ちょっと待って? 子供のころ拾った子犬が、耳と尻尾の生えた青年になって私に跨ってるんだけど?

ともわかりえ

第1話 幻だった愛犬

 ――あ……わんこけられた……かわいそう……。


 いつも寄る駄菓子屋さんの前だった。


 雨にぬれ土にまみれた小さな体で、奮い立とうとする健気な姿を見てしまっては……もう見て見ぬふりなんて、できない。


 シッシッ、と追い払うおじさんに非難の目を向けてから子犬に近寄る。


 「おいで……」


 ぱっちりしてまあるいおめめが私のほうに向いた。後ろに垂れている大きい三角のお耳と、小さな黒いお鼻。ぬいぐるみのように可愛い。


 こんな可愛い子犬になんという仕打ちを、とおじさんに対して怒りが湧いたが、仕方がないことだともちゃんと分かっていた。


 私は、おぼつかない足取りで尻尾を振ってついてくる、子犬の生存確認を何度もしながら、家に向かって歩いていった――……。


 








 








 




「ねぇ、聞こえてる? 無視しないで?」


 不機嫌そうな声にハッと回想から戻ってきた私は、現在進行形で見下ろしてくる男の金色の瞳――……ではなく、頭の上にツンっと立っている耳に視線を送った。


 だって可愛いんだもん、お耳。仕方がない。うん、私は悪くない。あ、ピクピク動いた。可愛い。


 「ねぇ。何度繰り返したらいいの? あの男はなにって訊いてるの。ねぇ明花めいか?」


 男が眉間に皴を寄せ金目を細めたのを見て、背筋が冷えた。まるで野生の獣に狙われている獲物みたい……私が。


 「あの……あの人は同級生です。あと、一旦退いてもらえますか……?」


 「どうして」


 ごくりと唾を飲んだ。


 素直に、暗闇でギラギラ光ってる目が怖いから、って言ってもいいんだろうか? いや、ダメだよね? やめとこう。


 「喉……が、乾いて……」


 嘘ではない。


 真偽を確かめるように金目が細まった。すっと被さっていた体が消え、私は脱兎のごとく冷蔵庫へ向かう。


 コップに注いだお茶をちびちび飲んで時間稼ぎしながら、頭をフル回転させる。


 ――ねぇなんで? どういうこと? さっきまで犬だったよ? そりゃあそこら辺の犬より体がめっちゃデカイとは思ってたよ? 思ってたけど……なんなのあれは!?


 「ねぇなに考えてるの?」


 「っひゃぁぁっ!? なっ、なななななななんっ」


 冷蔵庫に両手を付き、真上から覗き込んでくる。逃げ道がないんですけど! 背が高い人にそんなことされたら怖いんですけど!!


 「なんでここにいるのかって? だってわざとゆっくりお茶飲んでたよね? 見てたらわかるよ?」


 「ひいぃっ!?」


 エスパーか!? ちょっとこの犬かしこすぎん!? あ、いや犬は賢い生き物だった。うん。


 気がつけば私のお茶は奪われて、シンクの上に置かれている。


 ぐぐぐ、と男の整った顔が間近に迫っていた。お願いだからこれ以上近づかないで!


 顔を逸らしたら頤に指先がかかり、ぐいっと正面に向けられた。もうやめて欲しい。


 私の顔は強張り、心臓はいつはち切れてもおかしくないほど暴れてる。


 「……おいで」


 仕方がないとでもいうように溜め息をついた男は、私の手を取り椅子まで誘導すると、座るよう無言の圧をかけてくる。私は忠犬のように従った。選択肢など存在しない。


 すると男は私の足元に跪き、握っていた私の指先に口づけを落として蕩けるような甘い笑みを浮かべる。私の心臓がどきんと跳ね、早鐘を打った。


 この男は私の心臓にあらゆる攻撃を仕掛けてくる。本当に危険だ。もう逃げたい。死んだお母さん、私を助けてください。


 「ねぇ、名前を呼んでよ」


 「え、な、名前……?」


 そんなこと言われても、この男の名前なんて知らない。


 「そう。君が付けてくれた、俺だけの名前だよ」


 え。そ、それって……。


 「な……ナッツ?」


 言った途端、男は破顔した。どこか恍惚とした表情にも見え、背筋がぞくりとする。


 私、もしかして危険な子犬を拾ってしまったんじゃないだろうか? いや、すでに犬ではない違う生き物だ。だって耳と尻尾が生えた人間なんて地球には居ない。


 いるとすれば何かの物語か、異世界くらいだ。


 「あぁ……そうだよ、俺は君のナッツ……。君は俺の唯一だ」


 どこかうっそりとした目で私の頬を撫でるナッツ。


 私は逃げたい気持ちを両手を握りしめることで堪える。避けたら次はなにをされるかわからない。


 「ねぇ、どうしてずっと震えてるの? 小動物みたいに。まあそれもそそられるんだけど」


 「っ!?」


 お母さん、やっぱり逃げたいです。助けてください。


 私は唾を飲み込み、勇気を出して訊いてみる。


 「あの……あなた、本当にあのナッツ……?」


 「そうだよ?」


 「私が拾った……犬の?」


 「うん」


 「そ……そうなんだ……。じゃ、じゃあどうして……その、半獣みたいな……姿、に?」


 「これ? 俺の住んでた世界では皆こんな感じだよ。まあ種類は違うけどね。俺は狼」


 狼……。犬じゃなかったのか……。


 「そ、そうなんだ……。変身できるようになって、よかったね……?」


 男はにこにこしながら首を傾げた。


 「いや? 何年も前からこの姿になれてたよ?」


 「は?」


 なんて?


 「いやぁ、明花って一旦寝るとなかなか目を覚まさないからさ、毎晩この姿で寝顔眺めてたんだよね。もう可愛くて可愛くて……俺がどれだけ耐えてたか」


 いや、どっか行けばいいじゃん? 耐える必要なくない? っていうかそんなことしてたの? 全然気づかなかったんだけど……こわっ!


 思わず自分の体を抱き締め――……ハッとした。


 ちょっと待って? ずっとって、いつから? だってナッツと私は……。


 まるで走馬灯のように、今までのナッツとの暮らしぶりが頭を過る。


 母が生きていたころには一緒に風呂に入り、外出するときはいつも一緒。母が亡くなってからは増々そばにくっつくようになって、学校にも毎日ついてきてた。中学の後半からは正門の前で終わるまで一日中待ってたし、お風呂の時だって中には入らないこそすれ、浴室中折れドアの前に護衛のように座っていたのだから、体のラインも見られていた……? 


 そういえば、奇妙なことに浴槽から出る段になると脱衣所から居なくなってたな、と思う。他にも……。


 やめよう。これ以上過去を掘り返してはならない。


 「じゃ、じゃあ……今日は、ど、どうして……」


 「寝てるのを起こしたかって?」


 こくこくする私を見たナッツの顔が、突然真剣なそれになる。


 「うん。もういいんじゃないかな、と思って」


 「え……いい、とは……?」


 犬の姿に疲れた、とか?


 「もう、明花ひとりになっちゃったし、学校生活も辛いって言ってたよね? バイトも、店長にセクハラまがいのことをされてるってよく泣いてたでしょう? この世界じゃあ、殺すと問題になりそうだから手は出してないけど」


 今とてつもなく物騒な言葉を吐きませんでしたか?


 「この世界でやりたいことある? ここに居続けたい理由がある?」


 真摯な金目が私を射抜く。


 これは、はぐらかしたりしてはいけないやつだ。


 心臓がどくどくと嫌な音を立て、手汗をかいた指先がひどく冷たい。


 私はじっくりと考え込み、数分して答えを出す。


 「……ないわ」


 「そう。よかった」


 安堵したように微笑む男に尋ねる。


 「でも、どうしてそんなことを訊くの?」


 「うん。明花と一緒に俺の世界へ帰ろうと思って」


 「は?」


 なんて?


 「ごめんもう一度言ってくれる?」


 顔を近づけた男が、私の両手を握りしめる。


 「明花を、俺の、国へ、連れて帰る」


 幻聴じゃなかった。


 「まあ反論する前にさ、これ見てよ」


 そう言って男は握り拳を出すと同時に瞼を伏せ、押し上げた。


 一瞬金目が光った気がしたけれど気のせいかな?


 「手の平を見て」


 見下ろすと、男の手の平に虹色に光る石がついた指輪が乗っていた。なんで? さっきまで何も持ってなかったよね? いやそんなことはどうでもいい。


 どうしてだろう。なんか見たことあるような気がする。


 「これはね、この世界にはない石なんだ。俺たちの世界でしか採れないんだよ。つまり、この世界にこの石が使われている物があるとすれば、それは俺の世界から持ち出された物ってことだ。ここまではわかるよね?」


 無言で頷く。


 「じゃあ続けるね。俺が持ってきた石は、この指輪しかない。じゃあ、もしこれ以外に、この星にこの石が存在していたら、それはどういう意味だと思う?」


 ――……え?


 自分でも解る。私は呆けた顔をしているだろう。


 瞬きをしながら、茫然と男を見上げた。


 男は微笑を浮かべながら黙っている。私が答えるのを待っているのだ。


 「……誰か、もう一人、あなたと同じ世界から……来た人が、いる?」


 「そう、正解だ! さすが俺の奥さん!」


 いや奥さんじゃないだろ、と突っ込みたかったが口にする気力がなかった。


 どうして、男が石の話しをしたのかが、ようやく分かったから。


 そう。私はこの石を……持っている。でも、それは……。


 「亡くなられたお母さんから、譲り受けた、よね?」


 「…………」 


 何も言えなかった。


 その通りだったから。


 私の中の認めたくない気持ちが「でも」と口を動かす。


 「似たような、石かもしれないじゃない……」


 私の声に、力はこもってなかった。ただ、そんなことないと、自分は純粋な地球人なんだと思いたかっただけだ。


 だって、じゃないと私は………………何者なの?


 血の気を無くした私に、男は尚続ける。


 「この石はね、さっきも言ったけれど俺の世界でしか採れない。この石はね、魔力を蓄えると今みたいに虹色に輝くんだ。元は、ただの白い石なんだよ。あと一つ、別の使い方があって、魔力を注いで念じることで、この石に刻み込まれた紋章が出現するんだ。……額に、ね」


 気持ちがおいつかず愕然とする私を、まるで慰めるように抱き締める。


 「急に言われても困るよね? ごめんね。でも俺は、もう十分待ったし……実は、セイラさま……君のお母さんから頼まれたんだ。君がいずれ一人になったときは、明花が望むなら、一緒に連れていってやってくれって」


 「な……んで」


 そっと体が離れる。


 「お母さんは……知ってた、の? ナッツ、が……普通の、犬じゃ、ないって……」


 「うん、そうだね。だって、俺とセイラさまはお互いに魔力を感じ取れるから。君も感じ取れるかもしれないけれど、訓練しないと扱えないと思うし、地球にはそんな概念が存在しないから思いもよらないだろう。気付ける筈がないよ」


 「…………私、は…………」


 自分という人間の基盤が、足元から崩れ落ちていくような恐怖に呑まれた。




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