「美容師は仕事柄、お客さんの髪を触るだろ。髪にはいろんな想いが絡まっている。そんなもやもやしたものを、俺たちは少なからず取り込んでしまうらしい」


 店長の言葉を思い出した。


 原因不明の体調不良に悩んでいたときに、そう教えてくれた。都市伝説のように思っていたけれど、身を持って体験すると、納得するしかなかった。


凌也りょうやは特に敏感な体質なのかもな……。お客さんの想いに引きずられないよう、気をつけないとな……」




 だからと言うわけではないが、目の前の奇妙過ぎる光景に、不思議と取り乱すことはなかった。


 髪を振りほどくことは簡単に出来ただろう。しかし、それらは麻美さんの意思の延長だと考えると、身を任せるしかなかった。


 髪は何かを求めているようだった。二の腕、肩、そして首へと、髪は螺旋を描きながら這い上がる。素肌を撫でたあと、その毛先の群れは首筋の毛穴に、次から次へと潜り込んでいった。


「麻美さん……」


 鳥肌が立ち、毛穴がぎゅっとそれらを締めつける。が、髪は勢いを緩めることなく、毛穴から毛根、ついには毛細血管へ忍び込み、首の裏側を辿り、上へ上へと向かっていく。血流が乱れ、頭が朦朧する。立っていられなくなり、麻美さんの胸に頭をゆだねた。


 なおも髪の侵攻は続いた。血管を乗り換えながら、骨の隙間を通り抜け、頭蓋へ達したようだ。ついには脳の神経に行き渡り、その動きをやっと止めた。


 不穏な静寂がしばらく続いたあと、毛先から何かがびゅっと放出された、ようだった。それは痺れるような信号に変換され、意識へ染み入った。


 ……これは。


 今、髪を伝って送られて来ているものは、麻美さんの記憶……なのだろうか。




 ――大きな手で、髪を撫でられるのが好きだった。綺麗な髪だと、彼の声がする。満ち足りた気持ちが広がっていく。わたしを認めてくれる人だと思っていた。だけど……。


 ほかの男を見てただろう! 豹変する彼の態度に、息を詰まらせた。見ていない。嘘をつくな! ……戸惑いと恐怖で身体が動かない。会うごとに、彼の態度はひどくなっていった。


 耐えられなかった。相談を持ちかけていた女友達。その表情が見る間に曇っていくのを見て、さらに不安が込み上げる。とりあえず、わたしと彼が間に入るから、一度話をしよう。その言葉に涙した。


 怖くて怖くて仕方なかった。けれど、待ち合わせのカフェへ行った。……彼がいる。怒ってる。あなたがたには関係ない。悪びれない声。冷静に話せない。もうつきまとうのは止めろ。彼女が可哀想よ。庇ってくれる声、それらは彼に届かない。言い合いあと、渋々立ち去る彼のうしろ姿を、わたしは遠くに見ていた。ふとスマホを見ると、そこに並ぶ通知。俺はどうかしてた。許してほしい。続く文字、文字――




 脈打つようにして、髪はさらなる記憶を送り出す。




 ――左手の真新しい指輪に触れる。台所から振り返ると、そこに夫がいる。新居のリビングテーブル、そこに置き忘れた携帯が震えている。機種変更したばかりで、通知の設定が出来ていなかったのに気づいて、慌てた。……咄嗟に隠してみたものの、夫に気づかれた。それ何? なんでもないの。話して欲しい。どうにもならなくなって、彼のことを告げた。定期的に連絡が来るけど、全部無視している。それを貸してみて。俺が守るから。夫は自分の存在を知らしめ、彼をブロックした。刺激しない方がいいと言ったけど、耳をかしてくれなかった。……だから、あんなことに。


 日曜日の午後、玄関チャイムの音が妙に大きく響いた。玄関を開けると、突き飛ばされた。無理矢理上がり込んできた宅配業者は、彼だった。おい、麻美を返せ! いい加減にしろ。夫が彼の胸を押す。怒号と共に、揉み合う二人の影。刃物が床に転がって。血が流れて。もう止めて――




 想いを遂げたのか、麻美さんの髪はずるずると後退し始めた。血管の内側を毛先が触れると、脳髄の奥が痺れるようだった。力が抜け、気が遠くなり、僕は意識を失った。




「りょうやくん……」


 耳元で声がした。


 目を覚ました僕は静かに身体を起こした。麻美さんの髪は何もなかったかのように元通りになっていた。


「びっくりしたね。……わたしもびっくりした。こんなこと。……何て言ったらいいのだろう」


 困惑する彼女を見て、あれは夢ではなかったと僕は知った。


「……見たのね?」


 僕が頷くと、麻実さんは何か言いかけて目を伏せた。


 掛け時計の音が聞こえていた。長い長い時間が僕らの間を流れたようだった。


「……夫の傷はひどくてね、障害が残ったの。夫にはやりたいことがあったけど、それが出来なくなって。……それからかな。酔うと、なじるんだ。おまえが気のあるような態度をしたからだって……」


 首を傾け、麻美さんは何度も何度も髪に手櫛を入れた。


「すべての元凶は、このわたしだと思うと、自分が嫌になって、どうしようもなくなるの。だから、意識が消えちゃうのかもね。こんなわたしから逃げ出したくなって」


 笑って見せたが、瞳はすぐに涙に溺れた。


「りょうやくんがせっかく来てくれたのに。わたし、もうだめみたい……」


 麻美さんは震えながら、髪の中に顔を隠した。


「ごめん、今日は帰って……」


 伸ばしかけた手を戻し、僕はスツールから腰を上げた。慰めの言葉の一つもかけられない自分が、情けなく思える。息をつき、踏み出そうとすると、不意に手を掴まれた。


「待って……」


 手のひらが涙で湿っている。


「お願いがあるの」 


 髪の毛の隙間から、濡れた瞳が光っていた。


「……切ってほしい。わたしの髪を」


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