第11話 透明人間の心の内

 愛奈が家に来なくなってから、数週間が経った。

 布団が返却されていることは後に大家さんから聞いた。連絡先を聞いていなかったために彼女が今何をしているのか全く知らない。

 そもそも、俺が愛奈を心配するのは客観的に見ればおかしい事だ。

 フワッとした協力関係があっただけの他人、それも大人と未成年だ。いや、未成年だからこそ心配するのかもしれない。


「はあ……」


 顔を洗って鏡を見ても、俺の顔は映っていない。そんないつも通りのことにすらため息が出る。伸びているのかもわからない髭を剃り、手触りだけで剃り終えたことを確認する。

 今日の気温はそれほど暑くない。だから服は厚手のパーカーとスウェットで、当然それを着た俺の姿は人には見えない。

 いつも愛奈が来ていた夕方の時間帯になると、外に出て行くあても無く歩き続ける。

 目的地は無いが、目的はある。徘徊する間も目線は下を向かずに、鮮明に覚えている彼女の姿を探して首を振る。

 馬鹿らしい。

 数週間、歩き続けてついに今日、そんな自嘲気味な言葉が頭に浮かんで、諦めがつくような気がした。今日で最後にしようと、人の少ない公園の古いベンチに座り、ぼーっと遠くを眺めながら一日が過ぎていくのを待つ。

 視界の中に様々なものが入っては出ていく。

 猛スピードで走っていく自転車の配達員に、手押し車と一緒に歩く老人。スマートフォンを片手に早歩きのサラリーマン、顔の周りを飛び回るハエ、そして、高校生の一団。

 その中に彼女の姿を探して、やはり見つからず、少しうつむいて。


「はあ……」


 また、不安と自嘲が入り混じった息を漏らす。

 見上げれば、夕日は沈みかけて空は暗くなり始めている。

 公園の周辺を囲む街灯も点き始めて、人通りも少ない。また重い息が喉に溜まって、足下に視線を落とす。


「お隣いいですか」


 突然声をかけられて、相手の顔も見ずに「どうぞ」と返す。

 隣を空けるように移動すると、古いベンチは少し軋む音を立てた。

 他人が同じベンチに座っていると、どこか不思議な気持ちになる。

 他にベンチは無く、周囲にイチャつく男女の姿も見えないので、これがいやらしい気持ちではないことだけは確信できる。


「何をされてたんですか?」


 若い女の声で、隣から問いかけられる。


「人探しを」


 面倒臭い、と思う前に口が勝手に動いた。また問いかけられ、それに答える。


「どんな方ですか?」

「年下の従姉妹です」

「いくつになられるんですか?」

「正確な歳は忘れました。でも、高校生です」

「どうして探しているんですか?」

「毎日のように顔を合わせていたんですが、突然姿が見えなくなって」

「何かした覚えは?」

「何かしたのかもしれません」

「難しいですね」

「難しいです」

「心配ですか?」

「心配、と呼んでいいんでしょうか」


 一呼吸、間を置く。


「もしかすると、俺は彼女の身を案じているわけじゃなく、ただ俺自身が彼女を必要としているだけなのかもしれません。そういう意味では、自分を心配していると言った方が正しいと思います。なんか自分勝手ですね、俺」


 話し終えると、隣から声が聞こえなくなり、気まずさから俺は余計な事を口走る。


「近くにいた人の価値って、いなくなるとわかるものですよね。恋愛小説でそんなの読んだかもしれないです。あはは……俺も、」


 その先を口にすることをためらった。そして、その一瞬のためらいが唐突に俺の思考を冷静にさせた。

 俺はなぜ、こんな事を知らない相手に話しているのか。いや、それ以前に、なぜ俺は人と会話できているのか。

 ハッとなって隣を見ると、頭に浮かんだ問いの答えがそこで意地悪く笑っている。


「やっとこっち見た」


 膝上丈のスカートに、必要以上に胸元が空いたブラウス。肩にかかるライトブラウンの髪と、あどけない顔立ち。後ろの夕焼けも相まって、いじらしいセリフを言う彼女はさながら絵画の一部のようだった。


「で、続きは?」


 声を出せずにいる俺の頬を人差し指でつつきながら、見覚えのある意地悪い顔でそんな事を訊く。

 俺は数秒前に自分が何を言おうとしていたのかを思い出す。そして、口を固く引き結んだ。


「……言わない」

「『俺も』?」

「絶対に言わない」

「なんでよ」

「…………」


 それから俺がしばらく無言でいると、半眼で見つめていた愛奈は「まあいいや」と立ち上がった。そして、俺の目の前に立つと、


「日暮さん」


 難を逃れたと思って内心ホッとしていた俺は、新たな追及を恐れて身構えた。

 しかし、彼女の行動はその予想を裏切るもので。


「誕生日おめでとう」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 目の前に突き出されている紙袋を見て、続いて愛奈の顔に目を移す。彼女は照れながらも、にぱっと清々しい笑顔を俺に向けている。

 身構えていたはずが、俺は自然とその紙袋を受け取ってしまっていた。

 中身を少し覗く。ブックカバーと、もう一つは服か?


「この前、泊まったときに押し入れ見たやろ? 日暮さん、冬用のパジャマ持ってなさそうやったから……」


 語尾はしぼんで、早めの秋風に消えていく。人へのプレゼントに贈る側の不安はつきものだ。今度は中に手を入れて、服の手触りを確かめる。

 柔らかく、触れているだけで暖かい。値札は見えないが、一介の高校生が簡単に手を出せる品でないことはすぐにわかった。思わず金銭的な部分を気にしてしまう。きっとバイトのシフトを増やしたのだろう。

 だがそれ以上に、愛奈は俺に合うものを真剣に考えたのだということがよく伝わってくる。そんなプレゼントをもらって、俺が言える言葉はそう多くない。


「ありがとう」

「どういたしまして!」


 たった一言交わすだけで、心には熱が生まれる。とはいえ物理的な空気は冷たい。


「くしゅん!」


 愛奈がくしゃみをして、鼻を少しこする。

 俺は立ち上がると、愛奈に手を差し出した。


「握るか?」

「うん……」


 握った手は冷たい。しかし、握らないよりは随分とマシだ。


「服を貸せなくてすまん」


 着ている服は透明仕様で、そもそも俺は貸せるような上着を着ていない。寒くなる前に世も末屋へ買いに行こう。

 しかし、愛奈は首を横に振る。


「別にだいじょーぶ。それよりさ、ケーキ取りに行こう。予約してあるんだ」

「……!」


 驚きつつも首肯する。それを見て愛奈も満足げな顔で頷き、俺の手を引いて歩き出す。

 以前の本の事といい、おそらく愛奈はサプライズが好きらしい。いつか、彼女は子供にとって“いい母親”になりそうだ、と思った。

 ただ、それは女子高生に言うことではないので、思うに留めておく。

 我が子を見守る親の気分はこんな感じだろうか。これもどうやら口には出せそうにない。


 ***


 数年振りに、誰かにきちんと誕生日を祝ってもらったような気がする。

 愛奈が帰ったあと、流しで皿を洗いながらふとそんなことを思う。

 毎年おめでとうメッセージをくれる几帳面な友人はいるが、わざわざ家に呼んでまで祝ってもらうことは久し振りだった。

 胃が重い。二人で食べるのをわかっていながら1ホールを予約した愛奈のせいだ。今も冷蔵庫にはケーキが数切れ残っている。今度愛奈に食べさせよう……。


「ふう……」


 皿洗いを一通り終え、すっかり薄くなってしまった座布団に腰を下ろす。そのまま壁に背をつけると、スマートフォンが一度揺れる。

 またいつもの迷惑電話かと通知をタップすれば、友人が毎年恒例のクセが強いスタンプ付きで誕生日を祝ってくれている。そこに軽く礼を返すと、スマホは通知を切って畳に置いた。

 しばらくぼーっと部屋を見渡す。決して広くないはずなのに、一人になるとどうも間取りを広く感じてしまうことが増えた気がする。

 俺が越えてはいけないラインに踏み入ったことを、愛奈は許してはいないだろう。俺と関わらないことを、一時は本気で考えたはずだ。誕生日サプライズのためにバイトで時間を費やしていた、なんて想像は俺自身に都合の良い妄想でしかない。

 ならば、なぜ愛奈は元の関係を取り戻そうとしたのか。

 おそらく、俺の部屋という逃げ場を失いたくないからだ。彼女が俺に好意を向けているとは考え難いし、どうしても俺自身を必要としているようには見えない。

 そう折り合いを付ければ、一つ気持ちが軽くなった。

 しかし、愛奈はなぜ俺の誕生日を知っているんだ……?

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