第30話 愛を知るまでは


美也子さんに「自分の気持ちをぶつけてみたら?」と言われたものの、私は鹿内さんに告白する勇気が持てないまま、時間だけが過ぎ去っていった。


鹿内さんに「ずっと前から心に決めた子がいる」ということも、私の恋心の暴走をストップさせていた。


そして鹿内さんとの関係は何も進展しないまま時は流れ、私は無事希望の大学から合格通知を受け取ることが出来た。


パパもママも、そして鹿内さんも、自分のことのように喜んでくれた。


そして鹿内さんは私の家庭教師という任務を終えた。


鹿内さんの通う大学よりはランクが劣るけれど、自分の実力を考えるとまずまずの結果を出すことが出来て私は満足だった。


これもひとえに私に勉強のノウハウを叩きこんでくれた家庭教師である鹿内さんのお陰だ。


でも嬉しいことと哀しいことはいつも一緒にやってくる。


この春、中学校の先生になる鹿内さんは、とうとう我が家を出て、隣町の賃貸住宅へと越して行くことになったのだ。


築30年の中古マンションだけれど、外装はまだまだ綺麗だし、オートロック付きでもあるらしい。


鹿内さんが初めて家に来た新緑の季節は出会いの季節でもあり、別れの季節にもなった。


段ボール箱に本や服を詰め込む作業をしている鹿内さんは、心なしか晴々とした表情で、この家から出ていくことを、心底喜んでいるように見えた。


きっとこれからの自由気ままなひとり暮らしを想像して、胸を膨らませているのだろう。


そして私のことなんかすぐに忘れてしまうに違いない。


もしかしてひとり暮らしを始めたらすぐに、ずっと前から心に決めた子を迎えにいくのかもしれない。


でもそれが鹿内さんの幸せならば、私はそれを喜ぶべきなのだ。




鹿内さんが我が家で暮らしていた約2年間は、私に大きな変化をもたらした。


大嫌いだった男性への偏見の目を無くして、相手の人間性を見ていこうと決意したこと。


それによって知り合った男性と普通に話すことが出来るようになったり、電車や店で男性がいても緊張で身体が強張ったりすることが無くなり、日々の生活が過ごしやすくなったこと。


人生初のアルバイトに挑戦して、働いてお金を稼ぐことの大変さや楽しさを知ることが出来たこと。


パパやママから感じる過保護という重荷が少し軽くなったこと。


そして、初めての恋・・・。


誰かを想うことで得られる喜び、切なさ、胸の痛み。


それら全部が鹿内さんと出会わなければ得られなかった事ばかりだ。


鹿内さんとの別れは辛いけど、この出会いを与えてくれた運命の神様には、やっぱり感謝しなければならないと思う。


私もいい加減、感傷的な気持ちを切り替えて、鹿内さんの旅立ちを祝ってあげなければ。




忙しく身体を動かしている鹿内さんの目の前に、私は冷たいコーラのボトルを差し出した。


「お。サンキュ。丁度喉が渇いたところだった。」


鹿内さんはボトルのキャップを外し、喉を鳴らしながらその黒い炭酸水を胃に流し込んだ。


少し口の端からこぼれたその液体を、鹿内さんは右手の甲で素早く拭う。


そんな少年のような仕草も、私の心を静かに震わせる。


「・・・そんなに急いで、家を出ることないのに。」


最後の悪あがきと知っていても、鹿内さんを引き留める言葉をつい発してしまう。


「ここから電車でたった二駅しかないんだぜ。いつでも会えるよ。」


「そうですね。」


けれどそんな言葉は社交辞令だとわかっていた。


彼女でもない女が、彼氏でもない男の家へ頻繁に通うなんて非常識だってことは、私だって理解している。


それでも信二兄ちゃんと一緒なら、一回くらいはどんなところで暮らしているのか見ることが出来るのだろうか?


それとも、もうなるべく関わらない方が、鹿内さんの迷惑にならないのではないだろうか?


この先、鹿内さんが心に決めている人とうまくいくことを願うしか、私には出来ない。


「鹿内さん」


私の呼びかけに背中を丸めて引っ越し作業をする鹿内さんが振り返った。


「幸せになってくださいね。私、鹿内さんのこと、一生忘れません。」


「・・・大袈裟だな。まるで永遠の別れみたいだ。」


「だってお別れはお別れでしょ?鹿内さんはこの家から出て行ってしまうんだから。」


私はなるべく平静を保ちながら、そう言い放った。


「幸せになってください・・・か。うん。俺は幸せになるよ、きっと。」


鹿内さんは自信ありげにそうつぶやいた。


「つぐみも、な。」


私達はどちらからともなく、小指を絡めた。


「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます!指切った!」


私と鹿内さんは惜しむように小指を離し、小さく微笑みあった。


それは正真正銘、別れの挨拶だった。


・・・さよなら。私の初恋。







そしてとうとう鹿内さんが家を出る日がやって来た。


鹿内さんは家に初めて来た時と同じように身軽な恰好だった。


私達家族は玄関先で家族そろって、見送りの挨拶をした。


「いままで大変お世話になりました。このご恩は決して忘れません。」


鹿内さんは神妙にそう言って、深くお辞儀をした。


「寂しくなるな。いつでも遊びに来いよ。」


パパがそう言うと鹿内さんは「ありがとうございます」と言ってまたもや深々と頭を下げた。


「ご両親はこのこと知っているの?」


ママの問いかけに鹿内さんはバツが悪そうな顔をして笑った。


「はい。一応ラインで報告してあります。」


私はモモを抱っこしたまま、ただただ涙をこらえるのに必死だった。


ポケットの中にはアクアマリンとアメジストのブレスレッドが入っている小箱を忍ばせている。


でもこれを渡す勇気がない。


信二兄ちゃんの姪として、縁が切れるわけではないけれど、日々の忙しさの中できっと私は鹿内さんの思い出に変わっていくのだろう。


「つぐみちゃんも、モモも、世話になったな。」


鹿内さんはモモの首の下をワシワシと撫でた。


「こちらこそ・・・色々とお世話になりました。」


ただ喉の奥からこみ上げる嗚咽を止めるのに必死だった私は、それしか言えなかった。


笑顔で送り出そうと思っていたのに、最後まで笑顔が作れなかった。


鹿内さんが玄関のドアから静かに出ていくと、ママが私の肩に手を置いた。


「さよならは終わりでもあり、始まりでもあるのよ。」


ううん。


さよならはさよならでしかない。


きっともう会えない。


私はゆっくりと2階に上がり、鹿内さんの部屋だった場所のドアを開けた。


まだ少し煙草の匂いがする。


鹿内さんのぬくもりが部屋中に残っていた。


でも部屋の中には何もない。


まるで私と鹿内さんの関係のよう。


私はたったいま、鹿内さんの過去になったのだ。


私は部屋の真ん中にぺたんと座り、少し傷のある茶色のフローリングの床をじっと見つめた。


堪えていた涙が次から次へと頬に流れ落ちる。


「うっうっ・・・うっ」


嗚咽が止められない。


私は冷たい床にうずくまった。





・・・どれくらいそうしていただろう。


そして、ふと思った。


本当にこのままでいいの?


自分の気持ちを伝えないまま別れてしまってもいいの?


私は涙で濡れた顔を上げる。


ディズニーランドでお姫様を見た時、こう思ったじゃない。


「愛」は救ってもらうものでも与えてもらうものでもなくて、自分でみつけて掴み取るものだと。


可能性がゼロだとしても、掴み取る勇気だけは失くしちゃいけないんじゃないの?


私はスマホを掴み、鹿内さんのラインのアカウント画面を開いた。


「好きです」


いままでどうしても言えなかった、その一言だけを送信した。





その送信ボタンが魔法の合図だったかのように、ふわりと後ろから私の肩を抱きしめる腕が見えた。


・・・この煙草の匂い。


私はウサギのように赤くなった目で、振り返った。


鹿内さんは私の耳元に口を当てて内緒話をするように囁いた。


「つぐみ・・・どうして泣いているの?」


「・・・だって・・・。」


そう言いながらも、私の涙はぽとりとスカートの布を濡らした。


「その涙は、俺のためだと自惚れてもいいのかな?」


鹿内さんの人差し指が私の頬に流れる涙をそっと拭った。


私は黙ったまま、コクリと頷いた。


「つぐみを迎えに来た。・・・渡したいものがあるんだ。受け取ってくれる?」


鹿内さんは私を抱く手をぎゅっと強め、黒いブルゾンのポケットの中から、金色の包装紙に包まれた小箱を取り出した。


小箱には楕円形のシールが貼ってある。


そこには「What Is Love」の文字。


「開けてみて。」


包装紙を丁寧に剥がし、箱の蓋を開けると、中にはアクアマリンとアメジストのブレスレッドが入っていた。


「あの後、ひとりでこれを買いに行ったんだ。


つぐみが欲しそうにしていたから。」


私はあの店の女店主さんが言った言葉を思い出していた。


誰かが大切な人にプレゼントするために、もうひとつのブレスレッドを買っていってしまったということを。


鹿内さんは私の顔を覗き込んだ。


そして大事なことを告げるように、私の顔をじっとみつめて言った。


「俺は「愛」を知らない。だから愛を知るまでは・・・つぐみ、今度は君が俺に愛を教えてくれないか?」


その一言で充分だった。


もう鹿内さんの心に誰が住んでいたって構わない。


今、この瞬間、鹿内さんのそばにいて、温めてあげられるのは私しかいない。


私は鹿内さんの胸に飛び込み、思い切り泣いた。


涙で鹿内さんのTシャツが濡れるほどに泣いた。


鹿内さんは赤ん坊をあやすように、抱きしめた私の背中を静かにずっとさすってくれた。


ひとしきり泣いた私は、ポケットから銀色の小箱をそっと取り出し、鹿内さんの手の平に載せた。


鹿内さんはその小箱を見て、驚いた顔をした。


「私も鹿内さんにプレゼントしようと思って、随分前に買っておいたんです。鹿内さんが私にくれたブレスレッドと同じものを。」


「 What Is Love 」


そして私は鹿内さんの左耳にそっと囁いた。


「私が一生をかけて、鹿内さんに「愛」を教えてあげる。」


「ははっ。最高の殺し文句だな。」


鹿内さんはそう言って笑ったあと、ちょっと照れた瞳で私をみつめた。


私と鹿内さんの瞳が絡まるその秒数を数える。


1.2.3.4.5.6.7・・・


「もう、いいだろ?」


鹿内さんの右手が私の顎をクイッと持ち上げた。


ふたりの顔が限界まで接近する。


そして私の唇に鹿内さんの少しかさついた唇がそっと触れた。


堰をきったように、鹿内さんからの熱い濁流のようなものが、私の中に流れ込んで来た。


その口づけは深く長く、甘いイチゴキャンディの味がした。


狂おしいほどのその口づけに、私は息が苦しくなり


私の唇と鹿内さんの唇が束の間、離れる。


すぐに私は鹿内さんの首に絡めた腕をギュッと強め、


自分から、自らの唇を鹿内さんの唇に押し当てた。


「懐かない猫に舐められた気分だな。悪くない。」


「私を猫と一緒にしないでください。」


唇を尖らして抗議する私を抱きしめながら、鹿内さんはしたり顔でつぶやいた。


「さて。君のパパに殺されに行かなきゃな。」


「・・・私もお祖母ちゃんに温泉旅行、プレゼントしなくちゃ。」


「なに、それ?信江さんに?」


鹿内さんが私の髪をなで、不思議そうに笑った。


「ううん。こっちの話!」


悔しいけど信江お祖母ちゃんのいうとおりだった。


鹿内さんと出会う前の私に伝えたい。


ねえつぐみ。アナタ鹿内さんのこと、死ぬほど好きになっちゃうわよ、と。







それから一週間後。


私はパパにこう告げた。


「パパに会ってもらいたい人がいるの。私の大切な人。お付き合いを許して欲しいの。」


パパは愕然とした顔になった。


「どこのどいつだ?僕のつぐみを誑かしたのは!」


「誑かされてなんかいないわ。私が彼を好きなの。」


ママがパパにまあまあというようにとりなした。


「つぐみの好きになった人が悪い男性なわけがないでしょ?


娘を信じてあげなくてどうするの?」


「・・・とりあえず、連れてこい。僕がつぐみに相応しいか、見極めてやる。


大した男じゃなかったら、すぐに家から追い出すからな!」


私の突然の告白に、パパはショックを隠しきれない様子だった。




「お父さん。つぐみちゃんとのお付き合いをお許しください!」


リビングの椅子に座った鹿内さんはそう言って頭をテーブルに擦り付けた。


「パパ。私からもお願いします!」


私も鹿内さんと同じポーズを取った。


目の前には、拗ねるているんだか怒っているのかわからない微妙な顔をするパパと、必死に笑いをこらえているママが並んで座っている。


「鹿内君、君はつい先日、この家から出て行ったばかりだよね?」


「はい。」


「感動的な別れのシーンが繰り広げられたばかりだよね?」


「はい。」


「それがなんでこういうことになるわけ?」


「はい。」


パパの恨み節を鹿内さんは暖簾に腕押しするように、さらりとかわしていた。


パパは腕を組んだまま、天井を仰ぎ見た。


「たしかに僕は君に釘を刺していたよ。君がこの家から出るまでは、


絶対につぐみに手を出すなってね。」


え?ええ?


パパったら、鹿内さんとそんな約束していたの?


「お父さんとの約束は破っていません。


俺はたしかにこの家を出ましたから。」


「・・・だからってちょっと展開が早すぎない?


君がこの家を出て、まだ一週間しか経っていないじゃないか。」


「お父さんは前にここぞというときは思い切りスイングしていけと仰ってましたよね。


俺は一回表一打席目の初球ストライクボールを思い切り振ってホームランにしただけです。」


鹿内さんは下出に出ていながらも、済ました顔で淡々とそう答えた。


「そりゃ僕は君に父親だと思ってくれていい、ここがホームだと思ってくれてもいいって言ったけどさ。・・・僕にも夢があったわけよ。だから一回だけ言わせてもらってもいい?」


「はい。」


鹿内さんは神妙に頭を下げたままでいる。


「お前にお父さんと呼ばれる筋合いはない!!つぐみは絶対に渡さん!!」


パパの雷のような怒号が部屋中に響き渡る。


「あー怖いわ~。」


ママは肩をすくめながら両人差し指で耳を塞いでみせた。


「・・・って言っても説得力ないよね。


だって鹿内君、君はもうすでに僕の息子みたいなものだからね。」


パパはそう言うと強面の表情から一転、笑顔になった。


そしてママに向かって僻むように睨んだ。


「ママは知っていたの?」


「私は何もかもお見通しだったわよ?鈍感なアナタと違ってね。」


「・・・ま、正直僕だって薄々そんなことだろうな、とは思っていたさ。」


「あらま。負け惜しみ言っちゃって。」


ママがパパを肘で突いた。


「あのね。パパ。この試合の勝者は私よ。


鹿内さんは私の想いに答えてくれただけ。


それにまだ試合は始まったばかりなの。


それなのに鹿内さんはパパに真っ先に報告しようって言ってくれたの。


だからそんなに拗ねないでよ。」


「ふん。そんなことをつぐみに言わせるなんて、君は相当の策士だな。」


パパは鹿内さんをギロリと睨んだ。


そして一転、パパは父親の顔に戻り、真剣な表情で鹿内さんの顔を凝視した。


「鹿内君。つぐみを、僕の大切な宝物を・・・よろしく頼むよ。君になら安心してつぐみを託せる。


でもつぐみを泣かせたら・・・わかっているね。」


パパの殺気にも恐れず鹿内さんは平然と言い放った。


「すみません。もう2度ほど泣かせました。」


「なんだと?!」


いきり立つパパに鹿内さんは選手宣誓をする高校野球の選手みたいに言った。


「もう絶対、つぐみちゃんを泣かせません。鹿内弘毅、ここに誓います。」


鹿内さんは力強くそう言うと、テーブルの下で私の手をぎゅっと握った。



「ところで・・・話に水を差すようで悪いんだけど」


ママのその一言で、場の雰囲気がガラッと変わった。


「私の鏡台の上に、パパから貰った藍色の有田焼のね、マグカップの入った箱が置いてあったんだけど・・・。不思議なこともあるものね。私、もう随分前に、あのマグカップ落として割っちゃった筈なのに。」


「そう言えばママ、そんなこと言っていたな。なに、あれくらいで俺達夫婦の絆が壊れるはずないし、どうってことないよって話していたんだけど。」


パパもそれがどうした、とでも言うように屈託なく笑った。


ええええー??


あのマグカップ、最初から壊れていたの?


唖然とする私の横で、鹿内さんが何食わぬ顔でママに言った。


「それは俺とつぐみちゃんから、お母さんへのプレゼントです。今後ともつぐみちゃんのこと、よろしくお願いします。そして俺達のことを見守ってくれたら嬉しいです。」


「嬉しいわ。こちらこそ、つぐみをよろしくね。」


ママはそう言って私に小さくガッツポーズをした。


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