第2話

「船木。おはよう」

「船木。次、数学だよ」

「船木。バイバイ」


 船木のことを好きだとわたしたちに宣言した次の日から、真由ちゃんは船木に話しかけまくっていた。船木も「おはよ」とか「おう」とか、ニカッと歯を見せて笑って答える。わたしはそんな2人の様子を間近で見るのがツラくて、なるべく見ないようにしていた。


 真由ちゃんが「船木」と呼ぶたびに、わたしの耳は大きくなって2人の会話を聞こうとしている。見ないようにしているのに、どうしても耳が2人の声を拾おうとするから、わたしはそっと席を立って行きたくもないトイレに隠れるようになった。船木のことを好きじゃなくなれば、きっとこんな思いしなくても済むんだと分かっていても、頭の中は船木のことでいっぱいで、どうしても嫌いになれない。


「船木! ちゃんと掃除してよ!」

「うるせぇチビ! 本田の言うことなんか誰が聞くか!」

「なによデカいだけのバカが! あんたなんか地獄に落ちろ!」


 そんな言い合いが楽しくてうれしくて、でも誰にも言えなくて、握りしめた両手はますます開かなくなっていた。それでも船木と言い合いができるならいいかな、と思い始めていた時。


「美琴。本当に船木のこと、好きじゃないよね?」


 トイレの手洗い場で手を洗っていると、隣で鏡を見ながらリップクリームを塗る真由ちゃんにそう聞かれた。わたしはスカートのポケットに入れたキャラクターのハンドタオルで手を拭きながら答える。


「うん。好きじゃないよ」

「わたしのこと、応援してくれるんだよね?」

「うん。応援してる」

「だったらさ。船木と仲良さそうに話すの、やめてくれない?」


 リップクリームをピンクのポーチに仕舞った真由ちゃんが、冷たい目でわたしを見た。その瞬間、全身が金しばりにあったように動かなくなった。握った両手にだけ力が入る。


 でもその冷たい目も一瞬で、真由ちゃんはニッコリ笑った。


「わたしたち、友だちでしょ」


 先に教室に戻るね、と言ってトイレから出ていく真由ちゃんのプルプルした唇が、しばらく頭から離れなかった。


***


「おい本田。おまえ、今日日直だろ。ホワイトボード消せよ」


 授業と授業の間の休けい時間。船木がわたしに話しかけてきた。まさか話しかけてくれるなんて思ってもなかったので、ドキッとしてうれしくなった。「今やろうと思ってたの」と返そうとして、真由ちゃんがこちらを見ていることに気付く。


『船木と仲良さそうに話すの、やめてくれない?』


 トイレで言われたことを思い出した。開きかけた口を閉じる。わたしは友だちを応援するって決めたんだ。


「…………」


 わたしは静かに立ち上がってボード前まで歩いた。船木が後ろから「おいおい無視かよ」と言いながら付いてくる。なんで付いてくるの? 真由ちゃんの視線が痛いから来ないで欲しいのに、船木が真由ちゃんじゃなくて、わたしの近くにいることがなんだかうれしくて、ゆるみそうになる口に歯を食いしばって耐える。ホワイトボードイレーザーで文字を消していると、隣に船木が立った。頭ひとつ分背の高い、口ゲンカばかりしている同級生の男の子。


「おまえチビだから上の方届かねぇんじゃねぇの? しょうがねぇなぁ。俺がやってやるよ」


 持っていたイレーザーを船木がわたしの手から取ろうとして、手が触れた。わたしより大きくて手入れのされていない、異性の手。


 その瞬間、心臓がマラソンを走った後のようにバクバク音を立て始め、苦しくなった。真由ちゃんの視線も一気に感じる。このままだと真由ちゃんにも船木にもバレる。


 バシッと船木の手をわたしの手が払い、イレーザーが音を立てて床に落ちた。一瞬の出来事にもかかわらず、イレーザーが落ちていく瞬間は、なぜかスローモーションのようにゆっくりと落下しているように思えた。


「痛っ。なにすんだ……」

「もうわたしに話しかけてこないで! 船木なんか大っ嫌い!」


 わたしはそのまま教室を飛び出した。


 痛い。胸も、振り払った手も、大嫌いと言った口も、走り出した足も、全部が痛い。嫌い嫌い大嫌い。素直になれない自分のことが一番嫌い。友だちにもウソついて、船木にもウソついて、自分にもウソついて、こんな自分のことを誰が好きになってくれるんだろう。今ので船木には嫌われただろう。ケンカばかりしていたわたしのことなんか、元々嫌いだっただろうけど。ホワイトボードを消すのを手伝おうとしてくれた優しさを、わたしはいらないと振り払ってしまった。口は悪いけど本当は優しい船木のそんなところが好きなのに、大嫌いだと言ってしまった。本当は好きなのに、大好きなのに言えなくて、こんなかわいくないわたしなんかより素直でかわいい真由ちゃんの方が船木は好きだろう。早く忘れなきゃ、船木のこと。


 お腹が痛いとウソをついて、わたしは保健室のベッドで気持ちごと隠れることにした。

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