第26話


 大粒の涙を流す蘭子を見て、只事ではないと思ったのだろう。部屋に招き入れられてから、リビングルームの中央にあるソファに座らされていた。


 室内には彼女の付き人兼同室者である長谷夢花の姿もあったが、こちらに対して気を遣ってくれたようだった。


 「一度席を外しますので」


 それだけ言い残して彼女が部屋を出たことで、必然的に律と二人きりになる。


 部屋はシンプルで、ダークブラウンが貴重になった大人っぽい室内だった。間接照明が幾つかあって、律のセンスの良さが窺える。

 

 優しく背中をさすられるだけで、あんなにも荒んでいた心が落ち着いていくのだ。


 「どうしたの?」


 決して無理強いのない、こちらを労るような問いかけ。嫌なら話さなくて良いと、彼女の気遣いが伝わってくる。


 だからこそ、蘭子は頼りたくなってしまうのかもしれない。彼女であれば全てを受け止めてくれるのではないかと、期待してしまうのだ。


 「……お見合いしてきた」

 「……ッ」

 「その後家族と食事して……楽しかったのに、寂しくて」


 分かっているのだ。どれだけ蘭子が頑張っても、杏斗には敵わない。


 8つも年下で、央咲家の跡取りである彼と同じくらい手を掛けて欲しいと願っても絶対に叶わないのだ。


 優しく体を抱き寄せられて、トントンとあやすように背中を叩かれる。

 心音に合わせた叩き方は、酷く懐かしかった。


 弟が生まれてからずっと我慢していたのだ。

 甘えるという行為も、幼児にだけ許される無邪気さも。

 お姉ちゃんだからと必死に我慢して、自立したフリをし続けたのだ。


 「……私は2位でも褒めてもらえないのに…杏斗は18位でも凄いって褒められてて…」


 喉がキュッと締まって、痛みに耐えながら言葉を続けていた。誰にも話せずに我慢し続けたけれど、聞いてもらいたかったこと。


 打ち明けたかったことを、ぽつりぽつりと話している。


 央咲蘭子は2位が当たり前。

 それが普通なこととして受け入れられて、大して褒めてもらえない。


 だけと杏斗は18位であんなに褒めてもらっていた。すごいね、偉いねと褒められて、二人の愛を独占していたのだ。

 

 「……羨ましい」


 元々、央咲家の跡取りは蘭子だったのだ。

 そのために厳しい勉強や指導に必死に耐えていたというのに、7歳の頃弟が出来ると分かって以来環境が一変した。


 女の子なのだから勉強は出来なくても構わない。そこまで無理をしなくて良いと一気に態度が変わったのだ。


 跡取りの座が弟の杏斗に移って以来、誰も蘭子に期待しなくなった。


 何も求めなくなった。

 跡取りでもない蘭子が、何か結果を残す必要はないと捉えられてしまったのだ。


 女だから政略結婚くらいは期待しているかと思ったが、それすら望んでいない。

 蘭子は蘭子のままで良いというけれど、それだと自分の立場はどうなるのだと不安になってしまう。


 蘭子だって、彼らに期待されたいのだ。

 

 「私は一番になりたいの…っ」


 きっと誰も覚えていないだろうけれど、小学生に入って一番最初のテスト。


 この時だけは唯一、蘭子が一位だったのだ。

 2位は律で、幼かった故に殆どの生徒は覚えていない。


 1番の文字が記された成績表を彼らに見せた時、両親は目一杯褒めてくれた。


 『すごいね蘭子、流石未来の社長さん』

 『お母さん嬉しい、蘭子は本当に頑張り屋さん』


 仕事で忙しかった彼らが、しっかりと目を見て褒めてくれた。ご褒美にと連れて行ってもらったスイーツビュッフェの思い出と、頭を撫でてもらった感触。

 あの時だけは、蘭子が彼らを独り占めしていたようで嬉しかったのだ。


 「……2番じゃなくて、1番がいい…」


 だからずっと頑張ってきた。

 一位を取ればまたあの時のように褒めてくれるのではないかと、必死に努力を重ねて。


 血の滲む努力を重ねて一生懸命に天才の背中を追い続けたけれど、結局敵わなくて。

 その歯痒さから、律のことを一方的にライバル視して遠ざけようとしてしまったのだ。


 「私は誰かにとっての1番になりたい」


 無意識にこぼれ落とした言葉。

 長年目を背け続けた自分の本音にハッとする。

 これが自分の本心で、受け入れることが怖かった。


 蘭子がずっと1位に固執していたのは、筒井律を越えたかったのではない。


 一位を取って、また無償の愛を注がれたかった。8歳の頃に抱いて以来、ずっとがむしゃらに努力を重ね続けて、気づけばきっかけすら忘れていたのだ。


 こんな子供じみた理由で、10年近く突っ走ってきた。


 どうしたら、蘭子も杏斗のように目一杯褒めてもらえるのか。

 かまってもらえるのか。

 その瞳を独り占めできるのか。


 その本音に気づくのと同時に、また涙を零れさせてしまうのだ。

 

 「そんなことしなくてもいいんだよ」


 サラサラと髪の毛を梳かれながら、注がれる優しい言葉。

 こんな時に優しくされたら、さらに雫を込み上げさせてしまうからやめてほしいのに、その優しさにもっと触れたいと思ってしまう。


 「一番じゃなくても、そのままの蘭子でいいの。誰かに認めてもらおうとしなくて良いんだよ」

 「……ッ」

 「だってこんなに可愛いんだから」


 目元にキスをされて、蘭子の涙を拭おうとしてくれる。

 頭を撫でてくれる感触は、幼い頃に両親から貰ったものとは違った。


 幼児に対する撫で方ではなくて、そこから律の蘭子に対する女性としての愛情が伝わってくる。

 一人の人間として尊重されながら、真っ直ぐに向き合ってくれているのだ。


 「蘭子」


 何度も呼ばれた自分の名前だというのに、彼女から呼ばれているだけで堪らなく胸がときめいていた。


 彼女の右耳下あたりに手を添えて、顔を近づける。そっと目を瞑ってから、許可もなく律の唇を奪っていた。


 「……ッ」


 驚いたように、律が息を飲んでいる。

 その姿も愛おしくて、再び彼女にキスを落としていた。


 柔らかい感触と、彼女の熱が伝わるたびに体が火照ってしまう。


 「……律っ」

 

 甘えるように名前を呼べば、後頭部に手を回される。今度は彼女の方から顔を近づけられて、無意識に顔を傾けていた。


 触れるだけのキスを数回落とされてから、チロチロと舌先で唇の割れ目をなぞられる。


 「…ッ、んぅ」


 勇気を出して唇を薄く開けば、口内に生暖かい感触が侵入してきた。柔らかいそれが唇の裏側に触れれば、その熱さに体がゾクゾクしてしまう。


 唾液で濡れている舌同士を擦り合わされて、蘭子も恐る恐る舌を動かしていた。


 「……ぁ、ンッ、ぅ」


 舌先をゆっくりとクルクル回しながら、蘭子の舌を弄ってくる。自分のものではない舌の感触はあまりに柔らかくて、同時に酷く心地良かった。


 最初はぎこちなく動いていた舌先も、気づけばもっとと大胆に絡め合わせてしまう。


 「……ん、んゥッ…」


 リップ音と唾液の混ざり合う音が響くたびに、羞恥心を煽られていた。しかしその恥じらいが更に興奮を助長させて、体がジンジンと熱り始める。


 「……っ」


 ゆっくりと唇を離してから、恥じらいと喜びを噛み締める。こんなにも深いキスが心地良いものだったなんて初めて知った。


 恋人繋ぎに指を絡めながら、彼女の肩にもたれ掛かる。


 「……もうお見合いしない」

 「そうなの?」

 「だから、律も…麗音先輩とあんまり仲良くしないで」


 こちらの我儘なお願いに対して、律が嬉しそうに笑みを浮かべる。


 「嫌なの?」

 「嫌っていうか…」

 「蘭子が嫌ならきっぱりと断るよ」


 こちらに選択肢を委ねるなんて、ずるいと思ってしまう。

 今の蘭子の立場で我儘を言うことは許されないはずなのに、欲を出してしまった。


 本来であれば得られない権利を、筒井律は簡単に渡してくれるのだ。


 「……やだ」


 どうして嫌だと思うのか、もう言い訳が出来ないところまで来てしまっている。


 トクトクと温かい感情が胸に流れ込んでくる。彼女の顔を見て、熱を感じると幸せで堪らない。


 「……分かった」


 ようやく芽生え始めたこの気持ちを、何と呼ぶべきなのか、本当はもう気づき始めている。

 生まれて初めて抱いた感情を、否定することも出来ずに優しく抱きしめていた。

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