Novelber day 25 『幽霊船』

「だぁ~れも、いなくなっちゃったね」

 重く立ち籠めていた雲が晴れて、月明かりが船上を照らした。帆柱の上に立ち、潮風を浴びていた男は、眩しそうにそれを見上げる。男の体は透き通っていた。水の袋のように弾力があり、体から伸びた触手が菊の花のように開いて、月光に虹色の煌めきを反射させていた。それは水中にて腕を広げる海月が、月下に現れたような有様だった。

「フィーラー、それは貴方が」

 コツコツと、床板を叩く足音。フィーラーが、その柔らかで骨のない体をぐにゃりと曲げて振り返る。薄汚れた灰色の甲板に、もう一人の男が立っていた。一切の汚れのない、白いスーツを着込み白いシルクハットを合わせた、伊達男風の――しかし、陶器の如く白く、透けるような顔面と朱色の瞳の為に、一目で人外であると看破されるような存在が。

「貴方が全員、食べてしまったからでしょう?」

「ヤだなぁ、ノバ。ノバだっていっぱい食べたのに、俺のせいにしてさァ」

 フフ、と笑って見下ろす。クリオネの悪魔は、暗い甲板の底からフィーラーを指さす。白い手袋が、夜に咲く花のように闇夜に浮かび上がる。

「貴方の中。まだ、肉が消化できていないじゃないですか」

 フィーラーは海月の悪魔だから、その体は透けている。彼が喰ったモノは、彼の腹の中に残って漂い、それは甲板に影となって落ちていた。ノバは更に、足下に落ちた赤黒い血の汚れを、爪先で指し示す。トントンと、性格の悪い教師のような態度で。

「貴方は喰い方も汚いし、殺し方も下手だし、全くなってない、なっていませんよ、フィーラー。折角僕が、住処を無くして浮き袋みたいに彷徨っていた貴方を拾ってあげたのに。いつだって人間を食べ散らかして服も靴もその辺にポイ捨てで」

「ストップストップ。もういいでしょ」

 うんざりという顔で、そのまますっくと立ち上がる。彼が元来持ち得ていた、美しい水の体は血と脂で濁った。人の肉を食べた為に、嘗ての精霊は悪魔へと堕ちた。

 しかしそれでも、彼は何の後悔も抱かない。抱けない。全ての船員が胃の腑へ、あるいは海中へ没したことで幽霊船となったこの船上で、涼やかな海風を浴びながら、彼は食欲以外の感情を失ってしまった。

 ぼんやりと、月と星を見上げる。昔、もっと綺麗な光を――生命の躍動を見ては心を躍らせていたような気がするのに、何一つ、思い出せない。彼はもう、ノバが語る「失われた住処」が何であったのかさえ、分からないのだ。

「お腹すいたなぁ」

「……貴方、本当にそれだけですねぇ」

 はぁ、とノバはあからさまな溜息を吐いた。

 悪魔達が闊歩する、死の臭いの立ち籠める船上で、月と星だけが清らかだった。

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