07.01.XX2X 雨


 私は雨が好きだ。

 けれど雨の日で嬉しいと思ったことは、無い。

 今日もそうだ。

 雲から生まれ落ちた雫たちは、屋根や地表に降り立つ音をクラッカー代わりに、こうして仄暗い朝に私の頭を目覚めさせてくれる。

 しかしそんなことは問題ではない。

「クラウディア、大丈夫?」

 たった今、カーテンを開いて現れた黒い雲の波漂う空を見つめる彼女。

「平気よ。おはよう、レイニー」

 肌に微かに青を差した顔色で、私の名前を呼ぶ。そう、雨の日はいつも、クラウディアがこんな顔をして無理に笑うから、私だって気落ちするのだ。


 部屋を後にするクラウディアを追うように、朝食を摂るべくダイニングへ向かう。

 2DKのこの場所で、私たちは二人で暮らしている。

 目の前でトーストに口を付ける彼女・クラウディアは、私の育ての親のような人だ。

 今の私とそう変わらない年齢の時分、クラウディアは赤子だった私を引き取り、女手一つでここまで面倒を見てくれたそうだ。

 そんな彼女のことを、私はとても尊敬しているし、親のように思っている。けれどクラウディアは、私が母と呼ぶと悲しそうな顔をした。

 幼い頃は不思議だったが、今の私ならその心情を慮ることもできる。

 クラウディアは生涯の中で、様々な経験を重ねる20代という期間をすべて私に費やしてくれたのだ。朝から晩まで、私を育てるために働くクラウディアは、私に交際相手を紹介してきたこともない。きっとそこには、私では未だ想像もできないほど多くの葛藤なんかもあったはずなのだ。

 実の子ですらない私のためにこれほどまでに人生を賭してくれた彼女に、私は何を返せるのか。ずっと考え続けている。

「ねぇ、レイニー?」

 不意にクラウディアが呼んだ。

「なに?」

「もう。なに、じゃないわよ。早く帰って来てね?」

 ふふ、といたずら心を隠さない微笑みで私に言う。

「今日はレイニーの誕生日なんだから」

 クラウディアは私の誕生日を祝うことを、何よりも楽しみにしているらしいのだ。

 ──「今年もこうして、レイニーの誕生日を祝えることが何よりも嬉しいの」

 そう言っていたのは、何年前の今日だっただろう。本当に幸せそうに笑うものだから、私にも今日は特別な日になっていた。

「わかってる! 学校終わったらすぐに帰るから」

 クラウディアと同じ朝食を早々に食べ終わると、支度を済ませて玄関へと向かう。その足取りは、より意志に満ちたものになった。

「いってらっしゃい」

 わざわざ見送りに来てくれるクラウディアに、精一杯の笑顔で返す。

「行ってきます!」


 ああ。今日も頑張らなきゃ。

 私には夢がある。例え降りしきる雨の中だろうと、こうして力強く足を踏み出して、学業に赴く理由があるのだ。

──医者になる。

 そして、苦労をかけた分、クラウディアの未来だけは楽にしてあげたい。

──私がクラウディアを幸せにするんだから!

 目の前に停まるスクールバスに、置いて行かれないように駆け出した。


 ふと。逸る鼓動に、妙なものを感じた。

 どくどくと、不規則なリズムが胸を走る。

──苦しい。

 無意識に止まりかける足。押さえるように、右手は胸元に伸びていた。

 瞬間。鋭い痛みが胸部を襲う。

──痛い。

 身体中の感覚が遠くなる。上手く息ができない。声が出ない。

──痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い

 顔に雨水が撥ねた。

 痛みに支配された頭の中は、体を動かすことを忘れて、気が付けば倒れ伏していた。

 霞がかってぼやけた視界。同じスクールバスに乗る学生たちや、バスの運転手が駆け寄って来るのが辛うじて見える。

 全身に打ち付ける雨粒と、倒れた道の上を広がる水で身体が冷えていくのがわかった。

 段々と、音が遠くなっていく気もする。

 気が付けば、私の意識は闇の中に落ちていた。



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