1−5

 訪れた6月第3週の土曜日。今日の勤務後に杏奈に提案された〈帰りに話しかけよう作戦〉を実行する予定だった……のに。

 莉子は最近、ある存在に頭を悩ませていた。


「佐々木さーん。これお願いできる?」


 気安く莉子の苗字を呼ぶのは竹倉純ではない。たまに同じシフトになるアルバイトの井上康介だ。


 井上はとにかくよく喋る。元来が陽気な性格なのか、勤務中でも常にペラペラと話している。

 だが愛想も良く接客は上手いため、彼が仕事中に無駄話をしていても、主任や部長は大目に見ているフシがある。穏やかな雰囲気を放ちながらも無口な竹倉純とは対照的だった。


 井上の明るい性格が混雑時のピリッとした中央レジの雰囲気を和らげる場合もあり、良く言えばムードメーカー、悪く言えば空気の読めない男。


 そんな井上と莉子は同じ時間帯にレジや商品の品出しを任され、ペアのように組まされていた。

 新人の莉子の主な指導係は莉子に厳しいパートの荒木史香と陽気な井上康介のふたりいる。確かに厳しい荒木よりは井上が指導係の時の方が面白くて楽しい。


 しかし遡れば5月の中頃からになるが、少々困った状況になっていた。

 井上は何かにつけて莉子の隣で作業をしたがる。値札付けや包装作業も他にスペースが空いていても、彼はわざわざ莉子の隣で作業を行う。


 1分でも口を閉じていられない井上は聞きもしないのに自分の身の上話を饒舌じょうぜつに語った。

 彼は大学4年、通っている学校は県内では有名な私立大学だ。彼女は今はいないらしいが、井上の恋愛事情など莉子にはどうでもいい話だった。


 気さくな井上は仕事の教え方も丁寧、あの荒木が指導係となるよりも数倍マシだ。

 いい人ではある。けれど時々うっとうしい。莉子の井上の評価はそれに尽きる。


 井上が側にいる時、竹倉純は莉子の側には来ない。

 用事がないなら側に寄る必要もないと言うことなのだろう。でも井上が側にいる時は特に、純は莉子に話しかけてもくれない。


 純が井上を毛嫌いしていたり苦手意識を持っているわけでもなさそうで、今日も店が空いてきた午後には純と井上の談笑現場を見かけた。

 なのに純は莉子とは一切話をしてくれなかった。こころなしか、今日は目も合わせてくれない気がする。


 そんなこんなで土曜の勤務が終わり、更衣室に戻った莉子は超がつく速さで着替えを済ませた。

 男性はほとんどがエプロンを外してそのままの服装で帰っている。着替えるとしても上着を羽織ったりシャツを替えたりする程度、女の方が明らかに着替えに時間がかかる。

 もたもたしていれば、純は帰ってしまうだろう。


 純と店員の雑談を盗み聞きして得た情報では純は自転車通勤だ。でも今日の天気は朝から梅雨空が広がっていた。

 きっと電車かバスで来ているはず。普段は自転車の莉子も今日は電車だ。


 駅前の大通りに面した青陽堂書店は大通りを抜けた先に駅があり、バスターミナルもある。店を出てからの帰り道の方向は同じだろう。だからこそ今日が話しかける最大のチャンスだった。


 今日の服装は着替えが楽なワンピースにした。ウエストをリボンで縛るタイプのワンピースは裾のレースがひらひらと可愛く、先日購入したばかりだ。

 雨の日に新品の服を下ろしたのは竹倉純と一緒に帰る作戦を実行するため。


(今日はあまり目を合わせてくれなかったなぁ。なんで……? 嫌われてはないと思う……けど)


 後ろで束ねていた髪をほどいて手ぐしで整え、ピンク色の傘を持って女子更衣室を出た。

 事務室の職員に挨拶をして5階フロアの廊下に出ると、そこには帰り支度をしてエレベーターの前に立つ純とまさかの井上がいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る