04.リボン



キムに会った翌日から、ガートルードは宣言通り行動に移した。

日が昇って間もない頃に起き出し、邸を囲む庭の外周を走る。使用人の居住区域もあり、厩戸うまやや菜園も内包するアマースト邸の外周はなかなかに距離があった。キムが一周だけと言った理由をガートルードは納得した。

走り込みのあと、アシュリーと朝食をし、自身の服を洗濯しテラス面したガラス戸を開け放し、干す。テラスは南に面しているため、よく乾く。それから、厨房へ料理の練習に向かう時間までに女性用手洗いをひとつ掃除する。邸に点在するものを一度に掃除するより、日を分けて行う方が作業効率がよかった。

昼食後は、午前に動いた分ゆっくりする。食休みをしたら邸近辺を散歩し、夕食前の料理の練習の時間までは読書をして過ごす。

邸の蔵書から、プラムペタル領の歴史や文化に関するものを執事のカルヴィンに用意してもらっている。いまだアシュリーから信用を得ていないため、妻としての役割をどこまで任せてもらえるか判らない。任せてもらえる日がきたときのために、ガートルードはこれから住む土地のことを学びたいのだ。

洗濯物を取り込んだあとのテラスは陽当たりがよいので、つい眠ってしまうこともあるが、それもゆっくり過ごすうちである。

そうしてガートルードにとってやり甲斐のある日々は、穏やかに一週間が過ぎた。

アシュリーにとっては、意外に平穏な一週間だった。

出会い頭が突飛すぎたせいか、数日経つとガートルードが男物を着ている姿も見慣れてしまった。自分の昔の服を着ているからといって、そこにはときめきも何の感慨もない。

食事をともにするのも同様で、朝昼晩をくり返せばそれも日常となる。朝はアシュリーのその日の業務予定をカルヴィンが伝えるのを彼女も聞き、気になる点があれば質問がくる。昼は、アシュリーの業務進行に問題ないか彼女が問いかけ、それをきっかけにガートルードが散策予定を伝える。晩は、その日の散策の感想をアシュリーが聞く。

以前と変わったことといえば、食事の時間が以前より規則的になったことだ。

あけすけに物を言うガートルードは、行動を不審がる要素がなかった。邸外に行くときは、目的地を申告し、必ず事前にアシュリーの許可をもらう。アシュリーは毎朝剣の鍛練で、庭に出て素振りをしている。その際に邸周辺を走るガートルードを見かけるが、彼女に訊けば自分も鍛えているのだと簡単に明かした。念のため、カルヴィンをはじめとする使用人たちに気にかけるように頼んでいるが、彼らからの報告とアシュリーが対峙するときの彼女は一致している。

ガートルードには露骨な媚びがない。彼女が邸にいる生活に馴染んだのはそのためだ。彼女は食事をともにしたいと言った以外、アシュリーの日常を乱さなかった。食事の件も、むしろ生活リズムがより整っただけだ。

当初は夫婦関係を強要してくるのではないかと警戒したが、そういったことはなかった。ただ、折に触れて自分を好きだと伝えてくるぐらいのもの。ガートルードがそのような調子なものだから、アシュリーは八歳も歳下の少女から迫られるのではと警戒してしまったことが恥ずかしくなった。

半月も経過すると、アシュリーのガートルードへの警戒は解けていた。

その日は、昼食には珍しくオムレツがあった。アシュリーにとっては朝食でよく見かけるもののため、いささか不思議に感じたが、朝食に限定された料理でもないため気にせず食べ始めた。

それよりアシュリーが気になったのはガートルードの方だ。いつもなら自身の前に広がる料理に瞳を輝かせ、食前の祈りのあと自分と同時に食べ始める。しかし、今日ばかりはなかなか食べ始める様子がない。自身の皿より、そわそわとした様子でアシュリーの方を見つめている。

視線を向け続けられれば、さすがにアシュリーも気になる。


「……なんだ?」


「あ。いえ、今日の料理も美味しそうですよね」


「そうだな……?」


視線に気付かれたのが恥ずかしいのか、ガートルードは照れたように微笑んで、自身の皿に手をつけた。彼女が食事を開始したのを確認し、アシュリーも食事に戻る。ガートルードの皿もオムレツ含め同じメニューだというのに、一体何が気になったのか、アシュリーには判らなかった。

自身の食事を進めながらも、ガートルードはちらちらとアシュリーの様子を窺う。そして、アシュリーがオムレツを一口食べた瞬間、弾かれたように顔をあげた。


「な、なんだ?」


咀嚼を終えたアシュリーが怪訝に問う。


「あの、お味はいかがですか……?」


「いつも通り美味いが?」


問いに問いで返されたが、ガートルードの緊張した面持ちに、アシュリーはつい正直な感想を返した。それを耳にした途端、ガートルードは頬を染めるほど嬉しげに笑った。


「そうですか。よかったです」


「ああ」


いつも通りの食事に何をそんなに喜ぶ要素があったのか、アシュリーには甚だ疑問だったが、ガートルードはその後ずっとにこにこと嬉しそうだった。



昼食後、いつもなら食休みをとって散歩に向かうガートルードだが、この日ばかりはいてもたってもいられずにアシュリーが仕事に戻るのを見送ってすぐ厨房に向かった。


「料理長っ、アシュリー様が美味しいって!」


嬉しさに頬を紅潮させたガートルードは、いの一番に料理を指南してくれた料理長に結果報告した。跳び跳ねたいぐらいに嬉しいガートルードに対して、彼女の地道な研鑽けんさんを見てきた料理長はさして驚いたようすもなく朗らかに微笑んだ。


「それはよかったですな」


「はいっ、これも料理長の御指南のおかげです!」


初歩の初歩かもしれないが、ガートルードは最初に失敗したときの残念な味を知っている。それが、他の人に食べてもらっても美味しいという評価を得たのだ。喜ばずにおれようか。

昨日料理長に味見をしてもらいもしたが、今回の目標だったアシュリーから美味しいと直接言ってもらえたのは感激だった。


「ルード様も同じ料理ばかりをよく飽きずに練習しましたな」


皺の目立つ手で撫でられ、ガートルードはこそばゆい心地になる。細く見える指は長いだけで、武術で鍛えたものとはまた別の力強さを感じる熱いてのひらだった。


「これからは、簡単な一品をお任せします」


「え……、マスターするまで練習するのではなく?」


今後の料理訓練も、オムレツ同様ひとつずつ精度をあげていく形式だと思っていたガートルードはきょとんと料理長を見返した。


「一度にまとめて多く作った方がいいものや、玉子料理と違って連日では飽きるものもありますからな。ほとんどの料理ものは手順と加減を大きく間違えなければ大丈夫です」


「そういうものなんですね。では、紙に控えさせていただいてもいいですか?」


「構いませんぞ」


料理長がにこやかに了承したところに、執事のカルヴィンがやってきたので、ガートルードは未使用の日記帳がないか相談した。


「それぐらいであれば夕方までには取り寄せられますよ。文具店にルード様用のインクとペンも頼みますね」


「あ、それなら散歩がてら自分で買ってきます。お店の場所を教えてください」


自身での買い物もしてみたいことのひとつだったガートルードは、いい機会だからと名乗りをあげた。

ベックリー子爵家にいた頃は店で商品を選ぶまでしかできず、支払いは使用人がしていた。その様子を見ていたので、支払い方法は知っている。アマースト家にくるまでの道中は、身に付けていた装飾品を質に交渉して宿などを得ていたので、お金を使っての勘定は未体験だった。

彼女が単身で邸にきた経緯を知っているカルヴィンは、可能だろうと判断はした。だが、男物を着ていても令嬢一人で、というのは具合が悪い。

少しばかり思案して、カルヴィンはガートルードをつれて執務室へと向かった。


「アシュリー様、ルード様が文具を買いに行かれるのに付き添ってください」


昨年の麦の生産量と農家からの現在の生育経過の報告から、今年の採れ高を暫定算出していたアシュリーは、執事からの依頼内容を理解するのに数拍かかった。


「俺は今麦の……」


「作物に関しては天災などがある以上、予想を立てても大して当てになりませんよ。それに、ちょうど街の様子を見に行きたい頃合いでしょう」


念のため予想をする作業に手を出せるほど、業務がはかどっているということだ。そして、いつもならば室内業務ばかりだった気晴らしに、アシュリーは領民の様子伺いに馬で駆け、向かう。

主人の行動パターンを把握しているカルヴィンは、ガートルードの護衛を別途用意するよりどうせならそれに同伴させた方が早いと判断した。

だが、アシュリーは渋った。


「邸の誰かを付き添わせればいいだろう。お前でもいいし」


使用人私たちに信をおいてくださるのは光栄ですが、侯爵夫人の護衛ならばあらぬ噂が立たぬよう、きちんと選んだ者にしてください」


主人の役目である護衛選出がすぐに叶わない現状では、主人自身が妻を守ればよい。なんせアシュリーは国一の剣の使い手と誉れ高い男だ。彼が傍にいるだけで十二分に安全といえよう。

渋る主人を言い伏せる執事。発端となったガートルードはことの成り行きを見守る。アシュリーが本気で嫌がるようであれば、文具の入手はカルヴィンに任せて自分はいつも通りの散歩に切り替えるつもりで。

古くからの友人でもある執事には敵わないと悟ったアシュリーは、気が進まない理由を打ち明ける。


「しかし、連れ立って行けば、少なからず結婚のことが……」


「ルード様がいらした翌日には知れ渡っていますから、諦めてください」


自身の想像以上に情報が回るのが早い、とアシュリーは顔を両手で覆った。

そんなアシュリーにガートルードは近付き、顔を覆って俯く彼の視界に入るようしゃがんだ。


「私は、アシュリー様にとって隠したくなるほど恥ずかしい存在ですか? ドレスに着替えましょうか?」


ガートルードの言葉に、アシュリーは顔から手を離して彼女を見る。そこには怒りも悲しみもなく、ただ純粋に問う瞳があった。

彼女は自分の答えに合わせてくれるつもりだと知る。自分の態度が、彼女にどう受け取られるものか、ようやく思い至る。


「いや……」


自分がここで頷けば、彼女はドレスを着て同伴することだろう。しかし、それは違うと思った。それでは、自分も、彼女が邸にくる前のこれまで通りを強いることになる。

そもそも、アシュリーは今のガートルードに見慣れてしまい、ドレスを着せるという考え自体浮かばなかった。


「俺が少し気恥ずかしいだけだ。お前はそのままでいい」


ガートルードの存在が恥ずかしい訳ではないと伝えるため、アシュリーは髪の短い彼女の頭を撫でた。彼女がしゃがんでいて、ちょうどいい位置に頭があったのだ。


「はい」


アシュリーからの初めての接触に少し驚いたガートルードは、一瞬の瞠目をしたあと、相好を崩した。好きな格好のままでいいというその言葉が彼女にはとてつもなく嬉しいものだった。

くしゃりと笑うガートルード。その顔の近さに今さらながらアシュリーは気付いた。手の届く距離に彼女の顔があるのは初めてだ。笑顔と距離に内心驚きつつ、アシュリーはそっと触れてしまっていた手を彼女から離した。

二人で出かけることが決まってからは早かった。厩戸に向かいアシュリーの愛馬に跨がり、田園地帯を抜け街へ。到着後は馬を馬丁に預け、買い物ののち散策をする。

ガートルードの買うものは決まっていたため、買い物はすぐ終わり、アシュリーの用事の方が時間がかかる結果となった。女性の買い物に時間がかかりやすいことを母親を見て知っているアシュリーは、真逆のガートルードに拍子抜けした。

スカートではないからと、馬にもアシュリーと同様に跨がるし、彼女は本当に躊躇ためらいがない。これまで自分の見てきた女性と違いすぎて、馬で移動中、目の前の細い肩をまじまじと見下ろしてしまった。

買い物と見回りを終えたガートルードは楽しかった、と感想を述べた。逆に、アシュリーは普段と質の違う眼差しを領民から浴び、わずかに疲弊して帰ったのだった。



その日の夕食でガートルードが任されたのは、副菜の蒸し鶏とブロッコリーのオリーブオイル和えだった。

蒸した鶏を割いて、ブロッコリーは食べやすい大きさに切って茹でる。あとはそれらをボウルに入れてオリーブオイルと塩コショウで混ぜるだけ。

難しくないことにガートルードが首を傾げると、日々の料理は手間がかからないことの方がよしとされるのだと料理長に教わる。確かに、毎日手間のかかる作業ばかりしていては疲れてしまう。料理に対して、意気込みすぎて肩肘を張っていたことにガートルードは気付いた。

日常の料理の在り方をガートルードは学んだ。

夕食の席でアシュリーに味を訊くと、やはり美味しいという答えが返った。そこで、ガートルードは彼に自分の料理が紛れているのを伝え忘れていたことに気付く。

しかし、ガートルードはしばらく伏せておくことにした。アシュリーと交わすやり取りを気に入ったので、もう少しだけ続けたくなった。

夕食後のお茶の段になって、ガートルードは報告しなければならないことを思いだした。


「アシュリー様、そろそろだと思うので決めておきたいことがあるのですが」


「なんだ?」


ガートルードは赤いリボンを掲げる。髪の短くなった今のガートルードには無用の長物を見せる意味をアシュリーは図りかねた。


「ドアノブにこれを結んである日は、私が部屋から出てこなくても気にしないでください。食事も不要と判断いただいて問題ありません」


「何がそろそろで、そんなことを?」


いきなりの自室引きこもり宣言に、アシュリーは首を傾げる。


「生理です」


アシュリーは飲んでいた紅茶を吹き出した。盛大に咳き込む彼に、カルヴィンがハンカチを差し出す。そんな間にも、ガートルードは事も無げに説明する。


「私、一日目が多くてとうげがくると数時間使い物にならなくなるんですよ。ああ、『峠』は痛みが強烈にくる波のことを勝手にそう呼んでるだけなんですが。場合によっては、貧血にもなるので放っておいていただければ、翌日には回復しています」


激痛の波こと峠も毎回ではない、とガートルードは赤裸々に自身の生態を明かす。

女性しか知り得ない情報を開示され、アシュリーはさすがに赤面した。


「どうして俺にそんなことを!?」


「夫だからに決まっています。家族に隠しておくことではありません」


正論といえば正論だが、アシュリー側の心構えがないままに聞かされ、彼は赤面したまま口をはくはくとさせ、二の句を継げないでいた。そんな主人に代わり、カルヴィンが口を挟む。普段なら黙して控えているが、今回ばかりは仕方がない。


「貧血になることもある、とおっしゃいましたが、それでも放っておけと?」


カルヴィンの問いに、ガートルードは微笑んだ。


「貧血も寝ていれば治まります。アシュリー様は面倒臭い女は嫌でしょう?」


慣れていることなので、放置して構わないとガートルードはアシュリーたちに告げる。


「血の気の足りない頭で痛みに苛まれれば、他人を気遣う余裕などありません。会話すら億劫になります。そのくせ、風邪のときのように心が弱っているので、誰かに甘えたくなります。自分の足で立つ人間が好きなアシュリー様にとっては、この上なくわずらわしい存在に成り果てます」


必ず起こることであり、アシュリーには手出しができないことだ。何をしてもしなくても、翌日には元に戻る事象だから放置しても結果は同じ。ガートルードの理屈は理解できるが、アシュリーは承服しかねるわだかまりが生じた。


「それで、お前は大丈夫なのか」


「はい。いつものことですから」


そう笑顔で言われてしまえば、アシュリーもわかったと頷くしかなかった。

次の日の朝、ガートルードの予想通り、侯爵夫人室のドアノブには赤いリボンが結ばれていた。



その日の朝は、素振りのため自室を出た際に眼に入った赤が頭の片隅に残ったまま、アシュリーは朝食を食べた。

一人で食べていた時間の方が長かったにもかかわらず、食堂ががらんと広く感じた。昼食もアシュリーは一人だった。食事は充分に美味かったが、幸せそうに食べるガートルードの表情を見て食べた方が美味しく感じるだろうと思ってしまう。

変わりない日常と思っていたが、アシュリーが思っていた以上にガートルードの存在が日常に侵食していたことに気付く。

午後になると、侯爵夫人室の前を往復するアシュリーの姿があった。

そんな主人の姿を見かねて、執事のカルヴィンは料理長に頼んであたたかい野菜のスープを用意してもらい、それを主人に託した。


「さすがに何も食べずにいるのはよろしくないかと」


「そう、だな……」


部屋を訪ねる口実を得て、片手でスープの載った盆を持ったアシュリーは、躊躇ためらいがちにドアをノックした。

しかし、返事はない。会話すら億劫になると言っていたから、応答する気力すらげているのかもしれなかった。一層、様子を確認しなければ、とアシュリーは焦りに駆られる。


「入るぞ」


ドアを開けると、カーテンが揺れた。テラスに面したガラス戸や窓などがわずかに開かれている。そのため、アシュリーがドアを開けた拍子に、風が流れたのだ。

初夏も終わろうかという明るい陽射しに満ちて、部屋は明るい。そんな時分だというのに、ベッドには小さな小山ができていた。

アシュリーは、スープの盆をベッド脇のチェストに置き、枕元に椅子を寄せて座る。

広いベッドだというのに、小山は座るアシュリーの目の前、ベッドの隅にできていた。枕側から少し布団をめくると、疲れた表情を浮かべるガートルードが眠っていた。その顔色は、青を過ぎて白い。

息をしているのか怪しく感じたアシュリーは、手の甲を彼女の口許に近付ける。すると、浅いが吐息が感じられた。手を裏返して、掌を頬に当てるとずいぶんと冷たかった。

アシュリーの掌の熱に反応して、ガートルードのまぶたが震える。


「……あったかい」


瞼を閉じたまま、ガートルードはぬくもりを求めて頬に触れる手を掴み、縋るようにすり寄った。自分の手に触れる両手の冷たさに、アシュリーはびくり、と一瞬固まった。

その振動が伝わったのか、銀色の睫毛が持ち上がる。


「アシュリー、様……?」


どうしてここにいるのか、と不思議そうな眼差しとかち合い、アシュリーは気まずさを覚えるが、咳払いひとつで払いのけた。


「スープを持ってきた。飲めるか?」


ゆっくりと数度瞬きをくり返したガートルードは、眼前のアシュリーが現実だと理解する。


「ほしくはあります……、けど、動くのも……」


億劫な状態だと、ぽつりぽつりとガートルードは呟く。その小さな声を拾って、アシュリーは枕を一ヶ所に集め寄りかかった状態のまま、彼女が座る体勢になれるようにする。礼を言う気力もないガートルードは、じっと両手を腹部に当てたまま、安堵の吐息を洩らした。

アシュリーがスープの皿とスプーンを差し出すが、ガートルードは腹部から手を離す様子はない。


「食べさせたら、食べるか?」


問うと、ガートルードはこくんと小さく頷いた。ひと掬いして、血の気の引いた唇にそえると、彼女は飲んだ。喉の動きを確認して、アシュリーはまた掬う。数口で、ガートルードは充分だと首を横に振った。一時的に彼女の吐息が熱を帯びた。

少しだが食事を終えたガートルードは、もぞもぞと動き、また布団ごとお腹を抱えて丸くなった。かろうじて頭だけが出ている。

血の気の失った顔でガートルードは、へにゃりと力のない笑みを浮かべる。


「ひどい顔、でしょ……?」


「ああ。片腕を失った兵士と同じ土気色だ」


戦時中、幼いアシュリーが見た腕を斬られ失血のひどい負傷兵と、今のガートルードの顔色はほぼ同じだ。浅い吐息をくり返す様も酷似している。だからこそ、アシュリーは今の様子の彼女が心配だ。

皮肉のようでいて正直な彼の答えに笑おうとしたが、ガートルードは痛みに眉を寄せてしまい、失敗する。


「痛むのか」


「はい……、腹をかっさばいて元凶を取り出したくなるくらいには」


「それは死ぬぞ」


皮肉半分本気半分のガートルードの言葉に、アシュリーは思わず真面目に返した。皮肉まじりとはいえ、そんな考えがよぎるほどの痛みなのだと彼は知らされる。


「ああ。クラウトをガードルで押さえているので、ベッドは汚しません」


「そんな心配はしていない」


リネンの布を折り畳んだものを使っているため、ベッドが汚れる心配はない、とガートルードは見当違いのことを言う。アシュリーは家具の心配などしていない。彼女の位置付けが家具以下と思われているのは、心外だった。

彼女のなりの精一杯のおどけだったが、アシュリーには伝わらなかったらしい。痛みに苛まれているときは、やはりうまく気が回らない、とガートルードは口惜しく思う。彼にそんなに深刻に捉えないでほしかった。


「よく放っておけと言ったな」


呆れよりも怒りを覚えつつアシュリーが不満を零すと、ガートルードは思いがけない返しをした。


「アシュリー様だって、もし夢精をした下着を穿いたままだったら恥ずかしいでしょう?」


「な!?」


こちら側の事情を例にされ、アシュリーは頬を紅潮させた。


「男性はすぐ洗えばいいだけですが、女性こちらはそうはいきませんし、私は痛いです。ずっとですから、臭わないか心配で恥ずかしいです……」


ようやくアシュリーはこの部屋の窓やガラス戸が開いている理由に気付いた。彼女は独特の臭いが部屋に籠らないようにしていたのだ。

意識をすれば血に似た臭いがしなくもないが、アシュリーには気にするほどのものではなかった。それより、ガートルードにも、少女らしい恥じらいがあることが意外だった。


「俺は気にしない。それに、心配ぐらいする」


昨夜のガートルードの言い分では、自分が彼女の心配をしないかのようだった。女性が苦手なことと、身近な者を心配するのは別だ。書類上ではあるが、アシュリーも納得したうえで婚姻した相手だ。日々、顔を合わせ、言葉を交わす彼女を無下に扱うことなどできない。

ガートルードは少し驚いたように瞬いたあと、苦笑した。


「言ったでしょう? 甘えたくなるって」


アシュリーが優しい人間であることは元より知っている。ガートルードは昨日、彼と領民のやり取りを見て、それを再確認した。だからこそ、気にしないよう予防線を張ったのだ。

心が弱っている今のガートルードは、目の前の優しさに縋りたくなる。少しでも痛みが紛れるなら、と今だってアシュリーと言葉を交わしている。黙っていたら、意識が痛みに集中しそうだ。


「してほしいことはあるか?」


だから、アシュリーに訊かれて、ガートルードは素直に縋る。


「手を」


貸してほしい、という彼女の求めに応じてアシュリーが片手を差し出すと、ガートルードはその手を掴んで自身の下腹部へ宛がった。


「っおい!?」


「私の手じゃ、全然ぬくもらなくて……」


アシュリーは動揺するが、自分の手を掴む冷たさに黙るしかなくなる。あたたかい、と表情を和らげるガートルードを見てしまえば、耐えるしかない。

彼女が風邪を引いてるとき同様に心が弱まると言っていたので、アシュリーは彼女を病人と思うことにする。病人の介護一環だと、どうにか今の状況を自身に納得させた。

アシュリーの掌の熱が心地よいのか、ガートルードはうとうとと瞼を重そうにする。


「アシュリー様の苦手な化粧や香水もね、こういうときには役に立つんですよ。化粧で顔色よく見せれるし、香水はこの匂いを誤魔化せて……、だから、お洒落だけじゃ……」


「お前も、そういうときがあったのか?」


アシュリーの問いに答えは返らなかった。すうすう、と眠りに落ちたガートルードの顔色は悪いままだが、訪ねたときは険しかった眉間がほどけていた。

返事こそなかったが、化粧や香水の用途は彼女の実体験も含んだ話なのだろう。これまで招待されたパーティーやお茶会には断れないものもあったはずだ。

アシュリーの認識が少し改まった。今後パーティーなどで化粧や香水濃い令嬢を見かけたら、事情がある可能性を考慮するだろう。

腹部のぬくもりを逃すまいと、眠るガートルードはアシュリーの腕を縋るように抱く。きっと無意識の行動だろう。丸まる彼女はずいぶん小さく感じた。

こんなにか弱い存在だったのか、とアシュリーは今さらながら知る。

この地には自分以外に頼る家族がいないというのに、彼女は自分を頼ろうとしなかった。むしろ、自分が気遣われた。それがなんとも歯がゆい。

今日、この部屋を訪ねてよかったと思う。でなければ、彼女は一人で痛みに耐えていた。

眠る彼女は、幾分和らいだとはいえ、疲労困憊の色が濃く、いつもの彼女には程遠い。


「早く、また」


笑え、と。

いつものよく笑う彼女を見たい。アシュリーは自身の呟きで、その願望を知る。そして、普段どれだけガートルードが自分に笑いかけていたのか知った。

こんな愛想のない男相手によく笑えるものだ、とアシュリーは感心する。

弱った彼女の珍しい甘えは、アシュリーが唯一彼女にできる手助けだった。だから、彼女が眠ってからも、アシュリーはしばらく手を貸したままでいるのだった。

どれほど経ったか、太陽の傾きが確実に変わった頃、腕に縋る手が弛みきったのを確認して、アシュリーはスープの盆を下げるため侯爵夫人室を出た。

そこに待っていたのはカルヴィンだった。アシュリーから盆を受け取り、物憂げに申し出る。


「アシュリー様、女性の使用人を雇い入れましょう」


「ああ。俺もそう思っていた」


渋るかと思っていたが、カルヴィンの主人はすぐさま同意を示した。本来ならガートルードがきた日に手配すべきだったと、対応が後手に回ってしまったことを悔やんですらいる。

自身の女性嫌いよりガートルードを優先する様子に、カルヴィンは主人が少なからず変わったことに気付く。

ふっと思わず笑みが零れる。

その変化を喜ばしく思いながら、カルヴィンは新しい使用人の手配を請け負うのだった。


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