第3話 透明人間と名付ける彼女

「ねー、聞いてよ」


 少し時間が経って日が落ち始めた頃、突然正面から声が聞こえて視線を上げると、スマホを耳に当てている彼女の姿が目に入った。電話するのはいいが、紛らわしいので席を立つなり一声かけるなりしてほしいものだ。

 こういうことはかなりの人間が必ず通る道と言っても過言では無いだろう。

 顕著な例で言えば、「顔見知りの異性がこちらに手を振っていたので手を振り返そうとしたら後ろからその子の女友達が来た」とかだ。決して俺の体験談ではない。……手を振ってしまう直前で本当に良かった。

 黒歴史など探せば山のようにあるが、全てを思い出すまでに頭より先に心が壊れてしまう。落ち着いた心を取り戻すために、俺は改めて本の続きを読み始める。


「ねー、聞いて?」


 また同じようなテンションで彼女の声が聞こえてくる。

 先ほどとは別の相手に電話をかけているのだろうか。学生の間から交友関係が広いのは良い事だ。

 高校の友達よりも中学の友達を大事にしなさいとはよく言ったもので、大人になるとそれを実感する。まあ、どちらにせよ透明になったせいで顔を合わせられないのだが。


「ちょっと、聞いてんの?」


 自虐的になったところで語気を強くした彼女の声が部屋に響く。突然こうなるからギャルは怖い。油断できない。ギャル怖い。

 と思ったところで肩を掴まれた。


「こっち向きなよ?」

「ん?」

「アタシの話ちゃんと聞いてる?」


 なるほど、さっきから俺は話しかけられていたのか、と今になって理解する。

 彼女の怒ったような顔を見て素直に謝るべきだと脊髄反射で舌が回る。


「悪い、聞いていなかった」

「はあ? 二回も言うのダルいんだけど?」

「すまない」


 人間という生き物はことあるごとに同じ話をするよな、という屁理屈は心にしまって今は素直な気持ちで謝罪に徹する。


「まあ、いいけど。あのさ、アタシら名前知らないのヤバくない?」

「ん、まあ、そうか」


 話の流れからいくと今の「ヤバい」は悪い意味の方だろう。

 確かに名前もわからない相手の家にいるのは不安かもしれない。


「名前を知りたいなら、表札を見ればいい」

「やー、読めるんだけど読めないってゆーか?」


 そう言われると納得する。義務教育の間に習う漢字ではあるが、人の苗字としての読み方は色々あってなかなかに難しい。

 俺はメモ用紙を一枚取り出し、そこに自分の苗字を書いた上にふり仮名を付けて彼女に紙を渡す。


「“ひぐらし”って読むんだねあれ。で、下の名前は?」

「いるか?」


 疑問を返しながらも、手渡された紙に改めて自分のフルネームを書いて渡す。

 誰かに名前を書けと言われるのは久しぶりだったせいか、少しペン先が震えた。


とおるか。良い名前だね」

「ありがとう」


 お世辞だとしても自分の名前を褒められるのは素直に嬉しい。うちの両親が聞けば泣いて喜ぶことだろう。


「んじゃ、アタシの名前もここに書くね」

「書くのか?」

「逆に書かないとかある?」

「いや、何かされた時のために俺の名前だけ控えておくのかと」


 彼女が名前を教えることに、全くと言っていいほどメリットは無い。

 対して俺の体は特殊な状況にあるとはいえ、戸籍が変わっているわけではないから名前を知っているのは十分な抑止力になる。

 だが、彼女は俺の言葉を鼻で笑って一蹴した。


「アッハ、何かするつもりあったの? おにーさんが?」

「まあ、無いな」


 言われてみるとその通りだ。出会った日にもそれは宣言していたし、今になってそういうことを考えるのもどうかしている。

 とはいえ、こういう態度は少し癪に障るものだ。年下になじられるのが好きな人間もいるらしいが、俺はそうではない。後で少しカマをかけてみよう。

 勝手に決意した俺の前にスッとメモ用紙が置かれた。それを手に取ると、彼女の方を一瞥してから増えた文字列を注視する。


「フリガナは無いのか?」

「当ててみなよ」


 ニヤニヤする彼女は、子どもが新しいおもちゃを見るような目で俺を見つめている。

 こんな小さなことも楽しめるなんて、やはり学生とは恐ろしい生き物だ。

 しかし大卒を舐めてはいけない。二択まで絞りこめば後は勘と予測でなんとかする。


相楽さがら……愛奈まな、で合っているか?」

「おー、あったりい」


 言いながら彼女はにぱっと笑顔を咲かせる。どうやらどちらに転んでも彼女が気を悪くすることは無かったようだ。こういう問いにおいて白黒を考えてしまうあたりは大人になったせいなのかもしれない。

 彼女は尚も楽しそうに次の話題を提供する。


「じゃあ次、どう呼んで欲しい?」

「……?」


 人から呼び名をつけられることはあるが、自分からこう呼べと言ったことは生まれてこの方一度も無い。頭の中は疑問符で埋め尽くされていく。


「ちょっと、無言やめろし」

「ん、悪い」

「ムズいこれ? あ、じゃ逆にアタシのことなんて呼びたい?」


 思いつきで出たらしい彼女の言葉は、俺を中心として部屋全体を激震させるに匹敵した。

 どうやら俺には荷が重かったらしい。誰かこのギャルの相手を代わってくれ。とはいえ透明人間が他にいるとは思えないし、見える人間も他にいないような気がする。

 考えるうちにぶわっと汗が湧いてくる。脇汗が体の側面をつたい、エアコンの無い部屋が脳を蒸す。


「あー……、やめとこうか」

「そうしてくれ」


 俺の苦悶の表情に、彼女の方が妥協した。向こうが折れてくれて助かった。

 だがそう思うのも束の間、名前の件は別ルートで進められる。


「そんじゃ、アタシが勝手に呼び方決めるね。えーと、」

「おい待て、そういう話じゃないだろう」


 俺の制止を彼女は聞こうともしない。立ち上がって部屋を歩き回りながら、俺の反応を面白がって次々に違う呼び名を生み出していく。


「透くん、普通だ。透さん、なんか親戚みたい。とーるん、はカワイすぎ。あとは、」


 これ以上好きにさせると下手な転び方しかしないと察して口を挟もうとした。

 しかし、次に続いた言葉に俺はドキッとする。


「先生とか?」

「なんで先生なんだ?」


 恐る恐る聞き返すと、彼女は鞄の中から本を一冊取り出した。表紙には見覚えのある文字列が並んでいる。


「ほら、“日暮通”って漢字は違うけど読み方一緒だし。あとなんか先生っぽいし」

「確かに、塾でバイトをしていたこともあったな」

「ほえー。賢いんだ」

「子どもに教えられる程度には」


 それより、と脱線しそうになったところで話を戻す。


「呼び方は苗字にしておいてくれ」

「そっか」


 彼女は残念そうに呟くと、急に隣に腰を下ろし、ずいっと体を寄せてきた。

 それから俺の方を向いてニッと口角を上げた。


「んじゃ、日暮にする」

「呼び捨てか」


 少しムッとして言うと、彼女は口を尖らす。


「イヤなら自分でなんか付けてよ」

「なら、さん付けだな」

「それこそお金くれそうだけどね」


 瞬間的に部屋の音が消える。生まれた会話の隙間。

 さっきより距離が近くなった今、少し前のことを思い出して、俺は自然と次のような言葉を口走っていた。


「……金を渡せば何かしてくれるのか?」


 見上げる彼女は首を傾げて、言葉の意味を理解していないように見えた。

 こうしてみると、今さらながら身長差があることに気付く。まあ、今はいいか。


「ちょ、やっ!?」


 頭を支えながらゆっくりと彼女を押し倒す。硬直から解けて体をよじる彼女の逃げ道を腕で塞ぐ。世間でこれは床ドンとか言うのだろうか。

 それから肘も床に下ろして顔をグッと近づけると、もう一度確かめるように言う。


「何かしてくれるのか?」


 お互いの息がかかる距離だ。

 ここまですれば言葉の意味は理解するまでもなくわかってしまうだろう。

 唇をギュッと引き結んで俺を見つめる瞳は潤み、恐怖を堪えているようにも見える。

 冗談とはいえ、こんな顔をされるとおかしな気持ちが芽生えてしまいそうだ。


「何かしてくれるのか、愛奈?」


 自分を保つためにも、持ち得る限りの優しい言葉で三度みたび問いかける。

 すると彼女は頬を赤らめて視線を少しだけ外し、覚悟を決めたように口を開いた。


「け、経験あるとは言ったけどな。その、優しくしてや?」


 情報過多が過ぎる。

 彼女の言葉を解析するまでに、数秒の時間を要した。

 歯が浮くような純度の高いセリフに加えて突如として姿を現した方言という二つの武器が、ギャップという世界最強のバフ付きで俺に襲いかかった。

 もちろん初めから俺にそのつもりはさらさら無く、しかし“双方の合意あり”という法の壁が取り払われた今の状況下では、止める方がむしろ失礼ではないかという悪魔のささやきが耳の奥をくすぐっていく。


「せえへんの?」


 言葉と一緒に彼女の吐息がかかる。

 少しでも動けば鼻先が触れるほどの距離。

 彼女の甘美な声と、早くなる自分の鼓動以外は耳に入ってこない。

 俺の目を見つめる瞳は透き通るほどに純粋だ。

 だがそれ故に、その瞳を見た瞬間に、俺は冷静さを取り戻した。


「ああ、しない」


 逃げるように彼女の隣に仰向けに転がり、ふうっと息を吐き出す。知らないうちに呼吸を止めていたらしい。

 屋内の重たい空気が肺へと押し流される。


「そう、なんや」


 短く放つ言葉の端々でイントネーションが抜けきらないところに彼女の動揺を感じる。

 間違いなくさっきよりも離れているのに、今はお互いの呼吸の音がよく聞こえる。

 普段なら意識しない畳の匂いも、馴染みの無い異性の甘い匂いも、強く感じられる。

 それから、どちらも言葉を発さない時間が数秒あって、向こうが先にそれを嫌った。


「……愛奈って呼んだ?」

「そうだな」


 無言の時間がまた訪れる。少し身をよじればカサと畳の音が静かに響いた。

 続いて俺が言葉を繋ぐ。


「俺を童貞と呼ぶ資格があるのかカマをかけてみた。悪い」

「別にいい。じゃ、帰るね」


 イントネーションを元に戻しながら彼女は素早く立ち上がった。

 スクールバッグを手に取って、スカートについた埃も払わずに、まだ艶の残るローファーを履いて少し振り返る。


「またね、日暮さん」

「ああ」


 上半身だけ起こして応えると、彼女は不機嫌そうな顔で俺を睨みつけた。


「日暮さん?」

「……じゃあな、愛奈」


 さっきの問答で、どうやらお互いの呼び方が確定していたらしい。

 彼女は満足そうに頷くと、ドアを少し開けて人を確認しつつ、小走りで出ていった。


 ***


 ドアが閉まると、俺はもう一度寝転がって自分の行いを反省する。壁が薄いので呻いたり叫んだりはしない。ただ冷静に過去を省みるだけだ。

 あの時、本能は間違いなく襲ってしまえと言っていた。女子高生にあの反応をされてしまえば健全な二十代男性なら完全に理性を手放しているだろう。しかし、俺は伊達に今日まで童貞を守っていない。こんなところで捨てるわけには……というのは冗談だ。

 俺は立ち上がり、洗面所に行って鏡を確認する。相変わらず俺の姿は映っていない。

 人の目は鏡と同じだ。あの時、彼女の瞳に俺の顔は映っていなかった。

 彼女の反応を見れば、童貞の俺にだってわかる。経験があるなんて嘘だ。いや、やっぱりわからん。

 姿の無い相手に初めてを捧げることで、彼女が何を得ようとしたのか俺にはわからない。それに、俺自身の希薄な存在がさらに消えてしまいそうで、怖かったのだ。

 どちらかといえば後者がメインの理由。踏みとどまることができたのは、俺の自分勝手だ。

「またね」と彼女は最後に言っていた。また来ることはあるのだろうか。張り付けていた仮面が出会ってたった五日で剥がれ落ちたのだ。相当なダメージを負っているはず。

 手元に読む本が残っているうちに、本を店で買う方法と、この体でもできる仕事を探そう。

 少し静かに感じる手狭な部屋で、俺はノートパソコンを開いた。

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