第18話 透明人間は彼女のために

 ーー数十分も前のこと。


『日暮さんなんか、消えちゃえばいいっ!』


 その言葉が頭の中でぐるぐると回り続けていた。

 気づいていながら何もしなかったのは俺だ。愛奈が怒るのも無理はない。


「これでやっと……」


 自分では目視できない四肢が、確かに感覚を失い始めているのがわかる。

 置いた手から畳の感触が消えていく。立ち上がる気力も既に無い。眠くなるような感覚と一緒に瞼が重くなってくる。

 きっとこれが死ぬ感覚だ。

 大家さんに死体の処理を任せなければならないことだけが本当に申し訳ない。遺言書でも書いておけばよかっただろうか。

 ピンポーン、とインターホンが鳴った。同時に「日暮くん?」と呼ぶ声が聞こえる。

 先刻、愛奈が出ていったっきり玄関は確認していない。オートロックではないので、しばらくすれば開いていることに気付いて部屋に入ってくるだろう。

 しかし、動揺しているのか鍵を持っていないのか、大家さんはドアを叩き、俺を呼ぶ。


「日暮くん? いるの? 返事して!」

「用があるなら入ってください」


 大して声は張れなかったが、ドアの向こうまで声は届いたらしい。

 ドアを開けて入ってきたのは、ランニングウェアで息を切らす大家さん。

 俺を見るなり、靴も脱がずに、すごい勢いで近くまで駆け込んできた。


「日暮くんに、伝えなきゃいけないことが……って、消えかけてるじゃない!? 愛奈ちゃんと何があったの? あーそう、愛奈ちゃんのことを伝えないと」

「落ち着いてください……」

「……そうね」


 大家さんは小さく深呼吸すると、人差し指を立てながら、俺を見つめた。


「一つ目。愛奈ちゃんがさらわれたわ」

「……!」


 大家さんの口から出た言葉に驚愕する。

 今すぐにでも動き出そうとしているのに、自分の脚はいう事を聞かない。

 大家さんは淡々と、もう一本、指を立てる。


「二つ目。日暮くん。あなたは今、非常に危険な状態よ」


 ここまで真剣な大家さんの顔は初めて見た。

 立てられた二本の指から目が離せず、俺は息を飲む。


「何があったのか、私は知らない。愛奈ちゃんが関わっているのかどうかも、私に知る権利は無いわ。ただ、あなたの手助けはしてあげられる。だから、」


 一呼吸置いて、告げられる。


「日暮くんは、どうしたい?」


 投げかけられた問いに対し、すぐに答えは見つかった。

 だが、その答えまでの行き先をありきたりな言い訳が、屁理屈が、プライドのようなものが邪魔をする。

 もごもごと口の中に生まれた言葉を、溜めては飲んでの繰り返し。口の中がやけに粘ついて仕方が無い。

 その解決は俺ではなく、警察に任せるべきだ。脚に力が入らない、立ち上がれないんだ。自分から突き放しておいて、やっぱり心配です、だ? ふざけているのか。俺は情で動くタイプの人間では無いだろうに。


「かはっ」


 ふと、乾いた笑いが口から漏れ出ていた。

 声が出せないわけじゃない。だから、答えるべきことを答えればいい。

 思考はもっとシンプルに。だから、これでいい。


「和加菜さん。俺は愛奈の所に行きます。場所を教えてください」


 どのルートから手に入れた情報だとか、そんなことはどうだっていい。

 俺は動くようになった脚をフルに回転させた。

 大家さんから受け取った情報を元に、愛奈がさらわれたという倉庫にたどり着くと、中からかすかに彼女の声を聞いた。

 扉を開けると、見えたのは縛られている愛奈と、男が三人。


「愛奈……!」


 息を整えながら愛奈の方を見やると、三人の男のうち二人は愛奈の近くで下半身を露出しており、その瞬間に俺は頭に血が上るのを感じた。


「おい、なんで開いたんだよ!?」

「それより、声聞こえなかったか?」

「待て、まず服着て扉閉めよう」

「そうだな」


 ごちゃごちゃ言い合うと、二人の男たちはこちらに向かってくる。少し視線を地面に移すと、彼らのものらしきズボンが足下に落ちていた。

 半裸でバタバタと走る彼らの姿はあまりにも滑稽で、俺の頭は急速に冷えていった。

 目的は、愛奈を助け出すこと。だからまず、俺がするべきことをしよう。


「うわっ、なんだこれ!?」

「浮い、浮いてるっ!」


 二人の男たち、ひとまず細身と低身長という呼び名にしておく。服を持ち上げてやると、二人ともわかりやすく顔を青ざめさせてその場で震え出した。

 それからその服を扉の方まで持っていき、外に置いてまた愛奈のいる方へゆっくり歩き出す。

 すると、さっきまで呆然としていたもう一人の恰幅のいい男が我に返ったのか、突然大きな声で半裸の二人に命令した。


「おい、早く取ってこい!」


 二人は頷き合うと、外に出てしまった服を取りに駆け足で向かう。途中で俺が足を出しているとも知らずに。


「あいっ? えええ……!」


 細身の方が引っ掛かり、地面に打ち付けた股間を抑えながら転げ回っている。頭を打たなくてよかったと思いつつも、感覚がわかる分、俺も少しヒュンッとした。

 低身長の方は服を取って戻ってきたところで足を引っかける。


「ぐおああああ……!」


 ご愁傷様です。

 さて、あと一人は太ったおっさんだったはずだ。そのワードにはなんとなく覚えがある。

 愛奈の方に目を向けると、彼女の前で件の太ったおっさんが仁王立ちで俺のいる方をじっと睨みつけていた。


「久しぶりだな、透明野郎」

「……」


 俺の事が見えているわけでは無いのだと思う。だがその口ぶりからは俺の存在を知っていることがうかがえる。しかし俺はこの男を知らない。


「……あの日、記念すべき45人目の相手にこのメスガキを選んだ。見た時は天啓だと思ったよ。頭も股も緩そうでな」


 やっと思い出した。数か月前に痴漢の現行犯で捕まったあのおっさんだ。なぜ45人目が記念になるのかはこの際触れないでおこう。


「捕まった時からずっと考えていた。復帰後は必ずこの女をヤると。ついでに、お前にも痛い目に遭ってもらう」


 おっさんが空を指差す。その先に俺はいない。

 俺のいる方から見えるのはおっさんの丸まった無駄にデカい背中だ。

 どうやら口だけは達者なようで、予想通りに俺の姿自体は見えていないらしい。

 音を立てぬように後ろに回り込むと、愛奈を縛っている紐を少しだけ緩め、ご高説を続けるおっさんに聞こえないように耳打ちした。


「一度だけ俺が声を出す。その時に走って逃げろ」


 わかったか、と聞くとコクッと一度だけ頷く。


「あー……、もう一つだけ、」


 先ほどよりも気持ち小さな声で耳打ちする。これは大家さんから言われたことだ。内容を聞くと愛奈は露骨に嫌な顔をしたが、一応受け入れてくれた。

 それから逃げる準備のために愛奈は少しだけ足を開いた。が、それがいけなかった。

 ほどけた紐がガサッと小さな音を立て、無機質な倉庫の中でその音はいやに響く。


「ん? 何の音だ?」


 おっさんが振り向くより早く、俺はその横っ腹にタックルする。


「逃げろ!」

「あ、おい!」


 おっさんの体にマウントを取り、その隙に愛奈は倉庫から走り去って行った。

 よし。これであとは、大家さんが呼んでくれた警察にこの男を突き出すだk


「は?」


 俺の体は宙を舞っていた。理解するよりも早く地面が迫って、俺は背中から叩きつけられた。


「かっ、は……!?」


 衝撃で一瞬息ができなくなる。空気が戻ってくると、脳が今起きたことを補完していく。

 ……右手を基点にして投げられた?

 その右手は今この瞬間も握られたままで、汗ばんだ感触が気持ち悪い。


「もう絶対に逃がさん」


 目をぎらつかせて低く呟くとともに、俺に馬乗りになるおっさんの姿が目の前にあった。


「いいか、俺はデブじゃない。腕から肩までは筋肉だ。わかるな?」

「腹が脂肪ならデブって言うんだ」

「ウェイトはパワー。つまり筋肉だ」

「悪いな、俺はライト級だ。他を当たってほしい」


 軽口を叩くのは時間稼ぎであって、挑発する意思は無い。しかし、俺の舌はこれまで使ってこなかった分より回る。


「ストリートにはルールなんか無いんだよ」

「残念ながら、倉庫はウェアハウスって言うんだ」

「あ? 寝ぼけてんのか?」

「投げられたおかげで目覚めは最高だよ」


 浩隆が乗り移ったのかと思うほど、反射的に屁理屈が飛び出ていく。

 死んでも構わないとつい直前まで考えていたからだろうか、止めようとしても口が止まってくれない。

 ついにはおっさんも額に青筋を浮かべて俺の右手を握る力を強くしていく。


「わかった。お前はここで殺してやる」

「いいね。少し前まで俺は自分に絶望してたんだ」


 何を言っているんだ俺は。調子に乗り過ぎたのか、焦りで気が動転しているのか、おっさんの癇に障ることしか言えなくなってしまっている。

 このままでは確実に殴り殺される。おっさんも既に片手を振り上げている。

 何か策を。しかし、考えても思いつくのは怒りを買うような冗談ばかり。話して解決するのはもう無理だ。

 試しに頭を左右に振っていたのだが、目線はぴったりと俺に張り付いていたので、砂か何かが付いているのだろう。避けることはできそうもない。


「うおらあああ!」


 おっさんが咆哮し、拳が振り下ろされる。

 その僅かな時間で俺にできたことはたったの一つだけ。

 “髪の毛を食べること”。

 口に含み、飲み込んだ瞬間、世界がスローになった。

 拳が落ちてくるまでの時間が何秒にも長くなっているように感じる。だからか、さっきよりもよく見えた。


「ぐおおっ!?」


 掠ることは覚悟のうえで、ギリギリまで引き付けてから頭を必死に逸らす。

 結果は見ての通り。地面の反作用で自分のウェイトをもろに受けたせいで、おっさんは苦悶の声を上げている。そんな様子のおっさんを寝返りで上からどかすことは、思っていたより容易だった。


「うーん。あとで腹に来そうだ」


 髪の毛なんか好きで食べたわけじゃない。本当に危なくなった時に食べろ、と大家さんに言われた通りにしたまでである。


「愛奈もよく許可したものだな……」


 食べるため、と直接言ってはいない。それでも、髪を一本くれと言ったときのあの冷たい目を思い出すと心が痛い。

 さて、この辺りでフィードバックは終えておこう。

 おっさんも痛がるのをやめて、涙目ながらもまた俺にぎらついた視線を向けている。


「もう許さん。お前はここで確実に殺す」


 かませ犬にしか聞こえないセリフだ。愛奈に聞かれたらまたそういう漫画の読みすぎだと言われそうだな。


「誰がかませ犬だてめえ!?」

「おっと」


 自分の口に指を触れる。一度冷静になれたと思ったのだが、思った事がそのまま口に出るぐらいに舌の方はまだまだフルスロットルらしい。


「なんかイライラしてきた。もう無理だわ。この際お前でもいいや。首絞め腹パンでお前の尻の穴ぶち込んでやるわ」


 おかげでおっさんもフルスロットルである。

 ついにはあの日、愛奈に襲い掛かる時にしていた両手を大きく広げるポーズで鼻息荒く俺を睨みつけていた。

 今さらだが、その体形も相まってか冬眠前の熊のようである。本当にそのまま眠ってくれればその方がずっと良いのだが。


「ああああああっ!!」


 歯を剥き出して唸り声をあげる様はまさに熊。リアルの熊のことが嫌いになりそうだ。いや、そもそもそんなに好きではない。


「よし」


 覚悟は決まった。よく見えるおかげで迫るおっさんとの距離はしっかりと計ることができる。腕の分も考えればものの三歩で俺は捕まるだろう。そして、俺はスローに見えるだけで素早く動くことはできない。

 だから、二歩目が地面に着くのを見てから俺は少し腰を落とした。

 力も技術も俺には無いが、僅かながら知識がある。

 おっさんの驚いた顔が下方からよく見える。でも全速力の太ったおっさんに止まることはできない。

 俺はさらに腰を落とし、上方に向けた手の指をそれぞれ付け根以外軽く曲げる。

 見立て通り、おっさんは三歩目の時点で俺のすぐ目の前に到達していた。

 俺が目指すは、その前のめりになった顔の下部。つまりは顎。

 願わくば、


「歯を食いしばれっ……」


 スクワットの要領で腰を持ち上げるのに合わせて、腕を思い切り突き出す。

 まず、手のひらの下部に鈍い感触。

 それからさらに押し込んだ時に、ガチン、という固いもの同士がぶつかる音が聞こえた。

 後に残ったのは、仰向けで倒れたおっさんと、立ったままの自分。

 右腕に力が入らない。それもそうだ。突進してくる太ったおっさんに対して、力の方向は違えど腕一本だけでかち合ったのだから少しぐらい折れるのが普通だ。

 念のため気を失っているおっさんの近くに寄ってみるが、ちゃんと呼吸はしているようでひと安心。念のために足下も見回してみるが、舌の欠片らしきものは見当たらない。

 ふう、と一息ついた。そのせいか、足から力が抜けていく。

 視界がぼやけ、世界の進むスピードが元に戻っていく。

 なるほど、髪を食う前に戻ったということか。

 そもそも、俺は数日の間ちゃんとした食事を摂っておらず、さらに数年走っていない足で全力疾走し、加えて人生初の喧嘩をおそらくドーピングありで行ったのである。

 考えてみれば、意外とこのまま人生を終えるのも悪くない。だが、しかし。

 ……生きたいなあ。

 瞼が下りた。しばらくして、誰かに名前を呼ばれた気がする。

 

 これは俺の妄想か、現実か。

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