松下 昴

一人目の時と同様、愛美は隣の県へと向かって車を走らせた。

車中に朝日が入り込んでくる。その中で愛美は昨晩のバーでの会話を思い返していた。


『君、名前は何ていうの?』

愛美への警戒も解けて上機嫌になった市川俊明はグラスを片手に聞いてきた。それに対して、愛美は長い黒髪を耳に掛けながら微笑した。

『須藤愛美っていいます。字は普通に、愛に美しいです』

愛に美しい。愛美は自分の言葉を頭の中で反芻した。

愛に美しい、改めて考えてみると、何と自分に相応しくない名前なのだろうと思った。見知らぬ男性達を何の正当性も無く殺害している。加えてそのことに対して殆どと言っていい程罪悪感を感じていない。美しいどころか、心は醜い化け物のようだった。自分は一体どうしてしまったというのか。


きっかけは勿論叔父の突然死に居合わせたことだった。それが原因だとしたら、苦手意識のあった叔父が目の前で死んだことに快感を覚えたのだろうか?

愛美は胸の内を探ってみたが、どうもそうではない気がした。だとしたら、自分は生まれつきこのような性質を持っていたのだろうか。だとしたら——。


そこで愛美は頭を振った。そんなことはない。きっと自分が分からないだけで、何か原因があるはずだ。私はおかしくなんかない。赤信号に差し掛かってゆるくブレーキをかけた。

私はおかしくなんかない。

もう一度、言い聞かせるように心の中で繰り返した。


数時間ほど車を運転すると、目的地に辿り着いた。

そこは人気ひとけの無い田舎の崖だった。

遺体は海に遺棄することにしていた。山に埋めることも考えたが、大きなスーツケースを引いて山道を歩けるとは思えなかった。


車から降りて辺りを見回す。人が居る様子は無い。

愛美はそれを確認すると、トランクを開けて市川が入ったスーツケースを取り出した。それを崖の方へと転がしながら引っ張っていく。

崖の縁まで歩くと愛美は足を止めた。下に目をやると、海が時折水しぶきをあげていた。この波の加減ならすぐに遠くまで遺体を流してくれそうだ。

そしてスーツケースを自分の前方に置くと、両手を突き出してそのままスーツケースごと海に放り込んだ。それは崖に何回か当たって音を立てながら海に飲み込まれていった。すぐに沈んだようで、スーツケースは瞬く間に見えなくなった。愛美はそれを確認するとさっと踵を返し、振り返りもせず車へと歩いていった。



「須藤さん、これの集計お願いします。」


愛美が勤め先のオフィスでパソコンに向かっていた時、営業部の男性から声を掛けられた。愛美は分かりました、と返事をすると一瞥してその書類を受け取った。


愛美は製薬会社の経理として働いていた。仕事の内容は人件費や経費といった方面ではなく、扱っている薬剤のデータを管理するものだった。筋弛緩剤の知識を得たのもこの仕事からだった。

愛美は大学を出てからこの仕事に就いたが、同僚には高校を出てすぐ働き出した女性達もいた。かといって彼女らの能力が大卒者に大きく劣るわけでもなく仕事熱心だった。そんな彼女達を見ていると、愛美は時たま違う給料で同じ仕事をしている彼女達に申し訳ないような気分になることがあった。


その日は金曜日で、愛美は大学時代の友人と仕事終わりに食事をする約束をしていた。その友人とは大学を卒業してからも定期的に会っていた。

仕事を定時で終えると愛美は会社の最寄駅へ向かった。そこは大きな駅で交通の便も良く周辺に飲食店も多かったし、どちらの家からも遠くないのでその駅で待ち合わせをした。

駅の出口で友人を待っていると、何分もしないうちに相手が現れた。

「待った?」

怜香というその友人は小走りで寄って来ると上目遣いで愛美を見た。愛美は比較的背が高い方で怜香は小柄だったが、上目遣いはそれだけのせいではなさそうだった。愛美と違って愛嬌のある彼女は人の機嫌を窺う時愛らしく取り繕ってみせる癖があった。

「ううん、さっき来たとこ」

愛美が優しく答えると、怜香はほっとした様子でこれから行く店について話し出した。落ち着いている愛美に対して怜香はよく喋る女性だった。


怜香が調べてきた店に入ると二人はテーブル席に案内された。

そこはカジュアルなイタリアンレストランで、ワインが美味しくて評判なのだと怜香は嬉しそうに話していた。


「愛美は仕事順調?」

二人が注文した白ワインが運ばれてくると怜香が聞いてきた。ワインはすっきりとした香りの中にも適度な辛みがきいていて確かに美味しかった。

「うん。三年経ったから、結構慣れてきたかも。怜香は?」

愛美が聞き返すと、怜香は少し顔を曇らせた。彼女はそこそこ大きな企業の受付嬢として働いていた。

「あたしは微妙。基本的な対応は出来るようになったけど、予想外のアクシデントとかに弱いかも。あと恐い雰囲気のお客さんとか来るとやっぱり緊張しちゃうの」

「三年で完璧に出来るようにはならないわよ。むしろそんな立派な仕事しててすごいわ。私なんてただの事務職だから」

落ち込み気味に話す怜香を慰めるように褒めると、それを聞いた彼女は少し身を乗り出した。

「むしろ愛美はもっとすごい仕事できそうな気がするんだけど。しっかりしてるし、細かいところ良く気がつくし」

「今の仕事が肌に合ってるから、いいのよ」

愛美が言い終わるのと同時に食事が運ばれてきた。怜香の前にバジルが乗ったトマトソースのパスタが、愛美の前にボンゴレがそれぞれ置かれた。料理が来ると、怜香は落ち込んでいた様子とは一変して顔を輝かせた。愛美はそんな彼女と食事を楽しみながら、もし彼女が愛美のやっていることを知ったらどうするのだろうと思った。

いや、考えてみなくても分かることだった。彼女は怯えた顔をして、愛らしい瞳からは大量の涙を流し、愛美の元を去っていくのに違いなかった。それを想像すると少し胸が痛むような思いがした。


 

 市川俊明を葬ってからひと月後、愛美は品のある夜の灯りの中をバーに向かって歩いていた。またターゲットを探す為だった。

怜香と会った時はシャツにパンツ姿だったが、バーに行く時はニットにロングスカートを身に着けていた。


 店の中に入り、カウンターで一人飲んでいる男が居ないか探す。丁度一人だけ居た。近付きつつさりげなく観察したが、そこまで堅い男ではなさそうだった。彼でいいだろう。


「お一人ですか?」

他の男の時と同様に声を掛けた。相手はやはり驚いたように振り向いた。

「突然ごめんなさい。私、恋人と食事に行くはずだったんですけど、急にキャンセルされてしまって。それで淋しいから、一緒にお酒を飲んでくれる人を探してたんです。ご迷惑じゃなければ、ここで飲んでいってもいいですか?」

「ああ・・・、そういうことか。俺で良ければ付き合うよ」

男は動揺しながらも承諾した。そして愛美が名前を名乗ると、男も松下昴という名だと話した。

「お住まいはここの近くなんですか?」

バーテンダーが差し出したカシスのカクテルを傾けながら愛美が尋ねると、松下はいや、と手を振った。

「家は品川の方だ。今日は有給を取ったんだけど、思いの外することが無くてね。だから気晴らしに飲みに来たんだ。この辺りはバーが多いだろう」

「ええ。本当に、素敵なバーが多くて良い街です」

嘘ではなかった。標的の男の酔いを愛美の家まで醒めさせない為には家の近くのバーを選ぶ必要があったが、この街はそんな店には事欠かない場所だった。

「君は仕事は何をやっているんだ?」

口調は先ほどと変わりなかったが、顔つきを見ると酔いが回って来ているようだった。

「大した仕事じゃないんです。何の変哲もない事務職ですよ」

愛美が穏やかに答えると、酒の入った松下はやや大袈裟に頷いた。

「じゃあ華のOLってやつだ。君にはもう少し派手な仕事も似合いそうだけど、OLも様になっていそうだな」

そんな調子で上機嫌になってきた松下と話し続けた。車が趣味だという彼の話に相槌を打ったり、愛美は愛美でこの間家で見たサスペンス映画の感想を話したりした。

そしてすっかり松下が彼女に気を許すと、愛美は例によって彼を自宅へと誘った。疑いもせずに店を出て連れ立って歩く彼を、愛美は薄い微笑を浮かべながら見つめていた。

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