四・七

 心が壊れそうな時もあった。

 諦めた方がいいのだろうかとずっと考えていた。


 人は死を義務付けられている。たとえ今助けることができたとしても、栞はいつか必ず死ぬ。それが数年後か、数十年後かは分からない。だが訪れる死を避けることは決してできない。ならば、この死も必然として受け入れるべきなのではないのか。


 あるいは、この世界に栞が生きる可能性は内包されていないのではないかとも思った。

 魔法が使える可能性を内包する世界としない世界があるように、栞が生きる可能性を内包する世界としない世界があるのではないか。もしそうなら、世界を変えたその時点で栞の死は決定されているのではないか。可能性が必ずしも無限ではないように、世界ごとに限界が定められているように、栞の可能性もまた世界ごとに定められているのではないか。そしてこの何万、何億通りの世界の全てにおいて栞が死ぬということは、この宇宙そのものに栞が生きる可能性が含まれていないのではないのか。


 もしもそうなら、僕の行動に意味は——。


 そうして疑心暗鬼に陥った時は、よくあの夏の日のことを思い出した。遠い遠い、始まりの世界の、あの日のことを。


 揺れる花。

 ざわめく木々。

 蒼い空。

 そびえ立つ入道雲。

 宙に踊る黒髪。

 風にたなびくワンピース。

 暑い暑い夏の日の、あの高台の刹那。

 穏やかな海と街を背に笑う彼女に、僕は誓ったのだ。

 何があろうと守ると。

 何をしてでも守り抜くと。


 僕は栞のことが好きだ。その事実は今の僕だけのものではない。幾万、幾億の世界の、その全ての僕が栞に恋をしていた。僕の意識は連続しない。連続するのは記憶だけ。それでも彼女への想いが変わることはなかった。恋していたから、全ての僕が彼女を守るために全てを懸けて奮闘した。


 なら答えはそれで十分だ。

 僕は彼女を守るために戦う。これからも、これまでも。


 でも、そう自分に言い聞かせてもどうしようもなく不安になる時もあった。

 そんな時に僕を慰め、励ましてくれたのは押井だった。


 どの世界でも、押井は僕の話を真剣に聞いてくれた。元々素直で純粋で騙されやすいやつだったから、夢の話だとか誤魔化して話せばすぐに信じてくれた。彼はいつだって僕が話し終えるまで黙って聞いてくれて、いつだって優しい言葉をかけてくれた。そして的を射た指摘や的確な助言もくれた。この孤独な挑戦の中で、それが何よりの救いだった。


 ある時、僕は高校生だった。始まりの世界と同じように、押井と栞は軽音部に所属していた。


「なあ相棒」

 とある放課後、河川敷での弾き語りの練習に付き合っていると、ふと彼は僕に尋ねてきた。

「どうした?」

「お前最近何か悩んでるだろ」

「え、何で?」

「そりゃお前、顔だよ顔。夏が始まった辺りから、お前ずっと思いつめた表情してるぞ。違うか?」

 そう言うと押井は僕の顔を覗き込んで、見透かしたように笑ってみせた。


 押井は昔から勘の鋭いやつだった。嘘を見抜くのは下手くそなくせに、僕が悩んだり苛立ったりしているといつもそれを言い当てきた。そしてよく相談に乗ってくれたものだった。


「……やっぱり全部お見通しってワケか」

「お前は昔から感情が顔に出やすいんだよ。見てりゃすぐに分かるぜ」

「その隻眼でどうしてああも騙されやすいんだか、不思議でしょうがないな」

「うるせえ。ほっとけ」

「冗談だよ。冗談じゃないが」

「どっちだよ。まいいや、それで? 話なら何でも聞くぞ?」

 それはとても優しい言葉だった。声も言い草も、全てにおいて人の良さがにじみ出ていた。

 その優しさに何度助けられたことか。

 僕は土手に生えた柔らかな草の上に倒れ込んで、それからすぐに話し始めた。


「……最近、ちょっと上手くいかないことがあってな」

「というと?」

「詳しい事情は話せないが、今挑戦してることがあるんだ。それも結構本気で。それこそ、文字通り人生懸けてるくらい。ただこれがどうにも失敗続きでな。何度やってもどう足掻いても失敗するんだ。元々修羅の道だってのは知ってたし、何度も失敗するのも分かっちゃいたんだけどさ。でもやっぱり、こうも上手くいかないと結構辛いもんだなって、改めて思い知らされたっていうか。僕はどうすべきなんだろうっていうか。別に挑戦をやめたいってわけじゃないんだ。ただ、ただ……」

「メンタルがやられる?」

「そう、そんな感じだ。何度も何度も失敗して、その度に何もかもが嫌になって、投げ出したくなって、でも絶対諦めたくなくて……ホント、やってらんないよ」

「一回距離を置くとかはできないのか?」

「それは……難しいな」

「そうか。うん、それは確かにしんどそうだ」

 すると押井も手を枕にして僕の隣に寝転がった。

「ああ、本当に。辛いよ」

「そんなジレンマ抱えながら今までずっとやってきたのか。お前すげえよ。よく頑張ったな」


 ——よく頑張ったな。


 その言葉が胸にすとんと落ちてきて、水滴が生んだ波紋のように心の内に広がった。目の奥から熱いものが込み上げてきた。けれどここで泣くのはまだ早い。涙は栞を助けることが出来たその時までとっておこう。そう思ったから僕は何とかそれを押し戻して、決して泣くものかと意地を張った。


「ありがとう。嬉しいよ。でも、もう本当に限界かもしれない。今までの挑戦も、失敗も、みんな無意味に思えてしょうがないんだ。これ以上続けることに意味はあるのかって思っちまうんだ。なあ押井、僕は一体どうしたら……」

「無意味なんかじゃない」

 彼は大きな声でそう言った。芯のある力強い声だった。

「え?」

「断言する。お前のその挑戦は無意味なんかじゃ絶対ない」

「どうして、そう言い切れるんだ?」

「この世に無意味なことなんて何一つないからだよ」

 彼は僕の方を向いて微笑んだ。

「俺の持論、ちょっとだけ聞いてくれるか?」

「ああ」

「俺さ、思うんだ。この世界の神って俺じゃねえのかなって」

 思わず吹き出しそうになった。そんな突拍子もないことを、あまりに真面目な顔をして言う者だから笑いを堪えられなかった。

「何で笑う!」

「いやだってお前、この流れでそんなアホみたいなこと言われたら誰だって笑うだろ。あーおもしろ」

「何だよ、せっかく人がいいこと言ってやろうとしてるってのにこの野郎」

 すると彼はいきなり僕の首に腕を回して締め上げてきた。戯れなのは分かっているが、なまじ筋肉があるせいで結構苦しかった。

「ギブギブギブ! 悪かった悪かった、謝るよ。んで? 神だなんて随分と強気な発言してたが、一体どういう意味だ?」

「んーとな、まず俺らってこの主観世界でしか生きられないだろ?」

「まあそうだな。僕はお前の世界は見れないし、お前も僕の世界は見れない」

「そう。んで同時に客観世界も分からない。自我がある時点で俺らは主観世界に囚われてるから、客観的な視点には絶対に立てない」

「確かにその通りだ」

「そんでよ、自分の主観世界の主って自分だろ? 当たり前だけど」

「うむ、至極当たり前のことだな」

「となるとだ、この世界、つまり俺らの主観世界における神って、自分自身じゃねえのかなって」

「それはまた、なかなかの暴論だな」

「いいんだよ、暴論で。でも実際そうだろ? 例え神様がこの世にいたって、見るものも知るものもすることも、決めるのは全部俺らだ。それを神と呼ばずして何と呼ぼうってんだよ」

「なるほど。まあ納得できんことはない」

「だろ? でさ、俺らの主観世界の神が俺らなら、物事の価値を決めるのも俺らじゃねえのかなって、そう思うわけよ。あれが好きとか、あれが嫌いとか、そんな感じでさ。俺らは主観世界の中で経験する全ての物事に、自らの意思で価値や意味を付けられる。だから俺は考えたんだ。自分で決めつけない限り、この世に無意味とか無価値なものってないじゃないってな」

「僕らが価値を決める、か」

「そう。失敗も、挫折も、黒歴史だって。そこに何らかの価値を見出してやれれば、それは意味のあるものになる。そうすりゃ無意味なもんなんざ何一つありゃしない。他人がどうとか真理がどうとか、そんなもん誰にも分かんねえからさ。だから、お前自身が無意味なんかじゃないって認めなけりゃ、お前の中ではそれは意味のあるものなんだよ」

「そうか、僕が認めなければ……何万、何億の失敗にだって意味は……」

「そーいうことだ。お前の挑戦は絶対無意味なんかじゃねえ。少なくとも、俺の主観世界ではそうなってる」


 そう言うと押井は笑いながら、僕の方に丸めた拳を突き出した。フィスト・バンプだ。僕もそれに応えて勢いよく自分の拳を突き合わせた。


「ありがとう。お前もたまにはいいこと言うんだな」

「たまにはとはなんだ。ひでえな、おい。そうだ。もう一つ。嫌なことがあった時のとっておきの対処法を教えてやるよ」

「というと?」

 彼は上体を起こして傍らのアコースティックギターを掴むと、楽しそうに叫んだ。

「歌うんだよ!」

 震える弦の心地よい音色が辺りに響き渡った。それは僕のお気に入りの曲だった。カラオケに行ったら必ず最初に歌う僕の十八番。たまらなくなって、僕も彼と一緒に歌い出した。


 それは素晴らしい一時だった。太陽が街の向こうに沈もうとして、空が眩く燃えていた。鱗雲の一片ずつが火花をあげながら流れていた。嗚呼、何と美しい。そんな景色を眺めながら、僕らはのんびりと歌い合った。柔らかなギターの音に体を揺らしながら、二人で好きな歌を奏でた。お世辞にも上手いとはいえない歌声だったと思うけれど、それは本当に楽しい時間だった。


「あーすっきりした。おかげで色々吹っ切れたかな。助かったよ、相棒」

「いいってことよ。さ、帰ろうぜ。もういい時間だ……と?」

 その時、押井の携帯が振動した。

「あれま、電話だ。何だろ」

 彼が画面を耳に当てる。

 僕はこの時すでに嫌な予感がしていた。

「もしもし? はい、はい、そうですけど……え、古賀が……?」

 やはりか。

 何度も繰り返してきたせいか、いつしか僕は栞が死ぬタイミングを察知できるある種の勘のようなものを手に入れていた。この電話も大方彼女の死を伝えるものであろう。

「古賀が……危ないって……」

 スマホを手から落とした押井の声は、ひどく震えていた。彼のこんな姿を見るのは決して初めてではないが、それでもこちらまで少し動揺するくらいには珍しいだった。

「ど、どうしよう……どうすればいい……? あいつが、そんな……」

「なあ押井。お前栞のこと好きか?」

 パニックに陥ってしどろもどろする彼に僕は尋ねた。

「え? ど、どういう意味だよ……」

「そのままの意味だ」

「い、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」

「いいから答えろ」

「……俺は……好きだ。古賀のこと好きだ。で、でもあいつは今……」

「……そうか。やっぱりこの世界でもそうか。変わらないな、お前も」

「何言って……?」

「あんだけ励ましてもらった後だしな。諦めるわけにもいかないか。ありがとな、押井。もう一度頑張ってみるよ」

 僕は立ち上がって、沈みきったばかりの夕陽にそっと手を伸ばした。夕焼け色を微かに残した空と、右手から放たれた青い光が辺りを幻想的に彩った。

「お前マジで何してるんだ……? なあ、なあ!」

「じゃあな押井、また次の世界で」

 右手に光輪が現れる。

「待てよ! おい! 一体何が」

 そこで意識が途切れた。

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