第7話 不協和音レッスン
「こんにちはー」
教室の自動ドアを抜けると、カウンター越しに事務員と話していたピアノ講師の和田が振り返った。
「あ・・・相沢さん、ちょうど良かった。今日、西門先生、調律のお仕事入っちゃって、替わりの講師あたしなんですよー」
「あ・・・そうなんですか・・」
慌てて笑顔で取り繕ってみせる。
「引き継ぎはきいてるんで、じゃあさっそく始めましょっか?」
「ハイ」
「西門先生からは、すごく真面目な生徒さんだって伺ってますよー。お家でも練習してるから、上達も早いって」
「・・・芽・・・風間さんが手が空いてる時は教えてくれるんで・・」
本当は、褒められたくて子供みたいに練習した。
就職して以来、あんなに真剣になにかに打ち込んだのなんか初めてだ。
”落第生”だと思われたくない。
半ば意地みたいなもんだ。
片思いでも意地っ張りの睦希である。
”出来ません”で許されるようなキャラじゃないのだ。
”やれるよね?”と言われたことは、これまで何だって必死になってやり遂げていた。
そう・・・睦希は意志だけは強いのだ。
「そうですかぁ・・・風間さんと、ほんとに仲良しですねー。あたしも、幼馴染とは未だに仲がいいから、何となく親近感湧いちゃいます・・・」
「そうなんですか?」
「小学校から結婚するまで、一度も離れたことがなくて・・・地元に嫁いだくせに、やっぱり挙式前日は大泣きしました」
「へー・・・あたしと、風間さんは短大の時の友達なんですよ」
「じゃあ・・・もう7年来のお友達ですね。一緒に暮らしてらっしゃるんでしたっけ?」
「そうです。もう姉妹みたいなもんですよね」
「確かに・・・相沢さんってしっかりされてるからきっと、風間さんも安心でしょうね」
「・・・ほんとによく言われます・・・もう、保護者みたいになっちゃってるかも」
「あはは。でも、それじゃあ彼が出来たとき大変ですね。西門先生みたいに、遊びに行くたびヤキモチ焼かれちゃうかも」
「・・・・・・え?」
どうしても聴き流せるタイミングではなかった。
でも、出来る事なら耳を塞ぎたかった。
★★★★★★
あの人の心を。
なんてそんな大層なもん望みません。
だから、せめて・・・胸を打ち抜く真実ならば・・・
痛みだけは長引かせないで。
あの教室に通う生徒のあいだでは”西門先生の彼女”は超有名らしい。
なにが超有名かというと、彼の妹であるバイオリニスト”西門まどか”のマネージャーで、且つ、西門まどかの同居人でもあるから。
クラシック音楽に疎い睦希でも、一度くらいは聞いたことのある超有名な新進気鋭のバイオリニストが妹で、そのマネージャーが恋人・・・?
1人で舞い上がっていた自分が恥ずかしい。
あたしは・・・最初から全く見込みのない人に、恋していたわけね・・・1人でときめいて、盛りあがって・・・
「馬鹿みたい・・・」
「・・・バカみたいではないから、そう言い方しないの」
帰るなりぐったり項垂れて浮上しそうにない睦希の肩を叩いて、芽依がココアを入れてくれた。
「だって・・・どう足掻いたって叶わないじゃない・・幼馴染且つ妹さんのマネージャーで同居人。すでに家族ぐるみのお付き合いってわけでしょ?結婚だって秒読みに決まってるわよ。ってあーやだ・・・もうなんでこんなこと自分で言わなきゃなんないのよ!!」
せめて恋人がいる・・・くらいで誤魔化してくれたら良かったのに。
けれど、あの教室中のみんなが知ってたなら仕方無い。
知らずにいたのは、新参者の睦希と芽依くらいだったのだ。
「・・・叶わないからって・・むっちゃん、この気持ち諦められる?」
頬杖をついて芽依が睦希に問いかける。
あ・・・久々、芽依の先生顔だ。
「・・・分かんないわよ・・そんなの・・」
だって、今だってきっと顔見たらドキドキする。
声聞けば泣きそうになる。
側にいれば苦しくなる。
気持ちと頭はきっと別物だから。
そんなに上手には割り切れないと思う。
「そうだよねぇ・・」
芽依のやけに真剣な相槌に睦希は思わず彼女を見返す。
「・・・イイ人でも見つかったの?」
「え!?・・・なんで?」
ギョッとなって芽依が問い返す。
「だって・・・やたら気持ち籠ってたから・・」
「・・・別に・・無いよそんなの・・」
「あー・・・もしかしてー!!」
「なっなに?」
「二次会で名刺貰った夏目さんにときめいたとか?」
「ち・・・違うってば・・・それに、むっちゃんが止めとけって言ったんでしょ?」
「・・・そりゃーそうだけどさ」
志堂で人気のマーケティング部のイケメン社員である夏目雄基は、二年前に系列会社から引き抜かれてやって来た幹部候補らしい。
社内一のイケメン営業である大久保瞬が、高嶺の花である彼女との社内恋愛を成就させてから、一気にフリーの夏目とシステム室の平良の株が急上昇した
現在海外勤務中の国際部の東雲が帰国でもしたら、新三銃士と騒がれるだろうと言われている。
こう言っちゃ悪いけれど・・・システム室のイケメンSEの平良と並んで、社内でも噂の絶えない軽い男である。
来る者拒まず、去るもの拒まず。
たぶん、芽依に名刺渡したのも可愛い子だなぁー位の軽い気持ちだろう。
手玉に取られるに決まってるのだ。
だから止めたけど・・・
「でも・・・人の気持ちばっかりはどーしょーもないでしょ?」
「・・・むっちゃん・・」
「だから、芽依が自分で判断して会ってみようって思ったんなら止めない。ただし・・・夏目さんから、芽依と会わせろって言われたってあたしは絶対協力しないからね!」
単なる興味本位で、大事な親友を遊び人の餌食になんてさせるもんですか!!
芽依には絶対に幸せになって貰わなきゃいけないのだ。
「大丈夫。夏目さんみたいな人、どっちかっていうと苦手だし・・自分から会うことなんて無いから、心配しないで」
「・・・ならいいけど・・・もし、ちょっとでも悩んだら、相談してね?あ、もちろん。夏目さん以外の人でもそうよ?ちょっとでもときめいたら、教えて!芽依の恋なら全力で応援するから!」
「・・・むっちゃんありがとう」
「当たり前のことよ」
芽依のことになると、途端自分の事以上に気になってしまう睦希の前のめりな態度に、芽依は苦笑いを返した。
★★★★★★
「シからレに上がる時の指を気を付けて下さいね。ここはやわらかく、慌てずゆっくり弾いて大丈夫ですよ」
気持ちはこんなに焦ってて、頭は真っ白で心臓はあり得ない速さでドキドキ言うのに。
なんでなの?
指だけが思うように動かない。
西門先生の声に頷きながら、右手で鍵盤を叩く。
和田先生の爆弾発言の後から、レッスンはさっぱりだったし帰ってからも全く練習する気になれなかった。
広げたっきり、放置されたスコア。
芽依が気を使って、練習を見ようか?と聞いてくれたけどとてもそんな気になれなかった。
睦希にとって、ピアノは西門先生と会う為の材料の一個にすぎなかったのだ。
「あ!ごめんなさい!!」
やっぱり指運びで躓いて途切れたメロディ。
「ここはまだ練習が必要ですね。結構難しい曲ですから、焦らずゆっくり練習しましょう」
「すいません・・・」
「自分のペースでいけばいいんですよ。その為の個人レッスンだし、仕事もお忙しいんじゃないですか?」
「・・・・え・・・まあ・・」
仕事を理由にピアノに触れてすらいません。
どうせ無駄だから・・そんな理由で、スコアに目を通してすらいません。
はっきり言って全くやる気のない練習生だ。
それなのに。
「ピアノが嫌いになられる方が、僕は困るんで・・・息抜きにちょっと練習しようかな?位で思って貰ったら大丈夫ですよ。練習が楽しくなくなったら、意味ないですからね」
落ち込んだ気持ちを上手に救われてしまって困る。
この優しさは、外側の人間に対する優しさで・・・あたしは生徒で、お客さんで・・・
彼のプライベートに踏み入ることは、決して許されない。
それでも”他人に向けた”優しさに、泣きそうになる。
「・・・先生も・・・ピアノ嫌いになったことあるんですか?」
潤んできた目を誤魔化すために言ったら、目の前の彼の表情が一気に優しくなった。
「ありますよ。でも、本気で嫌いになりきれずに1年ほどで弾いちゃいましたけど」
彼が話したそれ”ピアノ”じゃないことは、すぐに分かった。
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