隱神 其の壱

餅雅

第1話 狐と鬼と人の子と

 ーーガシャン

 今、暗闇の中で大きな音がした。ブレーキ音と共に車体に激しくぶつかり、彼の体は弧を描いて宙に浮き、そして叩きつけられるように地面に落ちた。頭から抜けるような激しい痛みが背中を中心に襲いかかり、鉄の様な血の臭いと一緒に赤い液体が鼻と口から溢れた。

「ちっなんだってこんな時に!」

眩しいくらい明るいバイクのヘッドライトの向こうで若い男の声がした。そのライトの前に立つと、周りを気にしているのかキョロキョロと見回す姿が影になって彼の体を遮る。

 男は誰もいない事を確認するとヘルメットを被って再びバイクのエンジンをけたたましく吹かせた。男が走り去っていくと、ただただ暗いだけの風が優しく傷口を舐める様に吹いた。

 お母さん、お兄ちゃん……痛いよう。寒いよう。

 声にならず、空気だけが喉を通り過ぎた。走馬灯の様に家族の事が脳裏を過ぎり、虚ろな瞳は最期に目にした男の影だけが焼き付いた。

 弟を心配して探していた兄がやっと彼を見つけ、被る様に弟の名前を呼びながら抱きついたが、その時にはもう意識が無かった。



 獣道の端に立った姫沙羅の木が音を鳴らした。木々の間から見える空はもう茜色に染まり、刻々と黄昏時へ向かっている。汗がねっとりと肌に纏わりつく様な暑さだった。草の匂いを嗅ぎながら、足元の悪い山道を一向に登って行く。栗鼠の足音や鳥の囀りを耳にしながら、緑豊かな山の奥へと足を進めた。

 この山にはどんな願いも叶える鬼が住んでいるーーそんな話を聞かされたのは子供の頃の事だった。毎夜、寝物語に母が聞かせてくれたのだ。高月鬼山、月鬼山、鬼ヶ岳、般若山など十三の山々が連なる霊峰。その何処かに鬼は住んでいるのだと。不思議な事に、その霊峰を隔てた南側と北側とでは全く真逆の風説が伝わっているのだという。

 海に面した南側では悪逆非道の限りを尽くした鬼は、雨を降らせと願えば村一つ押し流してしまう程の大雨を降らせ、叶わぬ恋が成就する事を願った者はその恋人に井戸に突き落とされ、蛇攻めにされて絶命した。

 そうかと思えば、山のせいで日照時間が短く、作物がなかなか採れなかった北側では、親の借金の形に遊郭に売られた女を買い取って里に住まわせたり、疫病に苦しむ者達をたちどころに治して周った。などと全くもって同一人物かどうか怪しい御伽話として伝わっている。

 けれども、人間とは悲しいかな、時代と共にそのヒーロー性は失われ、あの山に住む鬼の噂ときたら悪いものばかりで耳が痛い。今となっては北側でもその物語の真意を知らぬ子らが面白半分で悪い噂ばかり囁いている。

「正しく奉れば鬼も恩恵を下さる」

 その母の言葉だけを信じて足を踏み出した。礼を尽くせば礼で返してくれる方だと母は語ってくれた。それと言うのも、雪が幼い頃、熱病に何日も浮かされ、困り果てた母が一度だけ鬼の元へ訪ねたのだという。その鬼は仰ぎ見る程大きく、碧い瞳をしていたそうだ。

「……」

 考えまいと思ってもそれを想像し、自然と背筋が凍った。この山の何処かに、見上げる程背の高い、碧い瞳をした鬼が居ると思うと、足取りも重くなる。きっと大丈夫だと言い聞かせながら森の中を歩いた。

 ふと、それは突然目の前に現れた。杉林を抜けた先に、それは立派な鳥居が聳えていた。

「ほー……」

 思わず声が漏れる。周りの木よりも大きなその白い鳥居を振り仰ぎながら周りをぐるぐると歩き回った。両手を広げても抱えきれない程の太い幹に神聖さを感じる。見惚れている間に、白い鳥居の背景が綺麗な夜空に変わっている事にやっと気付いた。

「あら……」

 肩を落とし、鳥居の下に座り込む。日が沈んでもまだ蒸し暑かった。今夜も熱帯夜だろうかと考えながら膝を抱える。

「疲れた」

 溜め息と一緒に声が漏れた。少しここで休んでから進もうと考え、棒の様になった足を擦る。疲れからか、呆然と暗い森へ目を落とすと、瞼が重くなってきた。

「おい」

 急に空から人の声が降って来て、夢か現か解らないまま顔を上げた。目の端を擦りながら辺りを見渡すと、鳥居の向こう側にぼんやりと誰かが立っているのが目に止まる。

「そんなところに居座られたら迷惑なんだが」

 まだ若い男の子の声に首を傾げつつ、その容姿を観察した。頭の先から足の先まで目を向けるが、どう見ても鬼とは似ても似つかない学生服を着た少年だった。

「ご……ごめんなさい」

 頭の中で、何度も母から聞かされた鬼の姿を思い浮かべ、そこに立っている子供に視線を向ける。仰ぎ見る程大きく、碧い瞳をした……けれども、どちらかというと彼は中学生にしては背が低い方だと思う。学生服を着ていなければ多分、小学生と間違えられるだろう。瞳も、墨を入れた様に真っ黒だ。ただ、不思議な事にこの蒸し暑いのに冬の黒い学生服を着た彼は汗をかいていない様だ。幽霊かもしれないと思ったが、鬼という言葉には死者の霊魂という意味もある。

「あの……」

 と言いかけて言葉を詰まらせた。君は誰なのか、どうしてこんな人気の無い山奥に一人で居るのか、どんな願いも叶えてくれると噂の鬼なのか……訊きたい事は山程あるが、とりあえずそれらを飲み込んで頭を垂れた。

「私の名前は雪といいます。この山に住むどんな願いも叶えて下さるという鬼を訪ねて参りました」

 もしも相手が鬼だった時の事を想像すると下手に質問攻めにするわけにはいかない。もしも機嫌を損ねれば、願いが叶うどころか、こっちの身が危うい。

「それで?」

 少年の表情は氷の様に冷たかった。

「私の息子を見つけて頂けないでしょうか?」

 喉の奥から必死に絞り出した。相手はただの中学生かもしれない。だからこんな子供にここまで遜る必要などないだろう。けれども恐ろしい鬼かもしれない。そうだとすれば今までの自分の言動に失礼は無かっただろうか? とまるで振り子の様に心が揺れる。

「話を訊こう」

 彼が背を向け、古びた石段を上って行く。その小さな学生服を追うと、森に包まれる様にひっそりと建物があった。苔の生えた四脚門を潜り、立派な日本家屋に見とれながら、玄関の引き戸が開く音を耳にする。広い庭は綺麗に手入れされ、遠くで虫や蛙の声がするが静かな所だった。玄関を覗くと、彼は上がり端の所に座布団を一枚用意してくれた。

「少し待っていてもらえるか」

 雪が頷くと、少年は長い廊下を歩いて屋敷の奥へ入って行く。玄関を跨いで土間に降り立つと、天井の太い梁を見つめた。壁に掛けられた古い時計が音を立てているだけで、しんとしている。玄関が広いわりに、靴はさっき少年が脱いで揃えた運動靴が一足あるだけで、整頓されているというよりは物悲しいという印象を受けた。そして何より気になったのは、玄関から直ぐの廊下の真ん中に、ぽつんと一輪花が生けられている。紫色の花弁が美しい桔梗が、玄関の人工的な光を浴びている。

 彼はここで一人暮らしをしているのだろうか? どうみてもまだ子供だ。そう思いつつ、玄関の上がり端に置かれた座布団に目を落とした。年季が入っているのか色褪せ、けれども穴が開く度に繕った跡がある。今時珍しい若者だ。物を大事にすることを知っている。そして相手に対する配慮もある。

「座らないのか」

 ぼうっと土間に立っていると、さっきの少年が戻って来て声をかけた。少年は無表情なままだったが、さっきの学生服とは違い、麻の着物姿だ。

「申し訳ありません、この様に扱われた事が無いもので、どうしたらいいものやら……」

 初めてだった。人の家に入れて貰えるのも、座布団を差し出されたのも。だからその親切心に寄り添って良いものか迷ってしまう。その優しさだけで目頭が熱くなった。

「お前の好きにすると良い」

 その言葉で、冷たい土間に座り込んだ。上がり端に正座した少年を見上げると、こっちの方が性に合っていて落ち着く。口を開こうとしたその時に、耳に微かに何かが聞こえて目を丸くした。赤子の声だ。少年も声に気付いたのか、瞳を泳がせて短く息を吐く。雪は赤ン坊の声に自然と頬が紅潮し、胸が高鳴った。懐かしいとさえ思うその声に目を輝かせると、その様子に気付いた少年が家に上がるよう促す。

「上がるか?」

「いえ、その……」

 雪は泥だらけになった自分の両手を見て断った。こんなに汚れていては、触るのを躊躇する。見るだけならと心に決めても、目にすれば尚更、触りたくなるだろう。それを察したのか、少年は運動靴を履くと外に出た。手招きされて家の裏へ案内されると井戸があった。慣れた手つきで水を汲み、桶に水を入れると石鹸とタオルを用意してくれた。赤子の声が激しくなり、少年が裏口から家の中へ入って行く。気焦りしながらも、これから対面するであろう可愛い赤子の姿を想像し、丁寧に汚れた自分を洗った。

 裏口からそっと屋敷に入ると、泣き声を頼りに部屋へ入った。六畳程の畳部屋に、赤子を抱き上げている少年が居る。まだ首もすわっていない、産まれて間もない小さな赤ン坊を目にして驚きと嬉しさがない交ぜになった。少年が赤子を布団に寝かせると、そっと抱き寄せた。甘いミルクの匂いがして頬を擦り寄せると安心したのか寝息を立て始める。

「この子は……?」

 少年を問い質すと、彼は瞳を宙に泳がせた。

「母親は一体何処に居るの?」

 何かを考えているのか、彼は少し口籠った。

「昨日、捨てられていたのを拾った」

 その言葉に背筋がぞっとした。世の中には恐ろしい人間が居たものだ。まだ産まれたばかりのこんな可愛い赤子を捨てるだなんて。

「どうして」

 思わず声が漏れた。自分がお腹を痛めた子供を、まるでゴミの様に捨てるだなんて許せない。

「理由はこれだろう」

 少年は眠っている赤子のお包みをそっと開いた。布おむつから出た小さな足は、両方とも本来あるはずの膝から下が無い。

「そんな理由で……」

 産まれた我が子に両足が無かったというだけで、こんなにも酷い仕打ちをこの子は受けなければならないのだろうか? この子がこんな姿で産まれて来た事は、この子のせいではないというのに……沸々と子を捨てたであろう会った事もない赤子の親へ怒りが込み上げる。少年はお包みを直すと雪へ視線を向けた。

「それで? お前は自分の息子を探して欲しいのだったな?」

 我に返って頷いた。赤子の顔を見つめながら息子が産まれた時の事を思い出す。全く似てはいないが、やはり赤子は可愛い。

「私の末の息子が、一昨日から帰って来ないのです」

 彼の瞳が、何かを考える様に宙へ向けられた。

「県道沿いを歩いて行くのを見たというのを聞いて、方々捜したのですが、見つかりませんでした。他の兄弟は、こんな田舎に居るのが嫌になったのだろう。とか、家出したのだろうといって、探すのを辞めてしまいました。でも、末っ子はすごく甘えん坊で、一人で家出なんて出来る様な子じゃないんです。きっと今頃迷子になって、寂しくて泣いているんじゃないかと思うといてもたってもいられなくて……」

 雪が一息に話し終えると、ぼうっと一点を眺めていた彼の瞳がこっちに向いた。

「報酬は?」

 一瞬心臓が止まった様に思えた。ここで報酬を渋ってはいけない。願いに値する報酬が支払えなければ願いは叶わない。

「私の毛皮をどうぞ」



 たっぷりとした毛皮を見せびらかす様に尾を振った。ぴんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに少年を見据える。人間の間ではわりと高級な値で取引されるのだと耳にしたことがあった。だからこれで末の息子に会えるなら、安いものだと雪は思っていた。

「断る」

 人形の様に眉一つ動かさず、彼はそう言って立ち上がった。毛皮を毟られなくてすむという安堵感と、末っ子にはもう会えないのだという不安感がない交ぜになる。

「諦めて自分の山へ帰れ。二人の息子が待っているだろう」

 取り替えたばかりの布オムツと、空になった哺乳瓶を持って少年が部屋を出て行く。頭の上についた三角の耳を揺らすと、赤子を気にしつつも少年の背中を追った。

「待って下さい。何かお気に召さない事をしたのでしたら謝りますから」

 四つん這いになって、見上げながら懇願する。この子は人の子の姿をしてはいるが、狐である雪の話をちゃんと訊いてくれる。何故かは知らないが、末っ子以外に二人の息子が居る事も彼は言い当てた。だから間違いなく、どんな願いも叶える鬼なのだと確信する。けれどもこの子は子供だから、きっと毛皮の価値が解らないのだ。雪は自分の一張羅を断られると他に差し出すものがない。困り果て、少年に蹴られないように、けれども纏わりつくように足元をうろうろした。

「ねぇ、ねえねえ見てよこの毛皮! 山では一番美しいと評判なのよ!」

 背中の黄金色の毛と、お腹の白い毛を交互に見せる様に後ろ足で立った。それでも、中学生の彼は止まってくれない。

「絶対に高く売れるわ」

「あんたの願いに対してそれが見合ってないと思ったから断っただけだ」

 雪は意外な言葉に目を丸くした。

「そりゃあ……私の息子は毛皮なんかよりも価値がありますけど……」

 自分の息子を褒められた気分になって少し鼻が高かった。頬を赤らめ、

「そうなんです。自慢の息子なんですよ」

 なんてにやついていると、少年が目を細めてじっとこっちを凝視した。それがなんだか、呆れられた様に感じて思い違いに気付く。

「あの……そうですね。何でもします。毎日魚を取って来ます。それから……木の実も」

「いいからさっさと帰れ」

 煩わしそうに言われ、肩を落とした。

「あんたの子供は、みんな年頃なんだろ? 他の山の狐の所にでも行っているんじゃないのか? そのうち嫁と孫でも連れて帰って来るかもしれない」

 落ち込んだ雪に、少年はそう言った。本当にそうだとしたら、これ程嬉しい事はないだろう……けれども、雪を適当にあしらうための嘘かもしれない。真実だったとしても雪にはそれを待つ時間がなかった。

「後生です。居場所を知っているなら教えて下さい。自らがお腹を痛めた子供に会いたいと願う母の気持ちを察して下さい」

 こうなったらもう泣き落とししかないだろうと、目頭を押さえるが、少年は見向きもしない。まあこの年頃の子に、母の気持ちを察しろと云っても無理な話なのだろう。再び赤子が泣き出す声が響くと、雪は体をうずうずさせた。少年を見やるが、台所で哺乳瓶を洗ったり、おしめを洗って洗濯機へ入れたりと忙しそうに動き回っている。けれどもどうも、赤子の所へ行く様子がない。玄関の方へ向かうのに気付いて、堪えられなかった。

「赤子が泣いているじゃないの! 何処へ行くの?」

 土間に座り込んで運動靴を履く彼に声をかけた。

「あのな、赤子は泣くものだ」

 そんな事は雪も知っている。

「そういう事じゃなくて……」

 雪が言葉を詰まらせると、彼はさっさと出て行ってしまった。踵を返すと赤子の居る部屋に舞い戻る。

「よしよし……」

 爪を立てない様に、肉球で優しく赤子の頬を撫でた。やがて疲れたのか眠りに就くと、雪は赤子を抱える様に寄り添った。人間というのは、泣いている赤子を放っておいて何処かへ行ってしまえる不思議な生き物なのだ。そう雪は思った。甘いミルクの匂いを嗅ぎながらいつの間にか居眠りをしていた。浅い夢の中で、捜していた末っ子が嬉しそうに雪の体にしがみついている。甘えん坊のあの子が、そっと耳元に鼻先を近付けた。

「お母さん」

 末っ子の幼い声と重なって、長男の声に起こされた。目を覚ますと、目の前に心配そうな顔をした息子二匹が居る。

「帰ろう」

 長男の言葉に雪は俯いた。その場に座り直すと、眠っている赤子の顔を、次男が覗き込んでいる。

「もう少しで末っ子の居場所が分かりそうなんだよ」

 兄弟は不思議そうに顔を見合わせた。

「あの人間がそう言ったの?」

 雪は首を横に振った。どうやら二匹は彼の事を知っている様だ。多分彼も、自分が居たのではゆっくり話が出来ないだろうと遠慮して家を開けてくれたのだ。赤子を連れて行けば雪も付いて来てしまうと考えたのだろう。

「きっと、あの子なら見つけてくれるわ」

 雪がにっこりと笑みを浮かべると、兄は呆れた様に息を吐いた。

「お母さん、あれはね、人間の子供だよ。あんな人の子に何が出来るっていうんだい? 人間っていうのは、いつも僕達から住処や、食べ物や、時には命だって奪って来た生き物だよ? そんな奴らが、僕達の願いを叶えると思うのかい?」

 兄の言う事は尤もだったが、雪にはどうしても、あの少年が普通の、今まで山から観察してきた人間と同じとは思えなかった。

「でも……」

「もういいよ」

 今まで黙っていた弟が口を開いた。悪意の込もった双眼が、赤子に向けられている。雪は息子が赤子に噛みつきはしないだろうかと固唾を飲んだ。

「お母さん、弟はね、この赤ン坊の父親にバイクで轢き殺されたんだよ」

 一瞬言葉が理解できなかった。周りの景色から色が消え、音も聞こえない。何度も息子の声を繰り返すうちにだんだん風景と音が戻って来たが、以前と違って霞の中に居る気分だった。雪は必死にかぶりを振った。

「これは弟の仇の子なんだよ。そんな者の世話をさせられて、いい様に騙されているんだよ」

 騙す……否、雪は自らこの子の傍に寄り添ったのだ。彼に強要された訳ではない。だからそれは息子の一方的な勘違いだ。だから多分、末っ子が死んだという話も……

「彼は心根の良い人間だ。獣である私の言葉を、所詮畜生の言う事だと聞かない者が多い中、ちゃんと私の話を最後まで訊いてくれる」

 今度は兄が眉根を寄せた。

「お母さん、それは違うよ。それは単なる色眼鏡だよ。咲いている花を観て、笑っているみたいだとか、雨を眺めて空が悲しんでいるみたいだとか云うのと同じで、人間は僕達の言葉を理解しない」

「でも……」

「僕達の言葉を解したというのなら、それは人間ではないよ」

 雪の脳裏に、学生服姿の少年が映った。これが、彼を鬼と云わしめる能力なのだろうか?

「人の皮を被った獣が、願いを叶えてくれるだって? そんな滑稽な絵空事があるもんか。御伽話なんて結局嘘なんだよ」

 弟は声高らかに笑っていた。けれども何処か切なく、残念そうに声を落とす。悔しそうに歯を軋ませると赤子に視線を戻した。

「あなた達は先に帰りなさい」

 兄弟は再びお互いの顔を見合った。

「お母さん、ここに居ても、もうどうしようもないんだよ」

 頭ではそれを理解しているが、どうしても心がついて行かずに目を伏せた。それを察してくれたのか、兄が弟を連れて縁側から外へ出て行く。二匹の背中を見送ると、独りになった雪はじっと眠っている赤子の方へ向き直った。

 この子にはなんの関係もない事だ。偶々、この赤子の父が、私の末息子を殺してしまったのだ。この子に罪はない。けれどもこの小さな体の中に、末息子を殺した人間と同じ血が流れているのだと思うと、自然と怒りが込み上げる。鋭利な爪を立てて腕を振り上げるがどういう訳か振り下ろす事が出来なかった。無抵抗な赤子の首に噛み付こうと牙を剥くが右往左往するだけで何も出来ない。……なんだか情けなくて項垂れると、隣に少年が腰掛けた。

「知っていたのね」

 雪が問い質すが、彼は何も言わない。

「何で私の息子なの?」

 目頭が熱くなり、一気に涙が溢れた。

「何か理由が欲しいのか」

 やっと声が聞こえて、雪は彼の顔を見つめた。

「強いていうなら、お前の息子が死んだのは寿命で、偶然その瞬間に居合わせ、手を下してしまった人間が居た。というだけの話だろう。決してあんたの末の子が、間違った事や悪い事をしたから殺されたという訳じゃない」

「非道い話ね」

 憤りを感じて歯を食い縛った。逃れられない死というものがある事を雪も知っている。けれども、自分がお腹を痛めた子供に先を越されてしまうという事がどうにも悔しかった。

「そうか?」

 何処に向ければ良いか分からなくなった怒りが、彼の言葉で爆発しそうだった。

「お前の息子は死んで土に還るだろう。それを糧にして草木が生え、虫の命を繋ぎ、鳥の餌になって、残されたお前の子孫を助けるだろう。或いは木の実になって他の命の空腹を満たす事だろう」

 そう言われると、何だか自分の直ぐ近くに末っ子が居る様な気になる。頬を撫でる風の中に、渇きを癒やす水の中に、優しい木漏れ日の中に、末っ子が佇んで見守ってくれている様な、暖かい気持ちになった。

「切っ掛けは確かに、理不尽な死だったかもしれない。けれどもお前の息子は消えてしまった訳ではなく、その瞳に映るあらゆるものの中で息をしている筈だと思う」

 隣に座っている彼は、何処か遠くを見る様な目をしている。

「子供を殺された腹癒せにこの子を殺すと云うなら止めはしない」

「子供に親は選べませんよ」

 反論する様に応えたが、まだ複雑な気持ちだった。この赤子が死んでも、息子は帰って来ない。もう元気な姿を目にする事も、声を聞く事もない。

「この子はお前に会いたがっていた。会って謝罪をしたいと。それを伝える事が出来ずに殺されたとしても、それで気が紛れるなら止むを得ないと」

「からかうものではありませんよ。こんな産まれたばかりの赤子に何が分かるというの」

 雪は怒りを抑えて息を吐いた。まだ言葉も知らない、泣く事しか出来ない赤子が、自らの親の過ちを謝りたいなどと……到底信じられる話ではない。

「信じるか否かは任せるが、親が子を想う様に、子も親を想う心があるだろう。それは人や獣や植物と云った垣根は無いものだ。言葉が通じなくても、相手が子供であっても侮るものではない」

 脳裏に、ここへ来て最初に座布団を差し出された事を思い出した。本来なら、そんな事をする必要などない。ただの狐だとあしらう事も出来ただろう。騙して毛を毟る事も出来たのに、彼は雪を、一つの命として丁寧に扱ったのだ。それを鑑みれば、嘘や冗談を言っているとは思えない。

「許せるかしら?」

 自分に問い質す様に呟いた。

「無理に許す必要もないだろう。お前の思う様に、好きにすると良い。ただ、息子に胸を張って再会できる様な生き方さえ出来れば、それで良いと思う」

 少年の言葉に、肩の力が抜けた。全てお見通しなのだと雪は思った。雪にはもう、それ程時間が残されていなかった。



 あれから三日程経った。少年は昼間は学校へ通いながらも、休み時間なのか三時間置きには帰って来て赤子の世話をしていた。基本ずっと赤子は寝ているのだが、偶にぐずった時には雪が寄り添った。朝に晩にと少年は雪にも猫飯を用意してくれるのだが、どういう訳か、少年がご飯を食べている所を雪は見た事が無かった。そんな日頃の感謝もあって、川で魚を取って少年に差し出したのだが、少年は縁側に置かれた魚と、雪の顔とを交互に見比べて、しばらくじっと佇んでいた。表情は変わらないので、喜んでいるのか、怒っているのかも雪には分からなかった。

「お腹が空いたでしょう? 遠慮しないで食べなさい。ちゃんと食べないと大きくなれないわよ」

 育ち盛りの子供なのだから、ちゃんと食べなきゃ駄目よ。本当に、私が居ないと満足にご飯も食べられないのね。この子は……と、まるで母親にでもなった気分で得意気に言ったのだが、少年は溜め息を吐くと魚の前に座り込んだ。

「気持ちだけ、頂いておく」

 感謝の言葉を期待していたのに、思っても居ない言葉に雪は一瞬混乱した。

「もしかして、魚は嫌いなの? 好き嫌いはいけませんよ?」

 木の実の方が良かったのだろうか? と考えていると、少年は魚に向かって手を合わせた。雪は少年が何をしているのか分からず、狼狽える。そんな雪に、少年は呟いた。

「この魚にも家族があっただろう」

 雪は驚いた様に目を丸くして、もう動かなくなっている魚を黙視した。

「遺された家族は、お前の様に理不尽な死だと嘆くかもしれない。けれどもこの魚の死によって繋がる命がある。そうやって世の中は循環し、どんな形であれ、巡り巡ってまた元の所に戻って来る」

 雪は自らが生きるために食べていたものにも家族があるだなんて考えた事がなかった。言葉が通じない、姿形が違う。そういった理由で食べ物として搾取するのが当然だと思っていた。だから少年の言葉を聞いた時、天変地異でも起こったのではないかと思う程の衝撃があった。そしてそれを理解するのはとても容易い事だった。

「ごめんなさい」

 きっと、自分の息子を殺した人間も同じ様に考えたに違いない。所詮狐だから、同じ人間の姿ではないからと傷ついた獣を放置したのだろう。そして、産まれたばかりの両足のない赤子も、他の人間とは外見が違うから、言葉が通じないから死んでしまってもいいだろうと思ったのだ。赤子を捨て、息子を殺した人間と同じ考えだった事に気付いた雪は、恥ずかしさから項垂れた。

「魚も、何れ寿命が来る事は知っている。命が尽きる瞬間、自然に息絶えるか、人や獣の手が加えられるかの違いで、その死自体を恨むことはない。魚も他の小さな生き物の命を食べて生かされていた。他の命を貰うという事は、自らの命も何れ他の命のために差し出すという事なんだ。それが自然の摂理だろう」

 感情の籠もらない声で、少年は教えてくれた。

「それでも……末っ子には生きていてほしかった」

 自分勝手な言葉だという事は重々承知していた。自分は今まで他の命を奪い、生かされていながら、自分の子には長生きしてほしいなどと烏滸がましい。

「そうだな。その気持ちに何れ折り合いが付くといいだろう」

 貶され、咎められると思っていたのに、彼の言葉は優しく心に沁みた。そしてふと、気になっていた事を口にしてみた。

「あなたには家族はいないの?」

 雪の問い掛けに彼の瞳が宙を見据えた。

「さあ……覚えていない。覚えていないからお前の様に、生きていた頃を懐かしく思う事もなければ、死を理不尽だと嘆く必要もない。そう思えば、子供孝行な親だったんじゃないだろうか。まあ、真実など知りたくもないが」

「きっとあなたの事を捜しているわ」

 自分がそうした様に、彼を元気付けるつもりいで言ったのだが、彼の表情は変わらなかった。言葉を選んでいるのか、少し口籠る。

「そうかもしれないな」

 やっと、彼は喉の奥から絞り出す様に言った。反論したかったのではないだろうかと雪は思った。さっきの口振りからして多分、彼は両親がもう亡くなっていると考えているのだろう。覚えていないという事は、何年も前から居ないのだ。もし、生きていたとしたなら、捜しに来るのが普通だろう。それなのに、もう何年も家に帰って来ないという事はつまり、この少年も親に捨てられてしまったのだと考えるのが筋だろう。自分を捨てた親が迎えに来ない理由……それは死んでしまったから来られないのだと思い込んだ方が、真実を知るよりも遥かに楽なのかもしれない。

 今更ながらに、残酷な言葉を投げかけてしまったと後悔した。けれども彼が怒って反論しなかったのは、母親という立場である雪を慮っての事だろう。彼は根っから優しいわけではなく、諦めているのだ。怒っても泣いても仕方がない。彼は自らの境遇に、自分なりに折り合いを付けたのだ。

 ふと、彼の視線が庭の方へ向いた。姫沙羅の木が心地よい音を立てると、少年は息を吐いた。

「どうやらお別れの時間らしい」

「おわかれ?」

 雪が首を傾げながら聞き返すと、少年は雪の顔を一瞥した。

「誰にでも平等に死は訪れる。それが早いか遅いかの違いだけで、誰も避ける事は出来ないというのはお前も理解しただろう」

 雪はマズルに皺を寄せると赤子を庇う様に立ち上がった。

「この子はまだ生きてる」

「今は、な」

 眠っている赤子をそっと抱き上げ、玄関へ向かう彼の背中を雪は追った。門を出て、石段を降りて行く。複雑な気分だった。どうして、まだ産まれて間もないあの赤子が死んでしまうのか……

「死ぬと分かっていて拾って今まで熱心に育てていたの?」

 そういう訳ではないと否定してほしかった。何れ死は訪れる……それはそうかもしれないが、彼が赤子を拾ってからまだ五日程だろう。その間、夜中でも献身的に赤子の面倒を看ていた事を、雪が一番よく知っている。その姿が決して寿命が短いからだとか、相手が幼いからといって投げ遣りな態度ではなかった筈だ。

「生きている間は少しでも幸せであってほしいと思うし、もしも命が尽きるというのならば出来る限り苦しむ事なく心安らかに終わらせてあげたいと思っただけだ。俺が手を下さなくても、他の誰かが手を下すだろう」

 雪は悲しくて鼻白んだ。隙きをみて赤子を奪おう。と画策していると、鳥居の先に三十代半ばの女性が一人立っているのが目に入った。髪を一つに纏め上げ、小綺麗な服を着ているが、目がつり上がっていて神経質そうな印象がある。女は少年と、その足元に居る雪を見比べると、落ち着かない様子で周りに目をやった。

「あんたが、あの噂の鬼なのかい?」

 少年は臆することなく頷いた。雪がこの女は誰なのかと訊こうとすると、女は大きく溜め息を吐いて腕を組んだ。

「まさかまだこんな子供だったなんてね。まあいいわ。赤子の死体を一つ頂戴」

 苛立った女の言葉が飛んで来て、雪は自分の耳を疑った。何故、そんなものが必要なのだろう?

「生きているとは思わないのか?」

 抑揚のない声で彼は言う。

「生きていてもらっては困るのよ」

 吐き捨てる様に、女は説明した。

 女には高校二年生の娘が一人居た。田舎ではよくある事なのだが、高校が遠くにある為、寮で生活する事になったのだが、どういう訳か最近、体調不良で学校を休み続けているのだと先生から連絡があった。娘を連れて総合病院へ連れて行った時に初めて、娘が妊娠し、出産していた事実を知る。相手が誰なのかを問い詰めると同じ学校の一学年先輩だった事が判明し、赤子の世話をするのを厭がった男は、産まれたばかりの子を山へ捨てたのだと話した。

 女は医者に口止めをして必死に山の中を捜したが、赤子の死体が見つからない。警察に届けられたという話もないが、事が明るみになる前になんとかして手に入れたかった。

「死体さえあれば、医者は死産として書類を書いてくれると言ってくれたんだよ。死産でも役場に届けないと死体遺棄になって警察が動く事になる。だから赤子の死体を一つ用意してほしい」

 淡々と、悪びれる様子もなく語る女に、雪は怒りで腸が煮え返りそうだった。こんな自分勝手な奴らの為に、この子は死ななければならないのかと不憫に思う。少年がそっと赤子を差し出すと、女はそれを受け取って布を開いた。息をしている赤子の顔と、両足のない姿を目にして一気に顔が青褪める。

「あんたの娘が産んだ子供だ」

 女はあんぐりと口を開けたまま、言葉が出なかった。ゆっくりと深呼吸し、やっと喋りだす。

「この子には、死んでいて貰わないと困る」

「自分勝手な事を言うのもいい加減にしなさい!」

 雪は声を上げたが、口からは唸り声しか出なかった。

「あんたの孫なのに?」

「娘はまだ高校生なのよ? こんな両足のない赤子なんて、こんなのが生きていたら、娘が苦労するのは目に見えているじゃない! ただでさえ結婚前に子供が出来ただなんてそれだけで肩身が狭いのに……」

 女は何かを思いついたのか表情を変えた。

「私が欲しいのは赤子の死体なんです。この子を今直ぐ殺して下さい」

 厭な笑みを浮かべる女に、雪は歯を食い縛った。人間とは何と自分勝手な生き物だろう? せっかく授かった命を、少し見た目が違うというだけで捨てたり、死体を欲しがったりする。しかも、自らの手を汚すのが嫌で、彼に嫌な事を全部押し付けようとしているのだ。

「ねえ、そんな願い、断っちゃいなさいよ!」

 雪は今すぐに、女から赤子を取り上げたかった。けれども直ぐに、さっき彼が言っていた言葉が脳裏に過ぎった。彼が今手を下さなかったとしても、他の誰かが手を下すだろう……それに今、この女から赤子を取り上げて、それからどうしよう? 雪はそう長く生きられない。野生の狐は四、五年で寿命が尽きる。雪も四度の冬を越えたからもう今年の冬は越せない。なら、赤子の面倒を、まだ中学生の彼に押し付ける事になるだろう。それはあまりにも無責任だ。ならば女の言う通り、ここで殺してしまう方が、正解なのだろうか?

「ねえねえ、そんな願い、私の時みたいに突っ撥ねちゃいなさいよ!」

 彼は優しい。だから断ってくれると信じたい。けれども、彼は優しいからこそその願いを叶えてしまうかもしれない。

 少年の表情を伺うが、やはり硬直したようにみじろぎ一つしない。

「報酬は?」

 少年の言葉に雪は愕然とした。

「とりあえず十万あるわ」

 結局、この子もお金が欲しいのかと雪は思った。雪にはお金の価値など分からないが、あんな紙の為に赤子が殺されるのかと思うと不愉快だ。

「一応言っておくけど……」

 女も少年も噛み殺そうかと思っていると、少年が呟いた。

「あんたの娘、もう子供産めないから」

 今まで不敵な笑みを浮かべていた女の顔が、一瞬曇った。

「そんな嘘……」

「まあ、戻ってから医者にでも確認するといい」

 一気に女の顔が青ざめた。ここでこの子を失えば、孫の顔はもう二度と拝めない。その上、子供が産めない娘の貰い手など……と、女の思考に影が差す。けれどもだからといって、この両足のない赤子の面倒など……

「私だってね! 孫が憎いわけじゃないのよ! そもそも相手の男が娘をたぶらかして……」

 女の金切り声が森に響いた。雪は女の声に息を飲む。

「足があったら、ちゃんと育てるのか?」

 少年の言葉に応えたのは雪だった。

「私の足をこの子にあげます! どうかこの子を助けて下さい!」

 けれども雪の声は、少年には届いても女の耳には唸り声にしか聞こえない。

「そんな事、出来るわけ無いでしょう? そんな奇跡みたいなことが出来るというなら、今直ぐやってみなさいよ! もし出来たらちゃんと育ててみせるわよ!」

 罵る様に悪態吐いた女の表情が固まった。雪も固唾を呑んで少年の顔を見やる。

「承知した」

 少年の両眼が、怖ろしい程、碧く光り輝いていた。



 夢か現か分からないまま、ぼんやりと目を開いた。粉ミルクと人間の赤子の残り香が心地良くてゆっくりと息を吸う。ここにはもうあの子はいないのだと思うと少し淋しかったが、目を開けた先に、少年の背中があって安堵する。

「夢を見たの。とっても良い夢。あの子がね、足のなかった赤子のあの子が、オリンピックという大会で日本の代表選手になるの」

 足先の感覚は無く体が気怠くて起き上がれなかった。縁側に腰掛けていた少年が振り返るとそっと近付いて来る。

「……そうか」

「それでね、一等賞をとるのよ」

 自然と笑みが零れていた。答え合わせをする様に少年の表情を伺うが、少年は笑っていなかった。

「悪いが、俺は自分が一度干渉した命の先を視る事が出来ない。だから赤子の足を治しても、その後事故に遭って死ぬかもしれないし、お前の言う通り、両足がある事に自信を持って努力し、そういった未来を勝ち取るかもしれない」

「意地悪ねぇ」

 そこは最期くらい、雪の願望ではなく、確かにあの赤子の将来を見通したのだろうと言ってくれても良いだろう。

「お前が再び、ここへ戻って来る事も俺は視えていなかった」

 全て見透かされていると思っていたのに、少年は静かに話した。

「四年くらい前になるか、お前の母が、お前の容態を案じてここへ来た時に、お前の体を治してやった。もう会う事もないだろうと思っていた。だから俺には、あの赤子の幸薄い短い寿命しか視えなかったし、お前があの赤子に寄り添って、赤子の為に自らの両足を差し出す未来さえ視えていなかった」

 雪は何だか不思議な気分だった。母が雪をここへ連れてこなければ、自分は死んでいたかもしれない。すると息子達は産まれなくて、末息子が赤子の父に殺される事もなかっただろう。そして、あの赤子は、女の願いによって容赦なく殺されたに違いない……否、彼だったらそんな願い、断ったのではないだろうか?

「私が居なくても、あなたはあの子を助けたわ」

「さっきも言ったが、俺が手を下さなくても、誰かが手を下した。あの赤子を助けたのはお前だよ」

 そう言われると、何だか気恥ずかしくて目を逸した。

「まあ……肉や魚、米や野菜、あらゆる命がこれからあの赤子の寿命を引き延ばしてくれるんだろう。お前の様に、心優しい人になってくれるといいな」

 彼の暖かい掌が、そっと頭を撫でてくれた。なんとなく、体が軽くなった様な気がして体を起こすと、無いと思っていた自分の後ろ足に気付いて目を丸くした。交互に少年の顔と両足を見比べると、少年は目を逸した。

「丁度、手頃な足を拾ったからつけといた」

「はあ……?」

 そんなおいそれと枝みたいに落ちているものかと思ったが、不自由するだろうと思って戻してくれたのだろう。

「ありがとう」

 頭を垂れると、彼は再び縁側に向かった。

「礼をいうのはこっちの方だ。さっさと帰れ」

 雪が縁側の先を覗くと、庭に息子達の姿があった。雪が立ち上がるのを目にしてお互いに驚いた様に顔を見合わせる。恐る恐る縁側に近付くと、二匹は少年を見上げた。

「どうして?」

 口を開いたのは弟の方だった。少年は二匹のよく似た顔を一瞥すると目を伏せた。

「さあ? 親を想う子供の気持ちが形になっただけかもしれないし、気紛れな人間が捨てて行った足がその辺に落ちていたというだけかもしれない」

 二匹は何か思い当たる所があるのか、顔色が悪かった。その場に座り、頭を低くする。

「酷い事を言ってすまなかった。それから母を無事に返してくれてありがとう」

 雪は自分が寝ている間に、何かあったのだろうかと少し不安だった。

「気にしてない」

 表情が変わらないので本心は分からないが、雪は再び頭を下げて庭に出た。

「ねえ、あなたの名前は? 何ていうの?」

 今更だったが、最後に訊いてみたかった。雪が尻尾を振りながら笑うと、少年は遠い目をした。

「さあ? 覚えてない」

 それ程までに、長い間親と会っていないのだろう。そう思うとあまりに彼が気の毒だった。

「ねえ、私の子供になりなさいよ。こんな所に一人で居てもつまらないでしょう? 名前だって私が良いのをつけてあげるわよ」

 どんな名前が良いかしらね。と考えていると、息子達はいきなり何を言い出すんだと顔を見交わす。

「遠慮しとく」

「子供が遠慮なんかするものじゃないわ」

「俺には勿体ない。気持ちだけ貰っておく」

 表情は変わらなかったが、なんとなく嬉しそうに見えた。けれどもそれは、息子達が言う所の色眼鏡だろう。

「また来るわね」

「もう来なくていい」

 さよならを言うのが怖くて言えなかった。雪は二匹の息子と一緒に屋敷を出て行く。一度振り返ったが、彼の姿は見当たらない。これからもあの子は、この山で一人きりで居るのかと思うと何だか遣る瀬無い気持ちだった。



 腕時計で時間を確認すると、十七時を少し過ぎた所だった。もう夏が終わるのか、辺りが薄暗くなり始めている。たそがれ時なんて言うと風情があるかもしれないが、この地域ではこの時間帯を大禍時といった。鬼が動き出す刻限だといわれ、それまでに家に帰らないと鬼に取って喰われる。なんて子供に言い聞かせるのだ。どうして今、そんな子供騙しを思い出したのだろうかと考えながら、バイクのエンジンを点けた。車庫から出て直ぐの信号機に止められ、ぼうっと空を見上げる。

「一体何なんだよ」

 苛立ちから自然と言葉が漏れた。赤ン坊が生きていた。と聞かされた時には耳を疑った。そんな筈がない。赤ン坊が、飲まず食わずで山の中で生きていけるだなんて、信じられなかった。死んでくれれば良かったのにと何度も願った。本当にオレの子かどうか分からない。と親に言うと、

「ならどうして妊娠が分かった時点で病院にも連れて行かず、産まれた子を捨てたりしたんだ?」

 と詰られて返す言葉がなかった。まさかたった一度、好奇心で大人の真似事をしたばかりに、自分の人生が壊れてしまうなどと考えた事もなかった。親は産まれた赤子の為に大学は諦めて就職しろと言った。高校だけはなんとか卒業させてやると……親の臑を齧って、あと四年は遊べる筈だった。同級生と同じ様に、特に何の目標もなく、自分の学力で入れるどうでもいい大学に行って、そこを卒業したら地元の何処かに就職する筈だった。それなのに、自分で責任も取れないのに安易な行動に走り、子供が産まれてしまった事で自分の予定が狂ってしまった。親にバレたら面倒だから病院にも行かせなかった。悪阻に苦しんで何も食べられず、疲労して行くのを目の当たりにして、このまま流産でもしてくれれば良いと思っていた。そんな自分の思惑とは裏腹に、順調に成長していった。部屋で破水した時、彼女は救急車を呼んで欲しいといった。そんな事出来るわけがない。大丈夫だと宥めてそのまま死んでくれる事を祈った。なのに、それは這い出て来て呼吸をした。

 泣きはしなかったが、心底子供の生命力というものに恐怖を覚えた。赤子をタオルに包み、ナイロン袋に入れた。彼女は気を失っていたので、そのまま袋を持ってゴミ捨て場に捨てようと外に出た。

 ここでは拙い。

 すぐに発見されてしまう可能性がある。海でも山でもいい。何処か遠くへ捨てよう。こんな両足のない生き物など、生きていたって周りに迷惑だ。そう、自分は世の中の為に、この足の無い生き物を始末するのだ。

 自分の行動を、そうやって正当化しながら思い返した。信号が青に変わり、バイクを走らせる。

 今からでもまだ間に合う。今から病院に行って、あの赤子を殺してしまおう。あんな両足のない子供の為に、自分の人生を滅茶苦茶にされては堪らない。

 生暖かい風を受けながら、見知った道路を走って行く。ふと目の横を黄色い何かが駆けた気がした。それに気を取られて前を走っていたトレーラーに激突した時、痛いというよりも何が起こったのか分からなかった。

 夢現に、二匹の狐が片方ずつ足を咥えて行ってしまう姿を見送った。その時にふと、赤子を山へ捨てた帰りに轢き殺した狐の事を思い出した。

 ーー病院で意識を取り戻した時、膝から下の足が無くなっている事に絶望した。トレーラーのタイヤに挟まった両足は皮一枚で繋がっていただけで、ほぼ切断状態だったらしい。母が義足を提案してくれたが、腰の頚椎が潰れているので、もう二度と立って歩く事は出来ないと言われた。

 これが世にいう、呪いとでもいうのだろうか? 自分があの時轢き殺した狐の怨念なのだろうか? それとも両足のない赤子を山に捨てた報いなのだろうか? 子供を殺そうとした天罰だとでもいうのだろうか?

 分からないまま、ただ天井を眺めるだけの日々が続いた。両手は使えるのだが、無気力なまま、ゲームもテレビも詰まらない。高校生という年頃の自分がオムツを履かされ、日に何度か若い看護婦さんにそれを取り替えられる事がどれだけの屈辱か分かるだろうか? 何も出来ない。楽しい事もない。ただただ毎日息をしているだけの自分に価値などあるのだろうかと憂鬱な日々を送っていたある日、彼女が赤子を連れて病室へ来た。

 後ろめたくて、そんなものを連れてくるなと怒鳴った。奇しくもその赤子と同じ姿にされ、何も出来ない自分に苛立つ。ふと、真新しいベビードレスの下から、あの赤子の足を目撃した時、薄っぺらい唯一のプライドが音を立てて崩れた。

 それは、自分が捨てた赤子ではない。という考えよりも先に、赤子に自分の足を取られたという発想に駆られた。正常な思考だったらそんな事、思いもしなかっただろうが、自暴自棄に陥っている渦中ではそんなありえないことが横行した。

 彼女が帰って行くと、タオルをベッドの柵に括りつけた。輪に首を通すと寝台から滑り落ちる様に体を傾ける。悔しさから涙が溢れ、歯を思い切り食い縛った。息苦しくて目を向き、それでも体は無意識に生きようと手をばたつかせる。けれども腰から下が重しの様になり、宙ぶらりんになって喉を締め付けた。

「鬼が……」

 きっと、あの噂に聞く鬼の仕業に違いない。今更ながらに何故、海ではなくあの山に捨てたのだろうかと後悔する。鬼なんて信じていなかったが、足をもぎ取って、赤子に付け替えるなんて芸当が、人や獣や怨霊といった類に出来る筈が無い。

 ベッドが軋む音だけが耳に響いていた。口や鼻から体液が出て小刻みに体が痙攣する。

 何故、自分ばかりがこんなに苦しめられなければならないのかと恨み言をいう前に絶命した。

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