04:滴る

「雨ですね」

 横から語りかけられ、Xが「そうですね」という応答とともにそちらに視線を向けたことが、ディスプレイに映る景色の動きでわかる。

 いつの間にか横に立っていたのは、一人の少女だった。その背丈や顔立ち、そして紺色のセーラー服を纏った姿から、中学生、もしくは高校生くらいに見える。『異界』の事物を『こちら側』の常識で判断することはできないことはわかっているつもりなのだが、つい自分の物差しで考えてしまうことは許してほしい。

 Xは額から流れ落ち、目に入ろうとする雨水を手の甲で拭う。

 この『異界』に降りたったときから空模様は怪しかったが、こうも激しい雨に見舞われるとは思わなかった――のは、私もXも同様だったはずだ。ちょうど雨を避けられる場所にいなかったこともあり、この、ぽつんと建っていた建物の軒に逃げ込むまでに、Xはすっかりずぶ濡れになってしまっていた。

 すると、少女が鞄の中からタオルを取り出して、Xの前に差し出す。

「使ってください」

「しかし、」

 これは、おそらく「自分が使ったら、返すことができない」という意味合いの「しかし」だろう。Xは妙に律儀なところがあるから、受け取った以上は丁寧に洗って返すのが礼儀だとでも思っているに違いない。

 戸惑いを見せるXに対し、少女はにこりと笑ってみせる。

「持っていってもらって大丈夫ですよ。私の分は、別にありますから」

「……ありがとうございます」

 結局、Xは差し出されたタオルを受け取った。薄暗い雨空の下にも鮮やかに白いそれは、見た目にも柔らかく手触りが良さそうだった。

「濡れたままでは、風邪を引いてしまいますからね」

 少女の言葉に、Xはわずかに頷いた。もしかすると、曖昧な表情を浮かべていたかもしれない。

 この場におけるXの姿を構築しているのはあくまで意識であり、肉体は伴っていない。『異界』で意識体が受ける傷や欠損に伴う苦痛は、『こちら側』に残している肉体にも反映される。だが、意識が「風邪を引いた」と認識した場合、肉体にはどのような影響が及ぶのだろうか。私が前例を知らない以上、Xも当然わからなかったに違いない。

 次から次へと滴り落ちてくる水をタオルで拭う。体も濡れているはずだが、とりあえず顔と短く刈った髪を拭く程度に留めたようだった。がしがしとタオルで頭を擦る気配が、ディスプレイ越しにも伝わってくる。その間、少女はじっとXを見つめていた。

 やがて、Xが手を止めたのを見て、少女が小首を傾げて問いかける。

「この辺りに来るのは、初めてですか?」

「ええ。……わかりますか」

 Xの格好は、普段の潜航と何も変わらない。少しサイズの大きなトレーナーに、余裕を持たせたつくりのズボン。ラフな格好にサンダル履きという姿を、奇異なものとして見られることはあっても、一目で「遠くから来た」と判断されることはそう多くない。

 だが、少女は微笑みを浮かべて、短く切りそろえた髪を揺らす。

「傘ひとつ持たずにこの辺りを歩く人は、大体がよそのひとですから」

 確かに、少女は鞄のほかに、傘を提げている。閉じた状態でも鮮やかな、空色の傘。

「ここは、雨の多い土地なのですか」

「ほとんど晴れないんです。だから、傘を差している間だけでも、空の青を思い出せればいいなと思って」

「それは……、素敵です。どれだけ激しい雨の中でも、傘を差せば、そこだけは晴天になるんですね」

 Xの言葉はどこまでも率直だ。『こちら側』では私が許可しない限り口一つ利かない分、『異界』のXは、時に言葉によって私の知らない側面を見せる。

 かくして、セーラー服の少女はXの言葉に笑みを深めて、傘を差す。灰色の世界に、傘の形の青空をぽっかりと浮かばせて、少女はXを振り返る。

「ご一緒に、どうですか」

「いえ。お気持ちだけ、受け取っておきます。行き先も、まだ、決めていないので」

 Xがわずかに目を細めたのが、ディスプレイの視界の狭まりによってわかる。

「タオル、ありがとうございました」

「助けになったなら何よりです。それでは、さようなら、旅人さん」

「さようなら」

 傘を差した少女は屋根の下から一歩を踏み出す。ざあざあと降りしきる雨の景色に、場違いなほどに明るい空色の傘が、揺れた――かと思えば、少女の足が水たまりを蹴り、地面からふわりと離れる。

 スカートの裾を翻し、少女は昇っていく。ぽつりと、分厚い雨雲に風穴のような空色を描き、高く、高く。

 少女の傘の空色が、雨に紛れてすっかり見えなくなってから、Xはもう一度だけ、首から提げたタオルで目元を拭い、軒から滴る雨垂れをぼんやりと眺めるのだった。

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