五・一○

「アタシと一緒にヴェネツィアにいる、と」

 僕の隣を歩くアレッシアが、全てを締めくくるように言った。

「そういうことだ。あー長かった」

 歩きながら伸びをする。痛いほどに眩しい地中海の太陽が道を鮮やかに彩っている。ため込んでいた鬱憤を吐き出せたかのような、爽快な気分だった。


 午後三時十五分、僕らはついに目的地に辿り着いた。


 水の都、ヴェネツィア。

 大小様々な島からなる洋上のコムーネであり、中世から近代にかけて存在したヴェネツィア共和国の首都でもあった街だ。地中海貿易によって大いに栄えた同国はアドリア海の女王とも称され、世界史上最も長く続いた共和国である。そんなここヴェネツィアは、街中を縦横に走る運河やそこに架けられた幾つもの小さな橋、さらには複雑な路地など非常に入り組んだ地形の街だ。そのため車やバイクはもちろん、自転車すら通行不可であり、移動手段は徒歩かゴンドラ等の船のみとなっている。

 だから僕らは街の入り口にある駐車場に車を停めて、徒歩でここまでやって来た。アレッシアに関しては目的地をすでに過ぎているのでわざわざ付いてくる必要はないのだが、何でも久しぶりに観光したいから、とのことらしい。理由はどうであれ、こんなよく分からない旅人の長話に最後まで付き合ってくれるのだから、やはり親切な人間である。


「長かった、じゃないよ。まったく、それはこっちの台詞だ」

 アレッシアが呆れたような顔をする。他人の身の上話に長々と付き合わされたのだから無理もない。我ながら申し訳ないことをしたものである。


「それは悪いな。でもおかげですっきりしたよ。こんな風に誰かに話したことは一度もなかったからさ」

「まあ、面白かったっちゃ面白かったよ」

 彼女はすぐさま長いけど、と念押しするように言った。

「だから悪かったって。ところでどうだった?」

「どうって?」

「話の感想だよ。一番頑張ったのは聞き手の君だろうが、話し手だって結構頑張ったんだ。少しでもいいから評価をくれると嬉しいね」

 アレッシアの顔を覗き込んで冗談めかして言ってみる。すると彼女はそうね、と一つ咳払いをして、

「飾らずに率直な感想を言うなら、こんな話を本気で信じてるやつはマジでイカレてる、と思う」

「おっと、これは手厳しい。つまり何だ。君は僕が統合失調症か何かで、この話は全部僕の妄想の産物に過ぎないと、そう言いたいわけか?」

「そこまでは言ってないだろう。でも、大体そういうことになるかな」

「なるほど。いやはや、もっともな意見だ」

「怒らないのか?」

「怒るも何も、君は正しいことを言ってるじゃないか。まったくもってその通りだ。僕自身、この話が真実だと断言はできない。もしかしたら本当に全部ただの妄想かもしれないし、あるいは夢で見たことを真に受けただけなのかもしれない。それは僕にすら分からない」

「それでも真実だと信じる?」

「ああ。僕には真偽を確かめる術はないからな。僕にはかつて経験した十億の世界の記憶がしっかりとある。だがそれが本物の記憶か作られた記憶かを僕は判別できない。それってつまり語りえないってことだ。そもそも僕らは未だに世界五分前仮説も水槽脳仮説も否定できないんだからな。まして自分の記憶の真偽なんて確かめようがない。だから僕は今ある情報を明晰にするしかないのさ。僕の記憶が真だと仮定した上で、その記憶とそこから得られる事象を明晰に分析する。それ以外に道はないんだ」

「ふーん、そういうもんかい」

「そういうもんだ」

「でもね。真偽の判断は置いといて、アタシは好きだよ、その話」

「本当か?」

「もちろんだ。嘘じゃない。現実に起こったことだとは到底思えないけど、フィクションとして考えるなら上出来だ。何ていうか、愛の物語って感じがする」

「愛?」

「ああ。愛だ」


 愛。

 そんなこと、思ったこともなかった。


「どうして愛なんだ?」

「そりゃアンタ、当然じゃないか。アンタは栞ちゃんを愛してたから、そんな途方もない試行錯誤に挑めたんだろ? 違うのか?」

 なら僕のこの感情は、栞への思いは、愛なのか。僕は今までずっと恋だと思ってきたそれは愛なのか。この挑戦の動機は愛なのか。じゃあ——。


「愛と恋って何が違うんだ?」


 僕の問いかけに彼女は少し困惑しているように見えた。そういえば、ヨーロッパにおいては愛と恋とが言語的にも概念的にもあまり区別されないのだった。僕は手持ちの語彙で懸命に両者のニュアンスの違いを伝えてみる。するとようやく彼女は納得してくれた。

「うーむ、愛と恋の違いなんて考えたことがなかったね」

「同感だ。僕自身はこの感情は恋だと思ってたんだが、言われてみれば愛の方がしっくりくる気がする。どっちも同じような意味だけどさ」

「いや、結構差があるような感じもするね」

「というと?」

「私は日本語よく知らないからさ、細かなニュアンスの違いとかよく分からない。けど多分、共に歩む相手を選ぶのが恋、その相手の幸せを守るのが愛って、そういうことじゃないのかい?」

「えっと、つまりどういうことだ?」

「何て言えばいいかな。恋の主体は自分なのさ。それで、見返りという言葉は少し変かもしれないけど、何かを相手に求めてる。でも愛の主体は相手だ。自分のことは考えず純粋に相手の幸せを願ってる。そういうことじゃないかい?」」

「つまり恋は恣意的なものって感じか。あるいは一方的というか」

「そうだね。あと、恋はパートナー選びの段階なのかもね。愛は相手を思いやるものだけど、相手がいなきゃそもそも愛は始まらない。人類愛とかそういうんじゃない限りね。なら、恋は愛する相手を選択するための感情なんじゃないかな。例えばこれから愛し、共に歩んでいきたい誰かとかをさ」

「ふむ。すると詰まるところは、恋は愛よりも低俗な感情ってことになるんだろうか。こっちは愛に比べて動物的だし」

「アタシはそうは思わないかな。愛は確かに高尚でより高次の感情っぽいけどさ、でも恋の方が情熱的だよ。こういう言い方は少し下品かもしれないが、恋は本能由来のつがい探しだ。なら穏やかそうな愛に比べてもっと激しくて、ドラマチックで、燃え上がる気がするね」

「なるほど。なかなか素晴らしい答えが見つかった。おかげで疑問が解消したよ。ありがとう、アレッシア」

「いいのいいの。んで、その答えに従うならアンタのは愛ってことになるだろうね」

「だろうな。そうか、僕は栞を愛していたのか」

 だとすれば、僕がこの数え切れないトライ&エラーを繰り返してこれたのはひとえに愛のおかげなのだろう。恋は盲目とよく言うけれど、存外愛の方がもっと恐ろしいかもしれない。とはいえ、どうであれ僕に言えることはただ一つ。僕はこれまで栞のために生きてきたし、これからも栞のために存在し続ける。それだけだ。


「おっと、ようやく到着だ」

 アレッシアが嬉しそうな声を上げる。柱だらけの薄暗い細道を通り抜けると、急に視界が明るくなった。


 潮の香りのする爽やかな風が吹き抜けた。

 入道雲のそびえる青空の下に、石畳の広場が果てしなく広がっていた。左右にはゴシック風のアーチを連ねた建築が、ごった返す人々と共に向こうまでずっと続いている。その奥には一際目立つデザインで、確かな威厳と共にヴェネツィアの街を見下ろす赤煉瓦の鐘楼。そして突き当りには五つのドームを擁するビザンツ様式の寺院、サン・マルコ大聖堂が、堂々とした佇まいで構えていた。

 アドリア海の玄関口。

 世界で最も美しい広場。

 その名は——。


「……サン・マルコ広場」


 ああ。

 これこそ僕が求めた景色だ。


 陸と海。西欧と東欧。ヨーロッパとイスラム世界。あらゆる文明が合流し、混じり合い、進化を遂げる場所。この地こそ、僕の旅の終着点に相応しい。


 僕はここで終わり、ここで始まる。


 十億の事実を書き換え、世界を巡り、世の理に抗い続けた僕の旅はここでゴールとなる。人であり、三次元的存在であり、挑戦者であり、旅人である僕はここで消える。


 だがそれは終わりではない。

 それこそが始まりなのだ。


 ここから、あまねく宇宙を駆け巡り悠久の時を戦い続ける新たな事実、新たな挑戦がスタートする。思念体であり、四次元的存在であり、無限であり、超越者である僕はここから生まれる。


 きっと一筋縄ではいかないだろう。


 超越者となりこの世界に一方的に干渉出来たとしても、きっと彼女は死ぬのだろう。そしてまた時を遡って守り続けるのだろう。宇宙を書き直し、ビックバンを繰り返し、あらゆる手を使ってもがき続けるのだろう。これまでと何も変わらない。彼女が死に、やり直し、彼女が死に、やり直し、終わることのないトライ&エラー。たった一つの答えに辿り着くまで無限に続く堂々巡り。それはまさにウロボロス——自分の尾を噛む輪廻の蛇。


 だが、それでいい。

 それで彼女が助かるのなら、彼女が死なずに済むのなら、僕がどんなことでもしてみせる。

 どのみちもう一生分はとっくに生きたのだ。

 人の一生の数億倍の時と経験を経てきたのだ。

 今更どんな未練があろうか。

 さあ、もう行かなければ——。


「これが見たかったのかい?」

 アレッシアの問いかけに僕は頷き、感謝の言葉を放つ。

「ありがとう、アレッシア。僕をここまで連れて来てくれて」

「何だよいきなり改まって……な、何だ? 何なのさ、この光は……!」


 右手に青い炎が灯る。

 美しきサン・マルコ大聖堂にその手を伸ばす。


「お、おい! アンタ一体どうしたんだ! まさか、さっきまでの話は本当に——」


 光輪が現れる。その中心から伸びた一筋の光が天を貫く。


 そういえば、彼女は今どうしているだろうか。


 瞳を閉じた瞬間、そんなことが思い浮かんだ。


 彼女は今、何をしているのだろう。大学生活を楽しんでいるだろうか。押井と仲良くしているだろうか。それとももう死んでしまったのだろうか。


 何だって構わない。

 それは僕には語りえないことだ。


 語りえることはただ一つ。

 僕は栞を愛している。


 栞。


 今度こそ。


 僕はお前を守ってみせる——。














「待ってよ、こーちゃん!」


 場違いな日本語に驚き目を開ける。

 飛び込んできた風景に僕は目を張った。


 青い空。

 そびえ立つ入道雲。

 宙に踊る黒髪。

 風にたなびくワンピース。

 あの日と全く同じ光景。


 そんな。


 何で。


 どうして。


 ——雑踏の中で僕を見つめていたのは、栞だった。

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