20:入道雲

 ――おじさんは、雲を作ったことがあるんですよ。

 Xの言葉に、黄色い帽子を被った少年が、ぱっと顔を輝かせた。

「それじゃあ、あの雲も、おじさんが作ったの?」

 少年の指さす先には、青空に向かって立ち上る入道雲があった。入道雲、積乱雲。青色に映える真っ白な綿の中、徐々に深い影が増えているところを見るに、これから、雨が降るのかもしれなかった。

 少年の問いかけに、Xは、「どうでしょう」とわずかに首を傾げる。

「臨時の仕事だったので。あの時作った雲が、今、どこにいるのかは、わからないですね」

 嘘ではない。あまたの『異界』の一つで、Xは実際に雲を作る仕事をしたことがある。その様子はさながら料理のようで、見慣れぬ器具の中で作られていく雲がなんとも美味しそうだったことは、よく覚えている。突然、激務の只中に放り込まれたXにとっては、たまったものではなかったようだが。

 少年は「そっかぁ」と言って、ラムネの瓶に口をつける。ラムネ特有の不思議な曲線を描く瓶の中には、ビー玉が入っているのが見て取れる。ああいうラムネを最後に飲んだのは、いつだっただろう。

 今、Xがいるのは、『こちら側』とそこまで大きく変わらないように見える、田舎町の一角。年季の入った木造の家屋が立ち並ぶノスタルジックな街並みの只中を、ランドセルを背負った少年に連れられて、のんびりとした足取りで歩いている。

 この少年と出会ったのは、特に懐かしさを感じさせる、小さな駄菓子屋の軒先だった。さんさんと照り付ける太陽の光を避けるように、ふと見つけた店の軒を借りたところで、ちょうど店から出てきた少年が声をかけてきたのだった。

「こんにちは、まれびとさん」

「まれびと?」

 まれびと。稀人とも客人とも書き、他の場所から来訪する神や霊的存在をそう称することも、単に、訪ねてきた客、を示すこともある。少なくとも『こちら側』では、そういう意味を持つ言葉。

 そして、少年は不思議そうに首を傾げるXに向かって、明るく笑ってみせるのだ。

「おじさん、他の世界から来たんだよね? そういう人のこと、まれびとって呼ぶんだって、教わったよ」

 どうやら、この『異界』の住人は、この世界の住人とそうでないものを容易に見分けることができるらしい。そして、そうでないものを「まれびと」と呼ぶように教わる程度には、ごく一般的なものでもあるらしい。

「ええ、確かに外から来ましたが……、ここには、そういう人が、多いのですか」

 Xの問いに、少年は「うん」と元気よく頷く。ただ、その後に「お話しするのは、おじさんが初めてだけど」と付け加える。

「でも、大体、来てもすぐ帰っちゃうものだから、親切にしないとダメだよって。親切にすれば、まれびとさんもこの世界や人のことを好きになってくれるし、自分にもいいことがあるからって」

「なるほど……」

 確かに、『こちら側』のまれびと信仰は、訪れる神をその地にいる人々が歓待する、という構図で成り立っている。この『異界』においても、似たような風習があるということだろう。

 かくして、少年は背伸びして、Xの顔を真っ直ぐに見上げて言うのだ。

「おじさん、何か困ったことない?」

「困ったこと……、ですか」

 つまり、教わったとおりに、まれびとであるXに「親切にしたい」ということだろう。まれびとと話をするのはXが初めて、ということだから、今こそ教わったことを実践するとき、という張り切りぶりが、Xを見る目の輝きから窺える。

「そうですね」

 そう言って、Xは少し黙った。おそらく、少年に何を頼むべきか考えているのだろう。断る、という選択肢はなかったに違いない、Xは相手から明らかな期待をかけられておいて、それを裏切れるタイプではないから。それが、邪気のない子供相手なら、尚更だ。

「では……、街を案内してもらえますか。初めて来た場所なので、勝手がわからなくて。君が、わかる範囲で、構いませんので」

 結局、Xはそう言って、少年が快諾した。こうして、Xは青い夏空の下、少年に案内されながら、知らないはずなのに不思議と懐かしく感じられる道を歩いていくことになったのだった。時折、少年からせがまれるままに、他の『異界』でのちょっとした出来事を語りながら。

「あそこに見えるのが、僕の学校」

 少年は入道雲の足元に位置する、白い建物を指さす。なるほど、見るからに学校だ。建物の前には広いグラウンドがあり、部活動でもしているのだろうか、体操服を着た子供たちが駆け回っているのが、見える。

「ああ……、何となく、懐かしいですね」

「おじさんも、学校、通ってたんだ」

「おじさんが子供のころの話なので、遠い昔、ですけどね」

 まれびとさんも学校に行くんだなあ、と少年はしみじみと言う。

「他の世界なら、学校、行かなくていいのかなって思ってた」

「学校、嫌いですか?」

 Xの問いに、少年は頷きはしなかったが、否定もしなかった。放課後に一人で駄菓子屋にいたことといい、どうも、少年なりの事情があるのかもしれなかったが、Xはあえてそれ以上踏み込んだ話を聞く気はなかったと見える。「そうですか」とだけ言って、ほんの少しだけ声を明るくする。

「それでは、次はどこに案内してくれますか?」

 話が逸れたことに少年もほっとしたのか、笑顔を取り戻す。

「次はね、とっておきの場所!」

 そう言って少年が案内してくれたのは、家々の間に見え隠れしていた、街はずれの小高い丘だった。誘われるままに頂上まで登ってみれば、小さな街を見渡すことができた。ディスプレイ越しに見る街は、おもちゃのようだ。不思議と「懐かしい」気持ちを呼び起こす街並みを精巧に再現した、ミニチュア。

「これは、いい眺めですね」

「でしょ? 気に入ってもらえて、よかった」

 少年はにかっと笑う。果たしてXは少年に笑みを返したのだろうか。私はXが笑ったところを見たことがないから、仮に少年に笑い返していたとして、その顔をさっぱり想像できずにいる。

 遠くから、うっすらと、ごろごろという音が聞こえてくる。入道雲は先ほどよりも更に暗さを増し、ゆっくりと空に広がってこようとしていた。

 その時、突如としてサイレンの音が響き渡り、はっと少年が顔を上げる。すると、わずかに割れてノイズ交じりの女性の声が響き渡った。

『世界接近警報、世界接近警報。当地域に中型の世界が接近しております。神隠しに注意し、ただちに屋内に避難してください。繰り返します――』

 耳慣れない警報、だが、意味は何となく伝わってくる。この『異界』は他の世界の存在を知っており、同時に、世界と世界の境界線が揺らぐ瞬間を感知することができるらしい。

『こちら側』でも、一般的に知られていないだけで、そのような瞬間は多々あるのだ。そして、それは大概『異界』の者が『こちら側』にやってくる、もしくは『こちら側』の者が『異界』に迷い込んでしまう――いわゆる「神隠し」と呼ばれる現象をもたらす。

「帰った方が、いいのでは、ないですか」

 Xは少年に向かって言う。警報の意味を正しく受け取っていなくとも、それが帰宅を促しているということくらいは、わかる。

 しかし、少年は黄色い帽子の鍔を下げて、動かない。どうかしましたか、と、Xが問いかけると、少年がXを見た。どこか、泣き出しそうな顔で。

「おじさん。僕も、外の世界に、行きたい」

 連れてって――、少年はXに訴える。その間にもサイレンはけたたましく響き続ける。世界接近警報、世界接近警報。

 Xは、あえて少年に理由を問うことはしなかった。代わりに、ゆっくりと首を横に振る。

「やめた方が、いいですよ」

「なんで」

「おじさんは、運がよかっただけですから。君に話さなかっただけで、辛いことは、たくさんあります。死んだ方がずっとマシかもしれない、と思ったことも、何度も、あります」

 それは、もしかすると、私も初めて聞く、Xの率直な本音だったのかもしれない。Xは、我々に対しては文句も弱音も吐かない。与えられた命令を、当然のものとして遂行する。『異界』において、どれだけの苦痛を伴っても、死を覚悟させられても、日々変わらず異界潜航サンプルを続けている。

 そのXが、「辛い」と言った。それだけでも十二分に驚きに値する。

「別の世界に行っても、楽しいとは限りません。きっと、苦しいことの方が、ずっと、多い」

「なら、……どうして、おじさんは、世界を渡ってきたの?」

「他に、行く場所も、ないので」

 Xの答えはどこまでも簡潔だった。

 既に帰るべき場所はなく、ただただ、死という終わりがもたらされるその日まで、『異界』に潜り続ける。そんな己の境遇について、Xがどう思っているのかを、私は知らない。知らないままで、いる。

 Xは、無骨な手を少年の帽子の上に載せる。

「おじさんと違って、君には、帰る場所があるのでしょう。なら、大切にした方が、いいですよ」

 ――だって、君は、この世界が好きなのでしょう。

 その言葉に、少年は弾かれたように顔を上げる。Xの言葉に反論しようとしたのかもしれない。けれど、Xが淡々と言葉を紡ぎ出す方が先だった。

「居心地が悪い、ことも、たくさん、あるんでしょう。わかりますよ」

 おじさんもそうでしたから、とXは静かに言う。そうだ、Xにとって『こちら側』はひどく生きづらかったに違いない。もし、Xが正しく『こちら側』の社会に溶け込めていたならば、死刑を宣告されるまで罪を重ねることもなく、我々からXと呼ばれることもなく、こうして、『異界』で少年と向き合うことにもならなかった、そういうことだ。

「でも、君は、ここがとっておきの場所だと思っている。この街の眺めが、飛び切り素敵なことを、知っている」

 徐々に雲に覆われつつある空の下に広がる、ミニチュアめいた懐かしい街並みを見下ろす。

「嫌いにはなれないのでしょう、この街が」

 Xの言葉に、少年は唇を引き締めたまま、しかし、こくりと頷いた。子供には子供の社会があり、社会がある以上、軋轢もある。学校が嫌になることもあれば、親とうまくいかないことだってあるだろう。けれど「嫌いにはなれない」。それも、よく、理解できた。

「では、帰りましょう。一人では危ないでしょう、家まで送りますよ」

「……ありがとう、おじさん」

「いえ。親切にしていただいたのです、お礼くらいは、させてください」

 Xは、そう言って少年の帽子から手を離した。すると、少年の手が、Xの手を握る。Xの手は同世代の男性と比較した場合さほど大きな方ではないはずなのだが、少年の小さな手と比べると、やはり遥かに大きく感じられる。

 サイレンは止まない。世界と世界の境界線が滲みゆく街を、二人は連れ立って歩いてゆく。

 ぽつり――、視界の中に、雨が落ちた。

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