第29話
本来であれば2人1組で使用する部屋を、転校生のひなは伸び伸びと一人で快適に過ごしているようだった。
2LDKの間取りである寮の一室は1人で暮らすには広く、彼女曰く時々寂しくなってしまうらしい。
そのため、勉強会を開くときは彼女の部屋で集まるのが恒例となっていた。同室者に気を遣わなくて済む分、こちらとしても気兼ねなくリラックス出来るのだ。
シャーペンを動かしながら、ちらりと律の顔を盗み見る。
「……ッ」
こんなに綺麗で大人っぽくて、落ち着いている彼女が熱にうなされる姿なんて想像できない。
そもそも律は蘭子とえっちしたいと思ってることすら、にわかに信じられないのだ。邪な考えに駆られて頬を赤らめていれば、隣に座っていたひなから心配そうに声をかけられる。
「クーラーの温度下げようか?」
「平気…ひな、もう参考書解けたの?」
「古典は得意だから。蘭子ちゃんも英語得意だよね」
得意というよりは、一番興味のある科目が英語だった。理系よりも文系科目の方が得意で、海外映画の影響で幼い頃から憧れもあったのだ。
勉強の息抜きに、お皿に盛り付けられたトゥンカロンを手に取る。伊乃に買っておいてもらったそれは貝殻をモチーフにした形で、あまりの可愛いさに食べるのが勿体無いないと思ってしまうのだ。
甘いクッキークリーム味が、勉強で疲れた脳に染み渡っていく。
「蘭子ちゃんたちは夏休みは実家に帰るの?」
「悩んでる。お父様とお母様は仕事で忙しいし、杏斗も語学留学でイギリスに行くから…」
「小学生で留学なんてすごい…!律ちゃんはどうするの?」
「残るよ」
迷いのない言葉に、驚きながら彼女に視線を寄越す。多くの生徒は帰省してしまうため、寮に残る人の方が少ないのだ。
「帰らないの?」
「……まあ、どうせ帰っても暇だから」
甘さに酔い始め、アイスティーをストローでゴクリと飲み込む。
続いて水色のトゥンカロンに手を伸ばそうとすれば、ソワソワしたようにひなが声を上げた。
「夏といえば色々あるよね!プールに海とか、あとバーベキューもいいし」
「せっかくだから3人で行く?」
「あ、私は夏休み忙しいから!その……友達と遊んだり、犬の散歩行ったり…」
「犬の散歩なんて30分もあれば終わるでしょ…?」
いくら彼女がおっとりとした天然とはいえ、引っ掛かりのある発言に小首を傾げてしまう。
こちらの問いに対して、困ったように視線をうろうろさせてしまうのだ。
「と、とにかく忙しいので!2人でどこか行きなよ」
「え……」
学校のない長期休みに2人でどこかに遊びにいくなんて、それはデートということになるだろう。
世間一般的な高校生がどこでデートをするのか知らないけれど、律とだったらどんな場所でもきっと楽しめてしまうのだろう。
「せっかくだからどこか行こうか」
それは友達としてなのか、はたまた恋人としてなのか。
夏休みに入ってしまえば、テストの結果なんて出てしまっている。
あと1ヶ月もない内に、宙ぶらりんな2人の関係性がようやく着地するのだ。
恋人同士になったとして、一体これまでと何が変わってしまうのだろう。
こちらに対して劣情を抱いて、手を出してくるのだろうか。同性の彼女は、同じく同性の蘭子相手に本当に興奮できるのだろうかと気になってしまうのだ。
こっそりと頼んでおいた単行本を前にして、気づけば正座をしてしまっていた。付き人である伊乃に頼んで購入してもらった物で、女性同士の恋愛をテーマに描いた漫画だ。
ゴクリと生唾を飲んでから、2冊のうちの1冊を手に取ってページを捲る。本来であればテスト前で勉強をしなければいけない所だが、たまの息抜きだと言い聞かせていた。
「……よ、読むわよ」
一体誰に許可を取っているのか分からぬまま、パラパラとページを捲っていく。漫画を読むのは幼い頃に少女漫画を拝読して以来で、慣れない絵の構成に読むのもやっとだった。
繊細で綺麗なタッチなイラストと共に、同級生の恋愛模様が軽いテンポで展開されていく。
1人は綺麗な美人系で、もう1人は愛嬌たっぷりな可愛い女の子。主人公は後者で、美人系なヒロインが長いこと片思いをしているという設定だった。
「……ッ」
些細なことですれ違っていた2人は、想いを打ち明けたことで少しずつ関係性に変化が訪れる。
途中で喧嘩別れをしたシーンではギュッと胸を締め付けられたが、右往左往した末に最後はハッピーエンドで結ばれていた。
キスシーンで物語は終了して、繊細な物語に感動しながらどこか呆気に取られてしまう。
「……性行為の描写はないのか」
期待していたわけではないが、覚悟を決めて読んだ手前拍子抜けしてしまっていた。
高校生をメインに置いた漫画なため、考えてみれば当然なのかもしれない。
普段愛読している小説とはまた違った印象で、愛らしい2人の恋愛模様を楽しむことが出来ていた。
「……こっちはどんな話なのかしら」
もう一冊は伊乃におまかせをした本で、内容を何一つ知らないのだ。
きっとまたプラトニックな恋愛模様だろうとページを捲れば、1ページ目からベッドの上でいやらしく絡み合う女性2人のシーンが視界に飛び込んでくる。
「…っ!?」
驚いてページを閉じてから、自分の部屋だというのに辺りに誰もいないだろうかと見渡してしまう。
慌てて表紙の帯を見れば、『美人OL2人の愛欲に塗れたタチネコバトル物語』と記載されていた。
勇気を出して再びページを捲ってみれば、キャッチコピー通り本編の殆どがベッドシーン。
以前ケイトが口にしていた敏感な箇所を擦り付け合うシーンもあって、かなり乱れているのだ。
「…っこ、こんなの……高校生が読んで良いものじゃ…破廉恥だわ…」
性描写ばかりの漫画だというのに、高校生の伊乃が買えたということは年齢制限は課されていないのだろう。
こんな劣情をひたすらに煽られるような漫画を、平常心に読める人なんて存在するのだろうか。
体が僅かに火照る自分に戸惑いながら、認めたくないと思ってしまう。
女性同士の百合漫画を読んで、それを自分にあてはめて興奮したなんて絶対に誰にも知られたくない。
パタンと本を閉じて、大きく深呼吸をしてから自分の部屋を出る。
共有部屋であるリビングルームには、ソファで紅茶を嗜んでいる伊乃の姿があった。
「遅くまで試験勉強お疲れ様です」
「……ありがとう」
「今度こそ、蘭子様が一位を取れますよ」
一位というワードが、やけに耳にこびりついていた。
一体何のために一位を取ろうとしているのだろう。
ずっと一位に固執していたのは、両親に褒められたかったからだ。一番を取って両親からの注目を得ようと、その瞬間だけは蘭子が彼らを独り占めできると信じて疑わなかった。
「あれ……」
あの日律に全てを打ち明けて以来、その願望も徐々に薄れてきているのだ。
律を超えるため。
それだけを頼りに勉強してきたけれど、その意味を考え始める程度には、蘭子の価値観も変わり始めている。
「……1位、か」
きっと一位でも、一位じゃなかったとしても。
筒井律の蘭子への想いは変わらない。
一位になれなかったとしても、彼女の心の中で蘭子は1番に思われているのだ。
「……ッ」
間違いなく、以前に比べて一位を取りたいという野心が薄れていることに気づく。
ちっとも勉強が身に入らなかった理由の一つは、もしかしたら心情の変化なのかもしれない。
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