神に愛されたアベルと、親に愛されたカイン

 世界は、残酷だ。

 神から溺愛され、多くの恵みを与えられる人間はいる。

 ――彼の側にいる自身も、それを深く知っている。


 人を創り給うた神に愛され、常人を凌ぐ才覚や知性を持つ人間。

 つまりは、天才。

 そう、称される者のことだ。

 その才は、ただ神の匙加減の誤り。

 ただの偶然か。神の重過ぎる愛の差が。

 人並み外れて組み込まれた才能が、同種である人間から嫉妬されることがあるのを、神は一万年以上も人間を作り続けながら、まったく考えていない。多くの才を持ち得た人間は、崇められこそしても、愛されることをしない。

 親からも、誰からも。


 神園無。

 天才であり、僕の主人だ。彼は、言う。

 愛されるのは、決まって神園 れいのほうだと。

 僕の主人の兄のことだ。

 腹違いの優しい兄らしいが、父と同等の知性しかないがゆえに、父から愛されていたらしい。本当の天才のことは、山奥の屋敷に閉じ込めておいて。

 神のちょっとした匙違い。

 それはある意味、才を得るための代償かもしれない。

 御主人様は――ナイは、父に愛されるということをしなかった。


 財閥『神園グループ』の会長を務める父・神園秀は、グループの全てを掌握している。

 だからこそだ。少年ながらにして、多くの才を得た息子が、いつか自分を滅ぼす敵になると認識したのだ。コイツがいては、いつか自分はここにいられないと。

 本当の天才を、彼は恐れて、いない者とした。

 そして、才ではなく、血を選んだ。

 神園秀は、本妻の第一子であった。

 神園秀の父は、一代にしてグループを発展させた剛腕、神園 ジン

 愛人は多くいて、愛人にも子どもを作らせた。

 そしてもっとも才能のあった者を跡取りにした。それが神園の掟となり、秀が跡を継いだ。

 彼のもとにできた子どもの中では、神園秀は優秀だったと言える。

 神園神自身も、真に天賦の才を得た者だったかは分からない。

 だが、その子どもたちは優秀な人間しかいなかった。天才が、いなかったのだ。

 仕事をこなし、企業を多くしていった神園秀はそれなりにできた人間だった。それでも越えることのできない線が、天才と秀才の違いだった。成長して優秀な人間と天才が生まれたとき、彼はその異常な才能を恐れた。

 優秀な血の、最初の子どもである「零」を跡継ぎと決める。

 天才の血の、神園無のことを山奥に隔離して。

 父なる神にもっとも愛された神園無という人間は、世間的には存在しない。

 決して優秀ではない人間のために、山奥に閉じ込められることを神園無自身はこう言った。「世界なんて、そんなものだ」と。しかし逆を言えば、世間に縛られず自由に小金を稼ぎ、父から無限に振り込まれる生活費で生きている。それで文句をいうのは、贅沢ではないかと思ってしまう。

 

 何もできない僕は、付き人として彼を見つめながらそんなことを思っていた。

 口にはしない。

 ペットは口を利かない。


「じゃあ、その人を探せばいいんですね」

 

 神園無はソファに腰掛けたまま、電話に確認する。

 会長である父の友人「小泉」という男からの電話だった。

 受話器を放り捨てて、彼はスピーカーからの音を聞いていた。彼の顔には、かなり嫌そうな皺が浮かんでいて、美しい彼の顔が台無しだった。

 サラサラの髪の毛に、どこか幼い顔立ち。それはあまりに均整がとれ、性別すらあやふやに見える。この主人のことを、僕は男ながらに好いている。僕にはない物を、すべて持ち合わせるこの人のことが大好きだった。

 僕は、ゆっくりと彼の側に居ながら、その話を聞いていた。


『娘を探してほしい』


 そんな依頼に、神園無は嫌な顔をしながらも、相手の気が静まるまでずっと黙って聞いていた。その様子からは、やる気が感じられない。ひきこもりである神園無は、外出しなければならない依頼は拒否したいはずだ。しかし、これが父親の友人となれば話は別になってくる。それは家族間の信用に直結する問題だからだ。

 印象を良くするために、最初は引き受けておく。これが鉄則だという。

 手を付けることはある。だが、それは余程のことがある場合のみに限られる。

 彼曰く、「親と上手に付き合うコツ」というヤツらしい。

 あまり普通の家族には使えそうにもないコツだった。彼は嫌なことはやり過ごし、得意なことは省エネでやってのける。あまり褒められた生き方ではないが、僕はその生き方に同意する。

 やりたくないことは、当然やらないほうがいい。

 そうして生きれるなら、そのほうがいい。

 僕も、そう思う。

 そのほうがいい。いいに決まっている。


「ああ、じゃあ、やっておくから。ええ、はい。じゃーね」


 娘の特徴すら聞き流しつつ、電話を切った。

 僕はスッと彼に飲み物を差し出すと、ゆっくりカップを傾けた。先ほど入れた紅茶だった。紅茶を飲みながら、彼はソファの上で体育座り。


「ねえ、零夜」


 ナイが、僕を呼ぶ。

 ゆっくりと彼の傍に跪いて、主人の命令を受ける。僕の顔は努めて笑おうとするが、そんなことはできない体になっていた。強張った表情筋が、醜く動いただけだ。

 僕の心の病に、心から絶望する。


「無理に笑う必要はないよ。一生懸命働いてくれれば、それでいい。ところで、兄に直通の電話番号を覚えてる?」


 彼は自分のケータイを取り出していたが、番号を登録してないらしい。

 そんなところは、どこか普通の人間とは違う。人は覚えないように道具を頼って、記録を残す。でも、彼の脳はそんなものより遥かに正確に記録する。必要な情報は一度見たら間違いなく覚える。でも、不要な情報と思えばただちに消される。

 自分の兄の電話番号は、必要なものだと思うけど。

 そう思いながら、僕はケータイに番号を入力した。

 彼はまたスピーカーにしてケータイは、テーブルに放り投げた。すぐに電話はつながって、「元村」と名乗る第二秘書が電話口に出た。

 いつもいてくれる、ハルミという女性ではないようだ。


「あれ? ハルミさんは?」


 ナイが、一言目でそれを聞く。


「社長とともに出掛けられました。どういったご用ですか?」

「兄さんに繋いでほしいんだけど。兄さんに直接言うから。で、いつ戻るんだい」

「実は、5日ほど休むと連絡が入っていまして」

「5日も? いろいろと仕事をしないといけないあの人が、そんなに休んでいいの?」

「5日分の指示は、すべて貰ってありますから」

「へえ」


 そう言いながら、ナイはゆっくりと目を閉じた。

 何かを考えているみたいだが、常人の僕には分からない。

 電話の向こうで彼女は、「そんなわけですがどういたしますか?」と聞いてくる。


「どこに行ったかと、ハルミさんもずっと一緒なのかも教えてもらえる?」

「えっと」カチカチとマウスの音のあと、秘書は答える。「どこに行ったかは伝わっていませんね。でも、ハルミさんも5日の休みを貰っているようですよ」

「へえ、じゃあ、いいや」

 すぐに電話を切った。


 あまりに無礼な電話の切り方だったが、彼ならばしょうがないという認識が神園グループの人間には、すでに周知されている。少し悲しいくらいに。

 神園無がゆっくりと目を瞑り、再び目を開けた。

 結論が導き出されたようだ。


「兄さんは、もう家に戻ってくることはないだろうな」


 御主人様は、あの兄のことをどう思っているのか。

 口では確かに「嫌な兄だ」とか、「馬鹿だ」とかやけに多くの悪口を言っている。だとしても、それが本心であるとは限らない。


「好きだ」なんていう言葉は、僕のような単純な男しか吐かないものだ。


 彼は、本当はどう思っているのか。

 あの零という兄は、御主人様がこの世で唯一心を許す人間で、とある事件を共に生き残った戦友らしい。5日の死のゲームで何があったのかは、僕にも話してくれない。

 仲睦まじ過ぎる兄弟だと、いつも思っていた。

 僕に何ができるだろうか。

 そう考えながら、僕は静かにナイのことを思う。

 ご主人様のことを考えながら、薄い刃でゆっくりと自分の手首を撫でた。

 ピリッとした痛みが走り、真っ赤な血の筋がそこから溢れ出てきた。僕の痛み、生きているという痛みが感じられた。それは、そのまま自分の生きている証だった。


「ああ……」

 自分の苦悶が口から漏れた。

 痛みは、すでに快感へと変わる。

「零夜」

 いつの間にか、後ろにナイが立っていた。

 僕の手首の傷を見て、青褪めていた。彼は兄の零とともに、血なまぐさい事件を乗り越えた人間だ。赤の他人の血を見ようと平気な顔をしているくせに、身近な人間の血を見ると混乱してしまう。


「零夜!」


 そう言って飛んでくると、僕の足元に跪く。

 ゆっくりと僕の手を取り、傷口を口元へ持っていき、細い舌で舐めはじめた。赤い鮮血を美味しそうに舐めとって、笑みを浮かべた。


「人の唾液にはね、痛みを和らげる作用があるんだ」

「そう、なんですか」

「だとしても、僕は嫌だよ。君が死ぬのは」


 ナイはメイドの一人を呼んで傷の手当てをさせると、タクシーを呼んでくれと、険しい顔で言って、部屋から出て行った。僕は包帯の巻かれた手首に一度だけキスをして、タクシー会社に電話を掛けるために、僕も部屋を出た。

 彼が悲しそうな顔をするのを、僕は久しぶりに見た。

 電話を掛けると、全速力で30分後にかかると笑われた。

 僕は不要なダメージに震えながらも、受話器を戻した。もう電話ですら怖い。

 でも、次に神園無の着替えを持っていくという仕事がある。僕は新しい下着や気に入っているスーツを選び、シャワー室まで持っていく。

 シャワー室に入ると、シャワーカーテンの向こうのシルエットが微かに見える。

 鼻歌交じりで、シャワーを浴びている。


「零夜、持ってきてくれたの?」

「は、はい。スーツですよね……なんだか、ナイが辛そうな顔をしてたから。家に行くのかなって思って。どうしてかは分かりませんでしたが……」

「零夜ぁ」


 シャワーカーテンが開かれ、僕は中に引き摺りこまれる。

 僕は服を着たまま、上からお湯を浴びせかけられた。


「偉いペットだね」

 でも――彼は、僕のとても醜い体を抱く。

 彼は美しく、僕は汚い。

「君は、ちょっと考えすぎだし、最近はシャワーもサボってるだろ?」

「臭いますか?」


 振るえる声で僕は言う。

 そんな僕は、まるで雨の夜に濡れた仔犬で。

 それとも母に叱られた子どもだろうか。僕の体は、とても小さくなったようだ。


「可愛いよ」


 こんな僕を、彼はただ愛おしいと言う。そんなわけはないんだ。こんな僕だから。人間には、大切な気持ちというのがあるらしい。愛とか思いやりとか。そんな一欠けらを持たない者と、亡くした者である僕たちは、似ているのかもしれない。

 僕には、そんな些細な発見でさえ、嬉しくて仕方ない。

 震えるほどに。


「ううん、ボクは零夜の匂い、好きだけど」

「だけど?」

「ほら、僕の家に行くのにそれだと怒られるから」

「僕も行くんですか? 無理ですよ、あんなに怖いところ。外出するだけでも無理なのに」

「大丈夫、ボクと一緒ならさ」


 抱きしめる腕が、少し強くなった。

 それから僕は、勝手に体を洗われ、終わると彼は僕の額にキスをした。

 僕は、彼のペットでいい。

 彼のペットとなるなら、それでいい。


 それ以上は、なにも望まない。


 

     ***


 

「彼は、もう戻らない」

 タクシーに乗り込んで、沈黙の車内で彼は突然言った。

 彼? と一瞬考えて、すぐにナイの兄・零のことだと分かった。


「彼は、ハルミと愛し合っていたみたいだ、でも、父はそれを許さないだろうし、だから、五日という長い休みを取って姿を消した。それが僕の推理さ」


 タクシーの中で縮こまっていた僕は、彼の話を黙って聞き、彼の手を握っていた。

 彼の手を握ると、対人恐怖症の僕も、少しだけ落ち着くことができた。

 神園家の邸宅は、都内有数の高級住宅街のど真ん中にある。神園秀は大部分の仕事を息子に任せているので、自宅にいることが多くなっていると聞いていた。家に着くころになって、僕は次第に気持ち悪くなり、帰りたくて仕方がなかった。

 神園無は、僕の顔を見て心配そうに聞く。


「顔が真っ青だよ」

「もう、帰らせてください」


 僕はもう卒倒してしまいそうだったが、僕の頭が急に撫でられる。それだけで少し具合が良くなる自分も情けないが、今は彼の優しさに頼るしかなかった。

 無にとっては、久しぶりの実家への帰宅らしい。

 だが、もちろん不要と言われた子が、歓迎されることはない。

 出迎えの執事やメイドを追い払って、神園無はまっすぐに父の部屋へと向かった。

 嫌になるほど広い家の中心部に、父のための施設があるという。純日本風の平屋でありながら、そこだけが異質だった。コンクリートの壁に囲まれ、私的に使うハイスペックなコンピュータと実験室があり、そこにいれば、核戦争でさえ生き残れるという。


 神園無は、勝手にドアを開け、ずかずかと足を踏み入れる。

 彼の父は、デスクに座り煙草を吸いながら、会社の資料に目を通していたようだ。突如として現れたひきこもりの息子を見て、資料を天高く放り投げ、嫌な顔をしてみせた。

 かけていた眼鏡を、ゆっくりと置くと、神園秀は恐るべき第一声を吐く。


「何の用だ」


 ナイは二年ぶりの再会と言っていたが、最初のセリフがこれだ。

 もう少しウィットに富んだ言葉を紡ぐことはできなかったのだろうか。


「いや、忘れ物を取りに」

「何を、だ? ここにオマエのものなんてないはずだが」

「家督」


 真面目な顔をしていた神園秀は、急に吹き出した。

 大笑い。普段が真面目な顔だけに、その変わりようは異常だった。人の顔というのは、これほどまでに変貌するのかという笑いっぷり。そこには大企業の会長という威厳は存在していなかった。


「何故、お前に渡す必要がある」

「なんだ、何も聞いてないの? じゃあ、いいや。また来る」

「どういうことだ。何を言っている。説明しろ」


 父親が大声で叫んでいるのに、神園無は勝手に帰ろうとする。

 そして、ただ捨て台詞のように言葉を吐き捨てて出て行った。


「みんなが殺されてから2年。ボクと兄さんだけは生き残って、兄さんは何とか前に進んでいる。だから、ボクは任されたら必死にやるよ。また来るよ、父さん。

 すべてが父さんにも分かったときに」


 彼はそう言って、逃げ出した。

 しっかりと僕の手を握って。




 後ろで彼の父親が喚き散らすと、黒いスーツの人間が飛んでくる。

 大柄なボディーガードたちは、僕たちに手荒な真似をしようと思って飛んできたわけではない。大企業の会長である秀のことを、守ろうと飛んできた。彼らは秀の無事を調べると、彼の側を固めただけだった。

 秀の喚き声には、まったくもって親の優しさというものがなかった。

 子を侮辱し、罵る言葉だった。

 僕がもう少し強ければ、戻った彼のことを殴っただろう。

 でも、今の僕にはそんなことをした上げる気力すらない。だから、ナイの手に引かれるままに、神園の家を後にした。

 ナイは、強い。

 だから、僕は、天才の彼に傅くペットなんだ。



     ***



 小泉家の娘・リエ。

 すぐに、その人間を探し始めるべきだった。

 または、大切な神園零のことをすぐに追うべきだったと今になって思う。


 神園零は、その4日後、大いにマスメディアを騒がすことになるのだ。







 日本中のマスコミがそろって、その死を報せることで。

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