終わりという始まり
死ねば、帳消しにできると思っていた。
この身を満たす苦痛も悲嘆も憎悪も怨恨も、すべて跡形もなく消え去って、静かになれるのだと。
そう信じて
『――木印を以て水穢を剋す。
紫電疾く径命を刻みて黄泉より還れ』
……、最初は何も感じなかった。
暗闇の中に居る。身体は重く、頭もぼんやりしていた。
やがて眼が慣れてきたのか、次第に周囲の輪郭を掴めるようになるにつれ、少しずつ万世の思考も鮮明になっていく。……そう、最初に思い出したのは自分の名前だった。
何度も言われたからだ。外人みたいな顔のくせに、とか、ちぐはぐだと嗤われて、それから……。
思い出したくない。忘れたい。違う違う違うこんなはずじゃなかった。
全部捨てるために自殺したのに、どうして。
「……死んだのに、覚えてる、ッ最悪……」
万世の呻きを弔うように、
すぐ傍に誰かいるなんて思わなかった。
「気がついたか。ひとつ訂正しておくと、君は
「……っ!? だ、誰……」
「〈
そこで彼は手にしていた本か何かを閉じた。声から察するに若い男性らしいが、身体が全く動かないので、わずかな視界と気配で判断するしかない。
万世は床に寝かされているようだ。少し離れたところにはソファーがあって、久遠なる人物はそれに腰かけている。
いつの間にか室内は明るく、先ほどまでの暗さはどこにも残っていなかった――なのに、なぜか陰っているようにも感じる。それでなんとなく、地下室なのではないかと思った。
だがそれも妙と言えば妙だ。だって万世は。
「……蘇生、って、どういうこと。ここって天国とかじゃないの?」
「彼岸ではない。君は確かに一度死んだ。それも、愚かにも投身自殺を選んだものだから脊椎が損傷した……骨や筋線維は蘇生時に修復したが、神経は難しい。起き上がれないはずだ」
「いや……だから、そうじゃなくて」
すべての悪感情をこの世に置いていけると信じて死んだ。それなのに、また、腹の底が煮えくり返る。
「どうやったかとかは、どうでもいい。……なんであたしを生き返らせたわけ」
「あのまま死にたかったのか?」
「当たり前でしょ!?」
「……ここにある君の遺書によると……君が命を絶った理由は、長期間にわたり周囲から執拗な嫌がらせを受けたことらしいな。それも君には落ち度のない原因で」
そこで相手は立ち上がった。身動きのできない万世はただそれを見上げる。
こちらが横たわっているせいか、背が高く感じられた。黒い衣装に身を包み、顔だけが白いので、なんだかまるで……死神のイメージが重なる。
黒い塊はゆっくりと歩み寄ってきて、ぬるりと顔を覗き込んできた。
「理不尽な目に遭って、復讐したいとは思わなかったのか」
万世は息を呑んだ。二つの理由で。
一つは、心当たりがあったからだ。飛び降りた瞬間、空気に揉まれながら地面に叩きつけられるまでの永遠のような数瞬に、感じていた――恐怖を。
怖かった。死んだ瞬間のことは曖昧にしか思い出せないけれど、きっと痛くて苦しかった。
こんなにつらい思いをして、本当にあいつらは――万世を絶望の淵に追い詰めた連中は、少しでも反省するだろうか。こちらの苦痛のほんの何割かでも感じるだろうかと。
最初は驚いても、数カ月もすれば万世の存在や自分たちの所業を忘れやしないか。何の罪も背負うことなく、のうのうと、ともすれば幸せに生きていくのではないか?
もしそうだったら、……苦しい思いをして死んだ意味がない。
たしかに思った。
もしそうなら、せめてあいつらを殺すか道連れにしてやればよかった、と。
「……ッ、あ……あたしは……」
「今はその憎しみを覚えている。このまま僕が何もしなければ、数日のうちにすべての記憶と人格を失う」
君には選択肢がある、と久遠は続けた。
「僕に従うなら、動けるようにしてやろう。自我も失わず、生きているときに得られるはずだった喜びを、何倍にもして取り戻せる」
「……どうして」
「理屈は単純だ。僕ら
「そうじゃなくて……、どうして、あたしなの」
「君を選んだ理由か? 美しいからだ。我が主の奥方は美を尊ばれる」
一度は止まった心臓がどくりと跳ね上がる。
これ以上ないほど説得力があった。久遠自身こそ整った容貌をしているからだ――それこそが、先ほど万世が怒気を飲み込んでしまった、もう一つの理由でもある。
いささか日本人離れした、彫りの深い顔立ち。滑らかな白い肌。長いまつげに縁どられた、大きな紅茶色の瞳。
やや色素の薄い、柔らかそうなヘーゼルブラウンの髪。小ぶりな頭は洒落たハンチング帽に包まれている。
甘いマスクに反して、淡々とした口調で紡がれる静かな声も、どこか艶めいた品がある。
万世はしばし魅入られた。まさに尊ぶべき美貌を前に。
そして、一度死んだ身では妙な喩えだが、生まれて初めてその賛辞を快く思えた。
これまでは悪意とともに差し出される言葉だった。
男からは気色の悪い眼差しを。女からは嫉妬や軽蔑を。――それが原因で、いじめが始まった。
友人だと思っていた女の彼氏に迫られた。彼女と別れるから付き合ってくれ、と。万世は拒んだけれど、浮気したと思い込んだ友人には彼を誘惑するなと罵られ、他の友もみんな向こうの味方になった。
孤立したあとは言いがかりと濡れ衣が続いた。
やれ成績のために教師と関係を持っただの、売春して男に貢がせているだの。どれも『容姿が美しいこと』をあげつらうための罵詈雑言だ。
厄介なことに、そうした根も葉もない噂を真に受けた馬鹿な連中も、少なからずいた。
……疲れてしまった。すべての呪縛から逃れるには、死ぬしかないと思った。
けれど現実はどうだろう、未だに何ひとつ忘れられず、身も心も冷え切った今は憎悪の炎だけが万世に残された唯一の熱。
さきほど久遠は何と言った? ――数日のうちにすべての記憶と人格を失う。
数日だって?
このどうにもならない怒りと憎しみを、まだ抱えていなくてはならないのか?
身動きの取れない身体で、ろくに復讐すら果たせずに……無我に辿り着くまで何日も、こうして漫然と横たわっていろというのか!
無理だ。そんなこと、耐えられない。
だったらいっそ。
「……あたしを動けるようにして」
「では、我らの一員になるか?」
「いいよ……あいつらをぶちのめせるなら、何だってする。あなたについていく」
「よろしい。では、まず、その憎い相手の名を一人教えてもらおう」
「どうして?」
これで何度目の質問だろう。生き返ってから、わからないことが多すぎる。
結局ここが誰で、久遠やその主人とやらが何者で、どうやって自分が蘇生されたのかも、これからどうするのかも、何ひとつ決まっていない。
今はっきりしているのはただ一つ。万世はまだ苦しいままで、この淵を抜け出すには久遠に従うほかない、ということだけ。
「単純な話だ。君がもう一度動けるようになるには、脊椎を正常なものと取り換えるしかない。そのあたりで適当に見繕ってもいいが、どうせ殺すのなら、復讐を兼ねるのが合理的だろう」
「……最初の一人はあなたが代わりにやってくれるってこと?」
「ああ。残りは好きに喰らうといい」
久遠はこともなげにそう言った。けれど今さら驚く気もしない。一度死んだ者がなんらかの魔法で蘇ったという時点で、すでに色んな道理や物理法則に背いているのだから、法や道徳に縛られる必要もない。
何より本能の訴えを感じる――身体が餓えている。このどうしようもない渇きを満たすには、誰かの犠牲が必要なのだと。
(死んで終わり、じゃなかった)
わかった。万世が死んだのは、苦痛から逃げるためでも、不幸な命を中途半端に終わらせるためでもない。
本当の人生を生きるためだったのだ。
久遠に出逢うためだったのだ。
――これは、始まりの物語。
*――* Never Happy-Ending *――*
「ここに君の衣装を掛けておく。丈の調整をするから、動けるようになったら試着して報告するように」
「……すごいフリフリ。そういうのが好みなの?」
「言っておくと僕の趣味ではない、奥様のご要望だ。……まあ嫌いではないが」
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