二・二

 栞は僕の予想以上に社交的な性格だった。基本的には心優しく奥ゆかしい少女であるが、反面強い好奇心と行動力も持ち合わせており、何かと首を突っ込まずにはいられない性分であった。偏屈で頑固で意地っ張りで、お世辞にも対人スキルが高いとは言えない僕がそれなりに友達を作ることができるようになったのも、すべて彼女の力によるものである。彼女が僕を人と引き合わせ、人と話す術を教えてくれたことで僕はやっと社会に順応できるようになった。今の僕があるのは、ひとえに彼女のおかげだ。


 しかし同時に、彼女はとても繊細で内向的でもあった。外交的内向型、とでも形容しようか。ビードロのように脆く傷つきやすいくせして後先考えず、自分の気のおもむくままに突っ込んでいく。そんな調子だから、突っ込んだ先で傷つき、僕に泣きついてくることもしばしばあった。自分で自分を傷つけることすらあった。彼女は昔から自己肯定感の低い性格だったから、自己嫌悪に陥って一人で苦悩するのである。感情が表に出やすい性格だから何を考えているかはすぐに分かった。栞が傷つくことは僕にとって許せない——この時はまだ、なぜ許せないのかを分かっていなかった——ことだった。だが不器用な僕はすすり泣く彼女に何もしてやれなかった。ただ抱きしめてやることしかできなかった。だから僕は、いつしか栞を傷つけるもの全てから彼女を守ろうと決意した。


 そんなわけで、僕は彼女の探究に付いて回るようになった。


「教会巡りしよう」

 夏のあくる日、十三歳の栞はそう言った。


 栞はよく僕の家に来た。お互い一人っ子で両親が共働きだったから家にいるとそれなりに暇だったので、休みの日なんかにはよく僕の家で一緒にゲームをした。殊に夏休みなどはほぼ毎日会っていたと言っても過言ではない。自作の小説を彼女に読んでもらうこともあった。もしかしたら、それが彼女を家に招く一番の理由だったのかもしれない。


 僕の小説は全て栞に喜んでほしくて書いたものだ。彼女が僕の作品を読んで、コロコロと表情を変えて、そして最後に面白かったと笑ってくれるのが最高に嬉しかった。その顔が見たくて僕は再び執筆に勤しんだ。そして書きあがるたびに彼女を家に呼んでお披露目をした。それが僕の中学時代だった。この日も僕は朝から自室で執筆に勤しんでいて、栞は僕のベッドでずっと漫画を読んでいた。


「教会? 藪から棒に一体何だ?」

「あのねあのね、この街ってすごく外人さん多いでしょ? だから色んな宗教の教会があるんだって。こんな街他にはないんだってさ。どう? 一緒に見に行ってみない?」


 また始まったと僕は思った。


 栞は好奇心の権化である。東に噂話があれば頼まれてもいないのに検証しに行き、西に新しい店が建てば我先にと入店し、南にソースの不確かなことをいう者がいればそれはなぜかとしきりに問い詰め、北では常に未知の事象を求め続けた。あまりに危なっかしくてしょうがないので、僕はいつも彼女の騎行に同伴した。それが結果的に僕の知識を深め、小説のネタになっていたことは内緒だ。


「そうは言っても今は真夏だ。撒いたそばから水は気化し、車のボンネットで目玉焼きが作れ、マサイの戦士までもが泣き言を漏らす猛暑だ。お前はそんな地獄を僕に歩けと言うのか?」

「ねえ、こーちゃんお願い」


 栞は僕のことをこーちゃんと呼んだ。これは彼女いわく「頑固だから頑固のこーちゃん」という意味らしい。


「悪いが今日は断らせてもらう。この炎天下を歩くなんて、考えただけでも蒸発しそうだ」

「そんな、ひどいよこーちゃん」

「ひどいのはどちらだ。僕からすれば、文化的な生活をこよなく愛する善良な少年を蒸し焼きにしようとするお前の方がよっぽどひどいように思うが」

「最近小説のネタに困ってるって言ってたでしょ」

「それとこれとに一体何の関係があるというんだ。余計なお世話だ」

「いーじゃん、いこーよー」

「いーやーだ」

「じゃあいいもん、私一人で行くから」


 でた。

 栞お得意のキラーフレーズだ。


 彼女にこの言葉を言われると、僕はどうすることもできなくなる。僕が同行を拒否すれば彼女は一人で行ってしまうし、往々にして面倒な結果を連れて帰って来る。この時なんて教会に行くと言い出した。宗教というのは非常にデリケートなものだから、場合によっては栞の粗相がとんでもない非礼となる危険性もある。それを放っておくわけにもいかなかったし、何より僕自身彼女と二人で遊びに行くのは結構好きだったので、結局僕は家を出る羽目になったのだった。


 オーブンの中に突っ込まれたかのような灼熱の中、僕らが訪れたのは、普段の遊び場である中心街から北に坂を上がっていったところにある有名な観光地だった。僕の故郷は山と海に囲まれたコンパクトな街で、山の方は高級住宅地やおしゃれな店などが多くあるほか、外国人が多く住むエリアとしても知られている。これは幕末の開港に伴い港側に設けた外国人居留地が手狭になったため、周辺地区にも外国人住宅の建設が進められたことに起因するのだという。洋風のハイカラな建物が建ち並ぶ道を欧米人の老夫婦が歩く様などは、さながら本物のヨーロッパのようで大変素晴らしい。その美麗な街並みを見ようと集まった観光客が、この日も多く見受けられた。


 フォトジェニックで小洒落たな店が軒を連ねるメインストリートを左に曲がるとすぐに、見たことのない言語で書かれた、エスニック感漂う商品たちを軒先に並べた店がちらほらと建っていた。この近辺に多いアジア系の外国人向け輸入食品店だ。通りの華やかさと雑踏とは異なりこちらは静かで、観光地ではない、町としての生活感に満ちている。そしてその奥には、栞のお目当ての建物がそびえていた。


「こーちゃん! あれだよ、あれ!」

 栞は未知との出会いにかなり興奮しているようだった。彼女の指さす方を見ると、そこには月のエンブレムが刺さったミナレットを二本持った、見慣れぬ建築様式のクリーム色の建物がある。近づいて見ると非常に大きくかつ荘厳であり、このような建築物が平気な顔をして住宅街と地続きに存在するというのはなんとも不思議な光景だ。


 僕らが最初に訪れたのはイスラム教の礼拝堂であるモスクだった。聞けば、どうやらこの街のモスクは日本で最も古いのだという。

 戦前から存在するというその歴史あるモスクへの入り方は、正面の厳かな扉ではなく建物の左側を進んだ先の入り口からという話だった。どう見たって来訪者歓迎の雰囲気には見えないものだから僕は少し怖気づいてしまったのだが、栞にそんな気持ちは一欠けらも無かったらしい。散歩前の犬のように目を輝かせて、臆することなくモスクの奥の入口へ一人駆けていった。


 栞を追いかけて扉の中に入ると、そこではイスラム教圏の伝統的な衣装と思われる、真っ白な服に身を包んだアラブ人の男が受付に座っていた。彼は僕らを見ると、まだ少し母国語訛りの抜けない日本語で見学者かどうかを尋ねてきた。僕がそうですと答えると、彼は優しそうな笑顔で僕らを礼拝堂まで案内してくれた。


 モスクの礼拝堂は男女によってフロアが分かれている。これは祈祷の際に隣に異性がいることは集中力の散漫に繋がる恐れがあるから、ということらしい。だから僕と栞は途中で分かれた。イスラム教には肌の露出を極力禁止する教えがあるので、僕は腕に日焼け防止用のアームカバーを、栞はロンググローブを着けて追加で頭にストールを巻いていた。西洋風な純白のワンピースにアラビアンなストールというのはなんともちぐはぐな感じであったが、彼女はそれすらも楽しんでいるように見えた。


 礼拝堂の中はさほど広くはなかった。豪華なシャンデリアもなければ鮮やかなステンドグラスもない。それでも聖地の方角を指し示す窪みであるミフラーブはあり、絨毯や壁には細やかで美しいアラベスク模様が描かれていた。芸術や権威のためのものではなく、生活に根付いた場所だった。静寂に包まれた内部は非常に閉塞的な空間であったが、一方である種の神々しさを持っていた。そして僕は、ここが日本とは全く異なる文化の空間であることを肌で感じた。それは見知った街の見知らぬ顔であった。


 礼拝堂を出ると、ちょうど栞と再会した。モスクを出ようと入り口の方へ向かうと、先程のアラブ人の男の話し声が聞こえてきた。見ると相手は頭に黒い布を被ったアラブ人の女性で、そばには子供もいた。皆アラビア語だ。男は僕らを見つけるとにこりと笑って、引き出しから本を出して渡してくれた。それはイスラム教に関するガイドブックだった。それから彼は「ありがとう、また来てください」と言って手を差し出した。僕らも感謝の言葉を述べて、彼の手を固く握った。


 モスクの敷地内を出た瞬間、僕らは顔を見合わせて「ヤバい!」と同時に叫んだ。そして二人で笑い合った。礼拝堂の神聖さに抑えつけられていた驚きと興奮が堰を切ったように溢れ出てきた。本物のアラブ人なんて初めて見た。本物のアラビア語など初めて聞いた。モスクの中なんて初めて見た。あれほど厳かな場所は初めてだった。まるで異世界みたいだった。まるで本当に中東に行ったかのようだった。こんな場所があるなんて知らなかった。僕らはずっと溢れ出る興奮を分かち合った。未知との遭遇の喜びはとどまる所を知らないようで、始めは面倒くさがっていた僕も、その時にはすっかりこの探究に夢中になっていた。


 熱の冷めやらぬうちに次に訪れたのはカトリックの教会だった。敷地は先程のモスクよりも遥かに広く、入り口の近くには鐘が三個ついた立派な鐘楼が立っていた。内装は先程のモスクよりも格段に芸術性が高く、奥の祭壇を中心として扇状に木製の長椅子がおかれているという配置だ。一番奥の壁の高い所には復活するキリストの像が飾られており、スリットのように壁面にはめ込まれたステンドグラスから差し込んだ色鮮やかな色彩が、聖堂内を幻想的に演出していた。


「ねえ見て、どうかな? それっぽいかな?」

 栞は無邪気に笑いながら、前屈みになって頭の前で手を組んだ。きっとクリスチャンの祈りを真似しているのだろう。確かになかなか様になっていた。


「いいじゃないか、雰囲気出てるぞ」

「だよねだよね。神様、どうか私の夏休みの補習を無くして下さい、あと宿題も。アーメン」

「こらやめろ、あまり遊びすぎるな」

 僕がたしなめると、栞はつまらなさそうな顔をした。しかしすぐに爛々と目を光らせて、面白そうに聖堂の中を見渡していた。感情の移り変わりの激しいやつである。そんな彼女が、何故だかとても愛おしく感じられた。どうしてそんなことを思ったのか分からなくて、僕は一人で悶々としていた。


 聖堂を出たあと、僕らは日本正教、ユダヤ教、ジャイナ教の三つの教会を見に行った。あいにく時期が悪かったためいずれも内部の見学はできなかったが、それでも十分勉強にはなった。正教会の十字架は八端十字架といってカトリックやプロテスタントのものとは違うこと、この街のシナゴーグには第二次大戦でナチスの手から逃れたユダヤ人が多く集まったこと、厳格な菜食主義や不殺生を貫くジャイナ教の寺院は日本でここにしかないこと。何もかもが知らない知識だった。スマホとかいう便利な薄い板は、僕らの探究を手助けしてくれた。アスファルトを怒鳴りつけるとめどない日差しの下、僕らは知的好奇心を満たし続けた。

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