綺麗



 ふぁんふぁんふぁん。

 段々と大きくなる浮遊感ある異音。

 アンティさんが我が家に居候することになった次の日の朝、私はいつもと全く同じ時間に目を覚ます。

 warp、たしかそんな名前がついていた目覚まし音をスマホをタップして止める。

 時刻は六時丁度。

 べつに朝練があるわけでもないのに、私はいつもこの時間に起きる。

 頭は重く、体はなんとなくだるい。

 特別朝に強いわけじゃない。

 でも、私にはやることがある。

 それはもはや強迫観念に近いことを、きちんと自覚していた。


 よほど疲れていたのか、夢を見た記憶すらない。


 風呂場に向かいながら、昨晩のことを思い返していた。

 父とアンティさんと一緒に、私は青椒肉絲を食べた。

 料理上手の父の一品にアンティさんは偉く感動したらしく、ご飯を二杯おかわりしていたことが印象深い。

 その後は普段はあまり見ないバラエティ番組を、アンティさんと二人で見て、どうでもいいことを喋り続けた。

 自分がお笑い芸人だったら、どんなお笑いをするか。

 アンティさんは意外にも、もし芸人になるなら絶対にコンビがいいらしい。

 ピンは嫌だという。

 漫才というよりはコント寄りの、設定や世界観で勝負したいとよくわからない持論を語っていた。

 ちなみに私はもし芸人になるならピン芸人。

 舞台メインの、一人しゃべくり漫談をしたいと思っていた。

 そんな私の答えがアンティさんはいたく気に入ったらしく、今度やってみせてと無茶なことを言ってきたけれど、丁重にお断りした。


 朝は好きだ。

 とても静かだから。


 父は自宅勤務なので、早起きをする必要がなく、まだ寝ている。

 風呂場に向かう前に、私はそっと母の部屋に寄り道をする。

 この扉の向こうに、母はいない。

 代わりに、本名も年齢もわからない、謎の女の人が寝ている。

 今更だけれど、私も父も、けっこう性善説というか、無防備な人種だなとふと思う。

 もし、アンティさんが頭のネジが外れたシリアルキラーだったら、今頃私はまだ、というか永遠の眠りの中だ。

 でも、なんとなく、それも悪くないような気もしている。

 ひとりぼっちで寂しく老衰するくらいなら、若くてまだ綺麗な今のうちに、人を信じて殺される方がましかもしれない。

 私に接する多くの人に誤解されがちだけれど、べつに私は人嫌いでも個人主義者でもない。

 ただ、自然と一人になってしまうだけ。

 むしろ人は好きな方だけど、どうしても、自分から近づけない。

 追いかけることが、できない。

 どこにいっても、馴染めない。

 それがとても嫌だったけれど、防ぐ術がわからなかった。

 

 廊下には弱々しくも、もう日が差し込み始めている。

 どうやら雨は、夜のうちに止んだらしい。


 アンティさんがいまだに寝ているであろう母の部屋を通り過ぎて、私はお風呂場にたどり着く。

 紺色のパジャマと無地のトランクスを脱いで、私は鏡の前に立って自分と見つめ合う。


「……醜いなぁ」


 それは自然と出た、心の底からの声だった。

 薄っぺらな胸板。

 骨張った下腹部。

 まともについていない筋肉と中途半端な脂質。

 情けなくぶらさがった男性器はまだ皮を被ったままで、太ったミミズみたいで気色が悪い。

 これ以上は、見てられない。

 私は鏡から視線を外して、歯磨き粉をつけた歯ブラシと剃刀を持って浴室に入った。


 シャワーからお湯を出して、特に意味もなく床を濡らす。

 

 口の中に歯ブラシを突っ込んで、私は丁寧に奥歯の裏側から磨いていく。

 歯を磨く時に、口を大きくあけてはいけないと、小学生くらいの頃に教わった。

 涎がだらしなく垂れることも気にせず、私はゆっくりと丁寧に歯を磨いていく。

 歯を磨くのは好きだ。

 なんだか、心が、落ち着く。

 間違ったことをしていないと、確信できる。

 正しいことを、すべきことしている、そんな感覚を実感できる。

 ずっと磨いていると、段々と口の中に鉄の味が混じり始めてくる。

 溜まった唾液を床に吐き出す。

 

 赤い色が、混ざっていた。

 本当はもっと磨いていたいけれど、これくらいがやめどきだ。


 お湯で口を十分に濯いで、私は勢いよく床に唾液を吐き捨てると、次のルーティーンに移る。

 シェービングクリームを顔に塗りたくって、髭を剃っていく。

 正直いって、私は毛が薄い方なので、毎日剃る必要性はあまりないような気もするけれど、どうしても気が治まらなかった。

 産毛の一本も、本当は生えてきて欲しくない。

 気持ちが、悪い。

 眉毛だって剃ってしまいたいが、それはやめておく。

 目立つことは、したくない。


 顔を剃り切ったら、今度は身体の方に移る。

 透明なローションクリームを全身に塗ると、そっと剃刀の刃を肌に立てる。

 歯磨きと違って、毛を剃る行為は、気分がよくない。

 何か急かされるように、焦燥の中で、私は腕毛、脇毛、臑毛、など、とにかく剃れる部分全てを剃っていく。

 見える範囲を剃ることができたら、私はもう一度、顔にシェービングクリームを塗って、顔剃りを再開する。

 なんとなく、この数分の間に、また毛が伸びてきたような気がしてしまうから。

 気持ちが、悪い。

 私は、また体毛を剃るためにローションを体に馴染ませる。

 剃刀を押し付けて、動かす。


「……いっ」


 手の甲を剃ってる時に、力の加減を間違えたのか、痺れるような痛みが走る。

 濡れた手に、血が滲む。

 やめどきだ。

 私はルーティーンを終えることにする。

 あとは髪を洗って、トリートメントをして、洗顔をして、身体を洗うだけ。

 ぬるいお湯で全身をさっと洗い流すと、そこで私は浴室を出る。

 白い湯気と共に、私は再び鏡の前に立つ。


 今度はもう、視線を合わせない。

 また合わせたら、もう一度お風呂場に逃げ込んでしまいそうだから。


 鏡を見ないようにしながら、全身の水気をとっていく。

 髪はまだ、濡れている。

 ドライヤーの音が苦手だから、ぎりぎりまで使うことはしない。



「おはよう、美月くん」



 すると、ふいに浴室の扉があいた。

 まだ下着の一つも履いていない私の前に、オーバーサイズのTシャツ姿のアンティさんが眠そうな目で現れる。

 シャツが少しずれて、黒いブラジャーの紐が肩口に覗く。

 下半身は上下お揃いの黒の下着しか履いておらず、すらっとした白皙の細脚が伸びていた。

 綺麗だな、と思った。


「綺麗な身体、してるね、美月くん」


 寝起きで頭がきちんと覚醒していないのか、それとも異性の裸体に鈍感なのか、アンティさんは布一つ纏っていない私の全身を眺めると、そんな見当違いのことを言う。

 綺麗なんかじゃ、ない。

 その形容は、私に相応しくない。


「……ぁっ」


 どうしてかわからないけれど、無性に腹の立った私は、蕩けた目つきのアンティさんに近づいて、そのサイズの合っていないTシャツを捲って、上半身をはだけさせた。

 柔らかな曲線を描くくびれ。

 臍のあたりには女性らしさを感じさせる脂肪が均等に配置されている。

 細身な肢体とは似つかわない豊かな膨らみのある胸部。

 そうだ。

 そうだよ。

 これを、綺麗って言うんだ。



「醜いですよ、僕は」



 そこまでして、私は急に頭が冷えるのがわかった。

 僅かに汗ばんだ瑞々しい肌から視線を外して、小さく息をするアンティさんから距離をとる。

 気持ち、悪い。

 視線を逸らした先では、鏡の向こう側の私が虚な瞳でこちらを見ていた。

 

 ああ、醜いな。


 そして私は着替えを乱暴に胸に抱えると、逃げるように廊下へ飛び出し、そのまま自室へと走り出した。





 

 


 

 

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