第19話 氷

 帰ってから何をどうしたのか覚えがない。軒先やハンガーの束を見るに洗濯物は片付けたようで、ショルダーバッグはいつもの場所に置かれ、スマホは机の端にあった。部屋の明かりがついている。詰まっていた息を吐き出すと、座布団をつぶす尻とベッドにもたせた背中が鈍く痛んだ。寝ていたのか起きていたのか分からないがどちらでもよかった。


「日ヶ士さん」


 壁際から九洞の声がする。


「八時になったところです。お昼からだいぶ経ちましたが、お腹が空いていませんか?」


 かすれた声で「いや」と答えた。


「お茶は?」


 九洞が再び尋ねる。机にグラスが出ていないということは帰ってから何も飲んでいないのだろうし、現にのどが渇いている。渇いている感覚はあっても、それは自分という他人のことのようで、腰を上げるための力が体のどこにも入らなかった。軽く垂れた頭をかろうじて横に振る。何秒か、もしくは何十分か後、九洞がトートバッグを手に立ち上がった。


「涼しそうなので少し散歩してきますね」


 脚が視界の端を移動していく。


「三十分で戻ってきます。鍵はかけたままで大丈夫ですよ」


 扉を開け閉めする音はなかった。首を軋ませて顔を上げる。空気を震わすものといえばエアコンと冷蔵庫の運転音、それと自分の呼吸くらいだった。心なしかだるかった。体の様々なパーツに呼びかけるようにして座布団を離れる。二リットルのボトルの麦茶はグラスに移すまでもない量しかなかった、というのは見当違いで、残りは蓋を開けたまま床に置いた。静かだった。


 いつの間にか持っていたスマホが床に落ちる音で我に返った。部屋の明かりが消えていた。寝ていたのか起きていたのか分からないがどちらでもよかった。身じろぎだけであちこちが痛む。暗闇から九洞のぼんやりとしたシルエットが近寄ってきた。


「十日の午前三時です」


 十日ということは九日がもう過ぎ去ったということだ。小さな声が耳の底に落ちて膨らむ。


「お茶は飲んだんですね。よかったです」


 声が膨らんで、


「何も食べていないようですが、体調は問題ありませんか?」


鼓膜や骨を圧迫しながら膨らんで、


「よかったら冷蔵庫に――」


破裂した。九洞のシルエットが風を受けた葉のようにおののいた。何を言ったのか、何か言ったのかどうかも吹き飛んで分からなかった。血が少し速く体をめぐっていた。九洞の前をすり抜け、洗面所で汗と脂にまみれた顔を洗った。ついでに用も足した。リビングに戻る前にそっと開けた冷蔵庫には、野菜ジュースの隣に桃のアイスバーの袋が刺さっていて、触ると指の形に押されて歪んだ。

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