おまけ話 100PV感謝

 ここに、一枚の手紙がある。黒い紙に黒鉛で書かれている為、内容は光に当てないと見えないようになっていた。明神はその手紙を眺めながら硝子戸の開け放たれたくれ縁に腰掛けている。紺の作務衣を身に纏っていて、切れ長な目が偶に茜色の空を映し、また黒い手紙へ視線を戻した。ゆっくりと腰を上げ、大きな溜息を吐いた。



 石に腰掛けた貂は大欠伸をした。顔は白く、体の毛色は黄色い。黒い靴下を履いたような手で顔を擦った。ついさっき、この地蔵……もう長い間人々から忘れられ、風化してただの石の様になっているこれを、大きなブルドーザーで退けようとした作業員の足に噛みつき、追い払ってやった所だった。その前は油圧ショベルで退けに来た人間も居たし、その前はどっかの坊主がやって来て何やらお経を読み上げていた。その前は鶴嘴とスコップを持ってきた男達も居た。それらを悉く追い払ってやったのだが、逢魔ヶ刻の今時分、学生服を着た小柄な少年がやって来て貂は不思議そうに首を傾げた。どう見ても中学生だろう。その少年が徐ろに目の前までやって来て座り込むと、貂は右へ行ったり左へ行ったりする。少年の黒い瞳が確実にその貂の姿を追っていた。

「な、なんだい。視えているのかい? 珍しい人間が居たものねぇ」

 貂が冷や汗を流すと、少年は瞬きしないでじっと貂を見つめる。

「場所を変えて貰えないだろうか?」

 唐突に言われ、貂は二股に分かれた尻尾を見せびらかせた。

「嫌だね。あたいわね。三百年前からずっとここを住まいにしていたんだよ」

 少年は落ちていた小枝を拾うと、貂に差し出した。貂ほマズルに皺を寄せ、その小枝を凝視する。枝の先に小さな青虫がしがみついていた。

「諸行無常は世の倣いにて……」

「なんだい、説教かい? おかしな子だねぇ」

 不意に青虫が枝のてっぺんへ登りきると、体を仰け反らせた。やがて繭を吐いて蛹になると、背が割れて蝶に変わる。白い翅を広げた蝶が羽ばたくと、貂は不思議そうに飛んでいった蝶を目で追った。

「ずっと青虫のままの蝶などいない」

「そりゃそうさ」

 貂が枝の先に視線を戻すと、やはり青虫がしがみついている。どうやら今のは幻術か何からしい。不意にそこへ雀が飛んできて枝先の青虫を啄んで行くと、貂は目を丸くした。空に飛んでいった雀と、枝先を交互に見やるが、今度は幻覚では無いらしい。

「あの青虫は、蝶になれなかったのかい?」

 貂が冷や汗を流して少年に詰め寄った。けれども少年は静かに目を伏せただけで何も応えない。応えずとも解りきったことだった。

「死んでしまったのかい……」

「さて、どうだろう?」

 貂は眉根を寄せた。

「どういうことだい?」

「あの青虫のお陰で、今の雀は空腹を満たすことが出来ただろう。巣に帰って雛に与えたかもしれない。それは命を繋いだのであって、命が無くなったということではない」

「よく解らないわ」

 少年が地面を指し示すと、小さな双葉が芽を出していた。さっきの雀がやって来てその傍に蹲ると、こてんと横になり、目を閉じてしまった。その雀の体に蟻が集り、小さな虫が雀の体を蝕んでいく。やがて雀の姿が跡形も無くなると、傍にあった双葉が背を伸ばし、葉を広げて黄色い小さな花を咲かせた。

「不思議なこともあるもんだね」

「そうか? 生き物は皆、何かの死の上に成り立っている。何も死ななければ何も生まれては来ない。この花も」

 黄色い花に白い蝶が飛んできて止まる。貂はそれが不思議でたまらなかった。

「変ね。青虫は蝶になれずに死んだのに、廻り廻って同じ種族の支えになったのかい?」

「そういうものだ」

 貂は驚いた様に少年へ視線を向け、再び花へ視線を戻したが、元の双葉に戻っていた。どうやら今のも幻術らしい。貂は首を傾げながら頭を悩ませた。

「じゃあ、私は何処へ行けばいいんだい?」

 貂が問うと、少年は中空から扇子を出した。虎斑竹で出来た総竹扇を広げると、空を指し示す。

「本来、あるべき所へ……」

 貂はそれを聞くと不意に双葉へ視線を投げた。

「じゃあいいわ。ここを退いてあげる。ただし一つだけ条件があるわ」

 貂はそう言うと石の上に座り直した。

「一年くらい前に、ここに花を手向けてくれた子供がいたの。その子の病気を治して」

 一つくらい、最期に良いことを……何か誰かにしてやれることをと考えた時にそれが浮かんだ。それを聞いた少年の瞳が一瞬戸惑った様に揺れる。

「……」

 返事をしかけたのか、唇は微かに動いたが声はない。少年の様子に貂は眉根を寄せた。



 大野 海星は小学三年生だった。黒いランドセルを背負ったまま息を切らせ、公園へ向う。公園に辿り着くと、洋風の東屋に腰掛けた少年の姿が目に入り、恐る恐る少年に近付いた。

「あの、あなたが手紙の返事をくれた鬼さん?」

 海星の質問に学生服を着た少年は静かに頷いた。

「やった! お父さんの言っていたことは本当だったんだ!」

 海星は目を輝かせ、驚きながらも嬉しそうに叫んだ。黒い紙に鉛筆で手紙を書いて屋根の上に置くと、どんな願いも叶える鬼がそれを広い上げてくれる。返事が来たら鬼が願いを叶えてくれるのだと父が話してくれたのだ。けれどもまさか、本当に返事が来るなどとは夢にも思っていなかった。

「じゃあ、じゃあ、僕の願いを叶えてくれる?」

 海星の言葉に少年は目を伏せた。

「三日」

 少年からそんな言葉が帰って来て海星は戸惑った。今迄嬉しそうに燥いでいたのに、一気に表情が強張る。

「三日経って、気持ちが変わらなければ叶えてやる」

 海星は肩を落とすと不満そうに少年を見上げた。

「……やっぱり嘘なんじゃないか。この嘘つき!」

 海星が走って行ってしまうと、少年は溜息を吐いた。少年の溜息が風に溶けていく。夏はもう終わりを告げていた。

 海星は家に帰るとランドセルを部屋に放り投げた。弾みで開いたランドセルから切り刻まれた教科書やノートが出てくる。海星はそれを見やるとベッドに横になった。

「何だよあいつ……」

 海星はそう呟いて枕を抱える。海星は天井を睨みながらクラスメイトの顔を思い返していた。



 翌日、海星は学校帰りに昨日の少年と出くわした。病院へ入って行くのを見て不思議そうについて行く。誰もいない緑の廊下の突き当りへ行くと、少年が不意に振り返って窓を指し示した。海星が覗くと、点滴の管に繋がれ、部屋のベッドに横たわっている子が居た。髪が無いので性別は解らないが、年齢は海星と同じくらいだろう。

「この子はもう生きられないんだ」

 少年の言葉に海星はふーんと鼻を鳴らした。顔も名前も知らない子だ。

「お前の命を、この子に差し替えてやろうかと思う」

 海星はそれを聞いて思わず少年を見上げた。少年の表情は変わらないが、何処か悲しげに見える。

「今は、原因不明の病気だが、この子が死ぬ事によって色んな学者がこの病気を研究する礎になる。そうすれば同じ病気で苦しんでいる人を治すための新薬が出来るかもしれない。彼女の死が、これから多くの命を救う大きな一歩になるかもしれない」

 少年の言葉から、ベッドに横たわっているのは女の子なのだと理解する。

「お前も、これから勉強して、病気の子供を助ける立派な医者になるかもしれない」

「そんなの分からないじゃないか!」

 海星は思わず叫んでいた。

「毎日毎日、学校で虐められて、不登校になって引き籠もって、何の役にも立たない大人になるかもしれないじゃないか!」

「それは俺にも分からない」

 少年が呟くと海星は唇を噛み締めた。

「俺は可能性を言っただけだ。もしかしたら立派な政治家になってこの国をより良くするかもしれない。教師になって虐めの無い良い学校を作るかもしれない。思うようにいかない自分の人生に悲観して誰かを羨み、妬んで人を殺してしまうかもしれない」

 海星はそれを聞くと大きく深呼吸した。

「だから……」

「だからこそ、もう一度よく考えてほしい。今からでも、親に一言相談出来ないのか? 担任が見てみぬふりをするのなら、他の先生に訴えることは出来ないのか? 壊された物を持って警察へ行くことも出来ないのか?」

 少年の言葉に海星は眉根を寄せた。

「だって……だって、お父さんとお母さん、いつも忙しそうだし、学校で虐められてるなんて知ったらなんて言われるか解んないし……もうしんどいんだよ! 疲れたんだよ! 誰も僕の言うことなんか聞いちゃくれないんだよ!」

 怒鳴ると海星はその場を逃げ出した。緑色の長い廊下に自分の足音が木霊する。早くこの悪夢から逃げ出したかった。かと言って、自分で自分の手首を切るのは怖くて出来なかった。学校の屋上から飛び降りるのも足が竦んで出来なかった。死にたいのに、死ぬ勇気が無かった。この悪夢から逃してくれると言うのであれば、鬼でも何でも良かった。



 三日目の朝、海星はいつものようにランドセルを背に負った。台所に行くと、いつもの如く両親は既に家を出た後で誰もいない。テーブルに市販の菓子パンが一つ置かれているだけだった。いつものようにそれを食べながら家を出る。

「行ってきます」

 返事などない。いつものことだった。今日も仕事が忙しいのだろう。海星は覚束ない足取りで学校へ向かった。



 大野 利一は目の前に立っている学生服の少年を見やった。社長椅子に深く座り、鼈甲の眼鏡の奥で眉を潜めていた。

「さっさと帰れ」

「良いんだな?」

 少年が念を押す様に聞くと、利一の隣に立っていた妻が叫ぶ様に声を上げた。

「だから、工事が上手く行ったのは偶然だって言ってるでしょう? さっさと出て行って頂戴!」

 妻の言葉に少年は目を伏せると出て行った。それを見送ると、利一と妻は顔を見合わせた。

「ね、やっぱり子供でしょう?」

 利一は必死に笑いを堪えていた。

 利一は大野建築という建築業をしていて、とある曰く付きの土地を手に入れたのが先月のことだった。更地にして住宅街に……と思っていたのに、そこに転がっていた石を退けようとすると、従業員が熱を出したり、怪我をしたりと不吉な事が相次いだ。お坊さんにお経を上げてもらっても変わらず、頭を抱えていると不意に妻があるお伽噺を思い出した。

「こうなったら、鬼にでも頼んでみましょうよ」

 藁にもすがる思いで妻に言われるままに手紙を書いた。すると不思議な事に返事が直ぐに届いた。そして、あの学生服を着た少年がやって来たものだから二人は目を白黒させた。

「報酬は?」

 ここで、報酬を渋ってはいけないと妻から聞いていたが、何分相場が分からない。

「二千円でどう?」

 妻が探る様に言うと、少年は目を伏せた。何も言わずに帰ろうとするので、慌てて妻が声を絞り出す。

「解ったわ! 五万……いえ、十万でどう?」

 縋り付くように言うと、少年の瞳が一瞬だけ碧く光った気がした。

「承知」

 それから何故か、急に工事が順調に行き始めた。石も退けられ、重機が土地に入れる様になると、夫婦はあの少年にお金を払うのが嫌になった。本当に、あの少年のお陰で工事が出来るようになったとは到底思えなかったーー

 上手く出し抜いてやったと夫婦がほくそ笑んでいると、不意に会社の電話が鳴った。

「はい、大野建築です」

 意気揚々と電話に出た妻の顔が急に青くなり、受話器を落とした。

「どうした?」

 利一はそう言って落とした受話器を拾い上げると耳にあてた。

「大野 海星くんのお父さんですか? 今、国道で事故がありまして……」

 受話器の向こうから息子が事故にあったのだと告げられた。妻はブランドバッグを引っ手繰ると飛び出すように部屋を出た。

「何よ! たかが十万渋ったくらいで……この人殺し!!」

 妻の泣き声が澄んだ空に木霊する。外にはもう少年の姿はない。そのまま搬送先の病院へ向うが即死だったらしく、夫婦は息子の死体の前に佇むしか無かった。



 貂は花壇に座ると、車椅子に座って病院の庭を散歩している女の子の姿を見つめていた。薬の副作用で髪は全部抜けてしまったらしく、ピンクのニット帽を被っている。

「よしよし。これで私も安心して空へ帰れるわ」

 貂が嬉しそうに笑うが、少年の顔は何処か悲しげだった。

「なんて浮かない顔をしてるのよ。あんたは良いことをしたのよ」

 少年は軽く溜息を吐いた。少年の隣で、霊になった海星が車椅子の女の子を見つめている。

「ほら、あんたはあたいと一緒に空へ行くんだよ」

「それは出来ない」

 少年の言葉に貂と海星は目を丸くした。

「お前の選択によってこれから自分の親がどうなるか見届けてからでないとこの地を離れることは許さん」

「どうなるってんだい?」

 貂が聞くと、少年は扇を広げた。

「さあ? 子供を失った悲しみを乗り越えて、恵まれない子供たちを助ける活動をするかもしれない。もしくは、子供の死を忘れるくらいに働いてこの国の経済を回すかもしれない。学校で虐められていた事に気付き、子供の死を受け入れられずに後を追うかもしれないし、他の親子を妬んで人の命を奪うかもしれない」

 海星はそれを聞くと顔が真っ青になった。

「お前の死を活かすか殺すかは生きている者次第なんだ。死んで終わりと思ったなら大間違いだ。これから、自分の選択をここで悔い続けろ」

 少年の言葉に海星はたじろいだ。少年が扇子を仰ぐと、風が吹き上がって貂を空へ運んで行く。それを見送ると海星は家に帰った。



 天井の梁が軋む音がする。利一は呆然と変わり果てた妻の姿を眺めていた。天井の梁にロープを掛け、その先を輪にし、そこに首を吊っている。利一はもう何もする気力が無かった。

 息子の事故の後、息子の部屋から破られた教科書やノートが見つかった。多分、学校で虐められていたのだろう。けれども担任は知らないの一点張りで虐めを認めなかった。同時期に、会社に不満を持っていた従業員が何人か辞めて行き、一人は会社の金を盗んで行った。警察には届けたがまだ捕まっていないらしい。

 これが、鬼の呪いとでも言うのだろうか? あの時、ちゃんと金を払っていれば……そもそも、鬼になんぞ手紙を出さなければ……そう考えた所で後の祭りだった。

 否、ただ単に今迄放置していた問題が立て続けに浮上したというだけかもしれない。賃金を上げろと不満を言っていた従業員に耳を貸さなかった。息子のことも、もう小学三年生だし、自分のことは自分で出来るからと放って置いた部分もある。仕事が忙しいことにかまけて息子の話を聞かなかった。

 不意に利一は立ち上がると妻の体を下ろした。首にくっきりと縄が食い込んだ痕がある。利一は床に転がった椅子を直すと、天井からぶら下がった縄に手を伸ばした。

「海星、父ちゃんも今から行くからなぁ」

 利一の頬を涙が伝う。首に縄を掛けて椅子を蹴り上げると、椅子が床に転げる音がした。

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