「春」の段 2 初仕事

「ともかく、渡会君は何をするにも知識が足りません。今の貴女の仕事は勉強する事です。赤いファイルには学ぶべき事項を8章に分けてありますから、二・三日ごとにテストを課しますよ」

「ガンバリマス」


 モモが背伸びしてようやく手に取った赤いファイルの表紙には、㊙と大きな黒文字が描かれている。

 恐る恐る彼女は表紙をめくるが、その中身は意外にも内容が理解しやすい作りになっていた。

 イラストや図を交え、重要なポイントには丁寧に色付けまでなされている。


(高校の教科書思い出すな~。量はえげつないけど)


 今更だが、このような調子でも渡会モモは難関と呼ばれる大学を卒業している。

 

 しばらくパラパラと㊙ファイルを流し見していたモモだが、段々と腕が痛くなってきた事を自覚する。

 サイズはA4、国語辞典の分厚さで、その容量を余す事無く紙を束ねているのだから当然と言えよう。

 彼女は一度どこかにファイルを置こうとして、机にはが立っている事を思い出す。

 これではファイルを置くことも自身のノートを開いて勉強する事も出来ない。

 こんなに積んでどうするつもりだったのかという視線を小井野に向けるも、彼はこちらの事など全く気にしていない様子。しかもいつの間に取り出したのか新聞を読み始めていた。


「小井野所長、これどこにどかせば良いですか? どうにもならないというか、このままじゃ勉強もできないんですけど……」


 モモが声をかけてようやく、小井野は事態に気が付いたらしい。

 新聞を置いて立ち上がると、何故か水色のスライムの姿に戻った。


「気付かずにすみません。あなたはのですね」


 ポヨン、ポヨヨンと跳ねる事で移動した彼は、伸ばした触手をファイルの塔に当てる。

 すると見る見るうちにファイルや書籍がが触手に吸い込まれ、しまいには質の良い木目が顔を表す。

 ここでようやく、モモは自分に与えられた事務机が、安物でない事は確かな代物であると気づいた。


「昨日も不思議だったんですけど、それどこに仕舞ってるんです……?」

「ふふふ、内緒です」


 彼女はスライムをじっと見つめるが、半透明の体はうっすらと向こうの景色を透かすだけで、あの大量の書物の痕跡はない。


「さて、せっかくなので本棚を増設してしまいましょうか」

「え、今から買いに行くんですか?」


 時刻は十一時前だが、そもそも所長がこんなに暇そうにしていて良いのだろうか。

 モモがその疑問を口に出す前に、小井野は「よっ」という軽い掛け声とともに、壁を覆い天井にも届きそうな特大サイズの本棚を設置してみせた。

 瞬きの間に出現した本棚に、モモはこの手の事に突っ込むのは無駄であると察する。

 

「これで大丈夫でしょうか。さっき回収した書類は私が本棚に並べておきますので、渡会君は勉強に集中していただいて結構ですよ」


 スライムは二本の触手を伸ばすと、片方で書類を取り出し、片方で整え……早速作業に取り掛かるようだ。

 昨日出会ったばかりであるのに、既に世話になりすぎている気がして、モモは改めて感謝を述べようと彼に向き直る。


「あのっ、私、本当に頑張ります! それから……私を拾ってくれて、本当にありがとうございます!!」

「「どういたしまして」」


 バッと効果音がつきそうな勢いで90度まで頭を下げたモモは、またも瞬きの間に起こった何かを見逃した。

 重なって聞こえた二人の声に、内心首を傾げつつモモは礼を保ったまま顔を動かす。


「「私としても、渡会君の成長がとても楽しみですよ。ですが、あまり焦りすぎないようにしてくださいね」」


 ここまで来たら、そういう事もできるだろうと半ば予想をつけて顔を上げると、そこにはモモの予想通り、二人になった小井野が立っていた。

 水面色の髪、インクを垂らしたような黒い瞳、シルバーのモノクルまで瓜二つである。


「……一応聞きたいんですけど、なんで二人に……?」

「私は渡会君の本棚を整理する担当で」「私は今朝の新聞を読む担当なのですよ」

「「お気になさらず」」


 それだけ言って黙々とそれぞれのやるべき事をなす二人に、モモは言葉もない。

 諦めて着席し、自らもまたやるべき事……勉強を始めるまでである。

 しかし、1ページ目から精読する前に、先ほど見た中にスライム種の性質というページがあった事を思い出し、㊙ファイルを開き直す。

 そうして第6章、各種族の特徴という段に求める情報はあった。


(スライムの能力には主として「擬態」「物体の格納又は吸収」「分裂」などが挙げられる。スライムの能力には個体差が激しく、中には「自己修復」の力を得て、数百年生きる個体も存在する……。って、数百年? ドラゴンとか、エルフなみに生きる人もいるんだ……)


 津雲辻で生まれ育った彼女であるが、実はスライムと話したのは小井野が初めてである。

 多様な種族が存在しすぎる故に、関わりが偏るのも珍しくはない話だ。

 また、友人であっても種族としての習俗や性質を1から100まで知っている、という訳ではない。

 スライムに続き、友人の顔を思い浮かべながら人魚のページを探そうとして、モモはテストの存在を思い出した。


(いけない。多分テストは1章からだろうし、そっちから読んでいかないと!)


 6章分の紙の束を動かそうとした時、オフィスのインターホンが鳴った。


「「おや、来客ですね。もう時間でしたか」」

「えっあっ、わ、私はどうすれば……!」


 お茶でも入れようか、挨拶に行った方がいいのか、部屋の掃除でもした方がいいのか……彼女の頭の中であれこれと浮かんでは絡まっていく。

 ワタワタとやり場のない手を動かすモモを、小井野は手で制する。

 本棚の整理が完了したのか、いつの間にか二人は一人に戻っていた。


「面談を予約されていた会員様です。私が対応しますので、渡会君は勉強を続けてください」

「あ……はい」


 入社一日目、まだ何も知らない自分に出来る事はないという事を暗に示され、モモは少し落ち込んだ様子で座り直した。


―――――――――――――


 気を改めて1ページ目から精読を初め、重要だと感じた事は自分のノートに纏め直す。そんな作業を続けてしばらく、丁度1章を読み終えると同時にモモの腹が鳴る。

 しかし壁に掛かった時計を見ると、小井野が面談のために事務室を退出してから、未だに30分しか経過していない。

 他の章の文量と比較しても、1章は大分軽めだったようだ。

 そんな1章、基本的な業務についての段には、初回面談は90分、月一回の定期面談は60分程度とあった為、どちらにしろ面談はまだ終わらないだろう。


(しっかし、ここの社員は所長一人だけだったって言ってたけど、こんな時間取る面談をどうやってスケジューリング……あ、分裂か)


 彼女の予想通り、小井野は今まで分裂を用いる事でたった一人での結婚相談所経営を成し遂げていた。

 彼女はまだ知らないが、この瞬間にも100体ほどの分身を作り、あちこちで業務を回しているのである。

 

(今まで一人だけで運営してきたのに、何で私を雇ってくれたんだろう)


 小井野がいないのを良い事に思い切り伸びをした彼女は、勉強にノイズを持ち込まないため、あまり考えないようにしていた事に思考の手を伸ばす。

 ぐっと伸びをし、椅子のスプリングに全体重を任せて背後の本棚に並べられた書類たちを逆さになって見る。

 特に意味もない行動だったが__


「渡会君、貴女に任せたい仕事があります」

「~~っ!!?」


 部屋に戻ってきていた小井野に上から覗き込まれ、モモは驚きのあまり椅子から転げ落ちる。


「いたた……って、驚かさないでください!」

「姿勢を正してください、渡会君。お客様の前ですよ」


 やや呆れた様子の小井野の視線の先には__稲穂色の髪と夕焼けのような瞳、そして鮮烈な紅の鱗、角、尻尾を持った「竜人」が佇んでいた。

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