごめんお姉ちゃん。痛かっ……た?」


目線を投げかけた時、一瞬言葉が止まってしまった。

何だかお姉ちゃんの様子がおかしい。

薄く汗を掻いた額には前髪がはりつき、内腿をすり合わせてぐったりとしている。


「え?あれ?……お姉ちゃん?」


心配になってお姉ちゃんの顔を覗き込むと視線がぶつかり

――ゾクリとした。

何だろう。

例えるなら視線が濡れている。

ちょっと色っぽくて、私の知らないお姉ちゃんだ。


「奈美ちゃん、ありがとう。スゴク気持ちよかったわ。だから、逆の方もお願いね」


言いながら私が答える前に膝の上で寝がえりを打って、もう一度言った。


「逆の耳も、お・ね・が・い・ね」

「う、うん……」


肉食獣に睨まれたみたいで断れなかった。

怖いのに、妙に艶っぽい。

まずいな。

大人の階段を上る前に、お姉ちゃんの中の新しい扉が開いちゃったかもしれない。

テストのことも完全に頭から吹っ飛んで、ドギマギしながら耳かきを持ち帰る。


「もう、は・や・く」

「う……うん」


彼氏さんごめんなさい。

心の中でお姉ちゃんの彼氏にお詫びしながら、私はもうひとつの耳を掻くために匙を耳孔に導いた。

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