第5話 心の鍋に気泡が

 M国は近くて遠い国だ。東南アジアの中央にあり、ヨーロッパやアフリカ、アメリカ東海岸よりずっと日本に近いのに、ほとんど交流がない。


 日本社会の側にも異文化に対する排他的な姿勢があるかもしれないが、M国については向こうの政情不安定が大きな原因だろう。


 軍事政権が抑圧的な支配をしいており……とかなんとかで、お互い観光なんかで行き来できるような状態ではない。俺は文系ではないので、社会についてはこの程度のぼんやりした情報しか知らないが。


 そんな、日本と縁の薄いM国料理といえば、さぞ物珍しいものができるだろう。俺も、千石さんも、そして田村さんもそう期待していた。


 ところが、ナンプラーの嗅ぎ慣れぬ香りで異国情緒を味わっていた我々に、予期せぬ事態が発生する。ガラムマサラだ。


「あれ? これ普通のカレーの匂いじゃない?」


 そうだ。日本人なら子どもの頃から慣れ親しんだカレーの匂いだ。最近のインドやネパール人が開いたレストランの本場のカレーではなく、日本で独自に発展したカレーそのもの。日本中の家庭でカレールウで手作りするような。いや、レトルトで売られているような。


「なあんだあ」


 千石さんの落胆ぶりはストレートだ。


「M国料理っていうから、どんな不思議な味なのか楽しみにしてたのにぃ」


「そ、そうだね。ガラムマサラで全てが普通のカレーに変わっちゃったね……」


 申し訳ない。そして、さらに思う。俺はとんでもないヘマをしてしまったのではないだろうか。


 冷や汗が背中を伝っている気がする。


 お皿に盛って食卓につく。本当は実家から貰い受けて来た小鉢を使うつもりだったが、千石さんが「これはカレーそっくりだもの。楕円のカレー皿でご飯と一緒にしちゃいましょうよ。洗い物だって減るでしょう?」と鶴の一声で決めてしまった。確かに食後の食器洗いは女性陣がすると言っていたので、千石さんがそうしたいなら反対するわけにはいかない。


 誰も何の声も発することなく、黙々と食べる。


 ──気まずい。


 俺の予定では、異国情緒たっぷりな料理を前に、ワイワイ感想を言い合う賑やかな食卓を期待していたのに。


「なんかさ」


 千石さんが苦笑していた。


「おさまりが悪いよねえ。知らない国の料理を作るんだったら、自分たちの味覚と全く違うものに出会って『まずい』って思うか、今まで知らなかった味でも『美味しい』ってびっくりするか、そのどっちかだと思うのよ」


「……」


「どっちつかずで日本の日常生活と同じ物ができちゃうとはねえ……」


 その言葉は、俺自身についても中途半端な人間だと呆れているかのように聞こえた。ええと……。俺はこういう場合どう振る舞えばいいんだろう?


 千石さんはもうひと口のみ込むと、バリキャリ志向ならではのリーダーシップを発揮し、さっさと空気を変えてしまった。


「ま、誰でも失敗ってあるよね。気にせずさっさと食べましょう」


 そして、スプーンを動かす手を早めた。


 失敗……失敗か……。普通のカレーになっただけで、食べられないものができたわけじゃないんだけど。


 でも、珍しさを求めて作っても珍しいものではなかったのだから、これは失敗か。


 戸惑う俺に千石さんが慈愛に満ちた笑みを見せてくれる。


「なんかウケルよね。珍しいスパイス揃えて日本と交流の少ない国の料理を作って。でも結局日本のありきたりなカレーになっちゃいましたって。これはこれで笑い話かも」


「う、うん」


 そうだな。ここで俺が道化になるのが一番おさまりがいいのかもしれない。


 だけど……俺の心の中に違和感がふつふつと湧いてくる。いや、「ふつふつ」の一歩手前くらいか。


 鍋でお湯を沸かす時、ぶくぶくと沸騰する前に、鍋の中に気泡が現れる。そんな感じだ。泡になって水面を波立たせるほどではないが、液体が気体に変わる予兆のような光景。


「でもさ」と、それまでもぐもぐと口を動かしていた田村さんが、それを飲みこんでから声を出した。


「お肉を噛み締めていると、ナンプラーの味がするよ。ガラムマサラの前にそれ以外の材料とで二十分煮込んだじゃん。それが染み込んでる」


 ああ、フォローを有難う。けれども、M国料理と日本の普通のカレーとが似ていることを笑い話にしたい千石さんは田村さんの話に乗らない。


「それでも、ガラムマサラで一気にカレーになっちゃったじゃん」


「じゃあ、凛子ちゃんもよく噛んでみて」


 千石さんも俺も口に入れた肉をじっくり味わってみる。うん、確かにナンプラーの味わいがある。ただ……。


「そんなにカレーを噛み締める人はいないよ。普通に食べれば、何の変哲もないカレーと同じだよ。別に珍しい料理じゃない」


「凛子ちゃん、別に珍しいか珍しくないかで二分することなくない? 似ているところと違うところと両方あるんだから」


「だけどさあ」と千石さんは口を尖らせる。


「私たちだって仕事のないせっかくのオフの日なんだからさ、珍しい体験したいじゃない? ちょっとこの体験は異文化体験と呼ぶには物足りないよ。あ、一ノ瀬君を貶してるんじゃないのよ。こういう失敗談もそれはそれでアリだと思うし」


 ここで表情筋を大活躍させた大きな笑みを向けてくれたので、俺も慌てて笑みを作ってこくこくと頷く。傍から見れば女王様のご機嫌を取る下僕のような振る舞いかもしれない。


「私はさ、タムちゃんを誘った責任を感じてるの。子ども食堂にM国のかわいそうな難民の子がいいるんでしょう? M国らしい料理の作り方が分かれば、その子にもタムちゃんがつくってあげられるだろうと思って誘ったのに」


 田村さんは「つくってみようと思うよ」と返した。


「えー。日本のカレーと変わらないのに、その子に作ってあげる意味ある?」


「私たちの味覚ではほとんど同じくらい似ているように感じても、M国の人にとっては違いがあるのかもしれないじゃない」


「あー、なるほどね……」


 それはあるかもしれない。けれども、それならそれで、この世界の料理本を出版した人を恨みたくなる。俺たちが求めていたのは、俺たち「日本人にとっての物珍しさ」だったのに。


 田村さんは俺たちとは違う視点で今日の食事を見ているようだった。


「似ているなら似ているで、それもM国の人にとって嬉しい情報なんじゃないかな」


「なんで?」


 俺も聞きたい。なぜ?


「日本の普通のカレーがM国の料理に似てるんなら、故郷の味が懐かしくなったときに助かるんじゃないかと思う。ほら、ずっと昔の日本人が海外旅行に行っても日本食レストランが外国に無くて、その代わり世界のどこにでもある中華レストランをよりどころにしてた時代もあったでしょ」


「まあ、ね。似てるだけでも懐かしいものかもね」


「日本のカレーは本当に日常に密着しているからさ。その辺のスーパーでお手頃価格で手に入る。レトルトならそのまま温めてすぐに食べられるし、カレールーを買ってきて鍋でつくるのも簡単じゃん。ウチの食堂は定休日があるけど、カレーなら忙しいお母さんでも用意できると思う」


 そうか。日本にいる俺は自分にとっての珍しさを楽しもうとしていたが、日本にはもっと切実に故郷の味と似ているものを求めている人もいるんだ。


 俺は何か視界が開けたような気がした。千石さんも明るい顔だ。


「そうだね。そのかわいそうな難民に、M国料理が手軽に食べられるよって教えてあげられるよね」


 よかったという千石さんのつぶやきが聞こえた。


 ふう。千石さんに今日の料理を失敗と言われた時には少しこの女性を嫌になりかけたような気がしたが、こうして休日に誘った自分の友人を気に掛けたり、M国のかわいそうな難民のことも気遣ったりする千石さんはやっぱり心優しいいい女性なんだろう。


 料理を食べながら、俺たちは少しビールを飲んだ。


 アルコールが入るのも想定して、二人は車ではなく電車と徒歩で来たのだが……。千石さんが赤く染まった頬を手で仰ぐ。ああ、美人がふわっと酔っているのは絵になるなあ……。


「今日はもう駅まで歩くの面倒くさーい。タクシー使っちゃお」


 え? 同期会で大体どこら辺に住んでいるのか聞いたことがあるが……。


「千石さんの家って、ここからタクシーだと1万円近くしない?」


「ま、ちょっとかかるけど。いいや」


 俺にとっては「ちょっと」じゃないけど。うーん、さすがあの富裕層が通う大学に幼稚舎から通っていただけのことはある。


「えーとタムちゃんは……」


「反対方向だからいいよ。それに私は別に酔ってないし。知らない場所を歩くの好きだから駅まで歩くよ」


「あ、じゃあ送っていくよ」


 団地は通勤通学などの時間帯を外れると途端に人通りが少なくなる。とても女性を夜一人で歩かせられない。


 配車アプリで呼んだタクシーに乗っていく千石さんを見送って、俺は田村さんと駅まで歩き始めた。


 何を話そうか……。ま、話題がない時には、とりあえず相手を褒めときゃ無難だろう。


「かわいそうな難民の子どもの面倒を見てるって、田村さんは偉いなあ」


 千石さんは俺よりずっと小柄だが、田村さんは余りそんな感じはしない。女性にしては背が高く、俺と並んで歩いてもだいたい同じくらいの目線だ。その人影から、ふうっという吐息が聞こえた。


「ウチの食堂に来ているその子は『かわいそうな難民』とは違うと思うんだけど……」


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