第28話 幸せの水

「出て行け!! 出て行け!!」


 優しく温厚な修一が声を荒げている。

 七森は修一のこんな姿を初めて見た。


「父さん……?」


 聡は驚きすぎて何もできずに唖然と立ち尽くしている。

 冴も怯えていた。

 初めて会った恋人の父親に、いきなり罵倒されたのだ。

 無理もない。


 修一はテーブルの上にあったステーキナイフを掴み、冴に向ける。

 七森が修一の手首を掴んで止めに入った。


「兄ちゃん!! 突っ立ってないで冴さんを連れて出て!!」

「あ、ああ……!」


 聡は我に返って冴を連れて外に出る。

 車のエンジン音が遠ざかっていくのを確認すると、七森は静かに修一を落ち着かせるように声をかける。


「行ったよ。落ち着いて……」


 修一は持っていたナイフを手放し、そのまま力なく倒れこんだ。

 そして、伯母は急に泣き出した。


「ごめんなさい……あなた。気がつかなかったわ……私が、私が先に気づいていたら————絶対に家にあげなかったのに」

「……お前のせいじゃない。悪いのは、あいつらだ。優人、驚かせてすまなかった」

「俺は別に大丈夫だけど……伯父さん、一体どういうこと? 俺を渡さないってなに……? 兄ちゃんの婚約者なのに、なんで……? それに————」


 七森には何一つ理解できなかった。

 冴と会ったのは今日が初めてだったし、聡に彼女がいたことすら知らなかった。

 修一だって、冴と会うのは初めてのはずなのに、なぜあんなにも激しく拒絶したのか……


「————スイジンカイって、何?」




 *



 聡は冴を家まで送りながら、必死に謝った。

 花火はもう上がっていて、綺麗に見えるあの家で楽しもうと思っていたのに……

 車高の低い聡の車の窓からでは、音しか聞こえない。


「冴、すまない……父さんが急に……」

「いいのよ。私のことは気にしないで。お義理さんがどうして私を拒絶するのか、検討はついているわ……」

「え? どういうことだ?」

「————それより、優人くんよ。あの子、確か事情があって従弟を養子にしたって言ってたわよね?」

「ああ、詳しい理由までは知らないけど……あいつが家に来てから、急に引っ越しが多くなって……」


 聡は理由を知らない。

 七森と初めて会う前に、かわいそうな子だから、面倒を見てあげるようにと修一に言われていた。

 聡も弟ができたみたいで嬉しかったし、七森に会うのを楽しみにしていた。

 

 ところが七森が初めて家に来た時、不思議なことばかりをいう子で、突然笑い出したり、誰もいない壁に向かって話しかけたりして、聡はどう接したらいいかわからなかった。

 そしていつの間にか七森は本当に弟として一緒に暮らすことになり、聡は七森中心の生活になっていると感じ始める。

 両親としては平等に接しているつもりだったのだが、聡はそう捉えていない。

 実の息子である自分より、いつも七森のことを気にかけていると思っていた。

 それが悔しかったし、どこの土地へ行ってもすぐに友達を作ってくる七森が羨ましく、嫉妬もしていた。


「そう……大変だったのね」


 車は冴の自宅に到着。

 冴の家は、和風建築の大きな家で、入り口には冴が身につけているペンダントとブレスレットと同じ龍のような蛇のようなデザインの装飾が施されている。

 冴の家族が運営しているという隣の体操教室の方に聡は週三回通っていて、一緒に暮らしている他の家族にも会ったことはあるが、自宅に入ったことはなかった。


「少し寄っていく?」


 冴は聡に尋ねたが、聡は首を振った。


「いや、今日は帰るよ。父さんに、なんであんなことをしたのか聞かないと……反対されてる理由がわからないと、説得のしようもないだろう?」

「そうね。わかったわ。あ、でも、ちょっとだけ待っていて」

「ん?」


 冴は一度家に入ると、500mlのペットボトルを数本持って来て、聡に手渡す。


「そろそろ予備が無くなるでしょ? 忘れずに毎日飲んでね」

「ああ、ありがとう。助かるよ」


 それは宗教団体・水神会の『幸せの水』という水だった。

 時代に考慮して、ラベルレスのペットボトルのため、修一は聡が飲んでいる水が水神会のものだとは知らなかった。

 もし、ラベルレスのペットボトルでなければ、すぐに気がついて別れさせていただろう。


「それじゃぁ、また明日……」

「うん、おやすみなさい」


 冴が聡の頬にキスをして、手を振った。

 聡はどんな理由があろうと、どんなに反対されようと彼女といる幸せを失いたく無いと思いながら、家に戻る。

 それは何があっても無理だということを知らないのからだ。


 冴の家は水神会の信者。

 それも、幹部だ。

 住んでいるあの家も水神会の建物で、この土地の支部を取り仕切っている。

 聡は隣の建物を体操教室だと思っているが、それは違う。

 そこに通っている人々が皆、水神会の信者であることに気がついていない。

 正しくは、水神会の集会所なのだ。


「……一体なんだって、あんな風に————」


 赤信号で停止すると、助手席に置かれたペットボトルが転げ落ちる。

 聡はそれを大事そうに拾い上げてドリンクホルダーに差し込んで、帰路を急ぐ。

 花火はまだ上がっていたが、音しか聞こえなかった。




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