第18話 不穏

「……帰ってこないな」


 涼は、碧人が全く帰ってこないことに疑問と不安を覚えた。既に十分以上経過しているが、涼の家と碧人の家は全力で走れば往復五分もかからないのである。

 その上、碧人はポモドーロアプリのタイマーを随分と気にしていた。


「心配だ」


 三角不等式を解こうと思っても、心配でイマイチ集中できない。


「数学はやめよう」


 計算問題は、考えなければ答えがでない。だからこそ、考えを乱すような要素があると途端に何もできなくなる。ならば、考えなくてもよいものをやればよい。

 涼が取り出したのは、青と黄色の対比色が眩しい政経倫理の参考書である。


「えーっと……」


 涼は詳しく読み進めるもあまり覚えられる気がしなかった。

 倫理など、日常生活で目に触れる機会などほとんどない。倫理の内容を見て簡単だという人がいれば、それは厨二病である可能性が高いのだから。


「よし、ちょっと出かけるか」


 軽く流し読みをして概観を把握した後、あまりにも帰ってくるのが遅い碧人の様子を見に行くことにした。

 そして、自室の扉を開けるなり扉の前に大きな人影があった。


「誰!? ……ってお父さんか。びっくりした」


 扉の前に立っていたのは、涼の父親だった。


「ちょっと外に行ってくるよ」


 用件を告げ、父親の側を過ぎようとするも父親は話しかけてくる。


「おう、買い物か? そういえば先程碧人くんが大急ぎで出ていったけど喧嘩でもしたか? 安心しろ。俺はこの拳がある。多少なりとも役に立てるかもしれんぞ」


 涼の父親は右袖を捲り、火傷の瘢痕と年齢によるシワ、そしてその他諸々の傷が光る右腕を誇示してみせるとシャドーボクシングを唐突に始めだす。


「いや、喧嘩したとしても殴り合っちゃ平行線では?」


 殴り合って芽生える友情など、それはフィクションでの事象である。現実でやったらただ医療費が嵩むだけだ。


「何を言ってる涼。俺の拳は今までに盾として使って覚えられないくらい骨折したからな。娘のためなら腕の骨の一本や二本開放骨折してみせよう」


 右腕に光る傷の多くは、その時にできた傷のようである。


「盾として使うならシャドーボクシング何だったん……? ってそうじゃない! 別に喧嘩してないから!」


 父親の周辺にはIQを下げるデバフでもかかっているのではないか。そう思いたくなるくらい話がそれてしまったので軌道修正を行う。


「何だ。そうなのか。では、なぜ碧人くんはあんなに?」


「実は、お菓子とってすぐ戻ってくるって言ってたんだけど、全然戻らなくて」


 その話を聞いた涼の父親は、腕を組み考え始めた。


「確かに、この距離なら遅いな。ちょっと散歩がてらみに行ってくるか。涼は勉強でもしてろ。碧人くんもつらいだろうし、何か手助けできることがあれば助けてやらんとな!」


 涼の父親はそのまま玄関へと向かうと、外へ出ていった。

 そして、涼が父親を見送るなり父親が言った言葉が気になった。


「……ん? 手助け? まあいいや」


 あのIQの低い父親のことである。変なことを言うのは日常茶飯事でありさほど気にすることでもない。

 そう考えた涼は、部屋に戻ると勉強を再開することにした。


「ええっと、活性部位に基質が結合すると酵素基質複合体と──」


 碧人の捜索を父親に依頼したのは、正直かなり不安だが勉強との両立もせねばならない以上妥協する他ない。それでも、先程よりかはいくらか落ち着いて勉強きるようになっていた。


「って、もうこんな時間か」


 勉強開始から約一時間。碧人がどこかに行ってしまってから約三十分が経過した。スマホを確認しても、連絡はこない。

 父親が帰ってこないこともどうにも引っかかる。


「もしかして、何かに巻き込まれたとか?」


 最近物騒らしいと、母親から聞いたこともある。そのため、二人が何かに巻き込まれたという可能性も否定できない。

 しかし、涼が駆けつけたことで無意味でもある。

 碧人や涼の父親でさえも抵抗できないようであれば、遥かに非力であるはずの涼に為す術はないのだから。

 だとしても、ここで何もせずに待っているわけにもいかない。涼は決心した。

 恐る恐る外へ出て様子を確認するが、特に変わった様子はない。

 そして、ゆっくりと碧人の家へと向かう。道中にあるのは家、コンビニ、よくわからない雑居ビルなどで特に変わりはない。

 そして、すぐに碧人の家に到着してしまった。


「ま、まさか。碧人の家の中に?」


 今は昼だ。こんな日中に堂々と他人の家を襲撃する事件は珍しいだろうが、その裏をかいた事件が起こっているかもしれない。そう考え碧人の家のドアノブに触れた時だった。

 すぐ後ろに大きな人影があることに気がついたので、涼は咄嗟に身構えた。


「どうした涼、勉強はいいのか? ってそんな身構えてどうした? 俺はロリより成熟した人妻の方が好きだから涼を襲うことはないから安心していいぞ」


 立っていたのは、涼の父親であった。


「お父さん!? なんでこんな遅いの!?」


 実の父親の性的嗜好を聞いたことなどどうでもよく、二人の安否が心配だったのだ。


「ああ、実はな……。知り合いが歩いてて、コンビニで一緒に酒飲んでた」


「あのさぁ?」


 父親への心配はすべて杞憂に終わった。しかし、まだ碧人の様子がわからない。


「碧人の様子はどうだった?」


「ああ、碧人くんか、酒に夢中で正直忘れてた」


 全く使えない父親に正直イラつきつつも、涼は改めて碧人の家のドアノブを捻った。すると、鍵がかかっておらずに何の抵抗もなくドアは開いた。

 涼は碧人の家の中をゆっくりと慎重に、涼の父親は何の警戒もなく杜撰に家を探す。

 しかし、家の中には誰もいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る