第5話

第6章 海浜都市レオーネ編 第5話(1)

 町が寝静まったその夜、クラウディアはホテルの玄関から青い闇夜の中に姿を現した。

 白い石造りの建物と街路は、月光を浴びて夜の町を深い青色に染めている。夜襲の一件があったせいか、寝静まっているはずの町はしかし、どこか張り詰めた空気を漂わせていた。

 腰に剣を佩き、軽装仕立てのドレスを纏い、夜の街に漂う張り詰めた空気に目を細めるクラウディアの隣には、同じく軽装に身を包んだクランツが緊張を帯びた面持ちで控えている。傍から見てもわかるその様子に、クラウディアは呆れたように小さく笑んだ。

「やはり、付いて来るつもりなのか」

「あなたを一人にしないって、言ったばかりじゃないですか」

 答えたクランツの声は、心外とでもいうような響きを帯びていた。その無謀ながら頼もしい少年の蛮勇に、クラウディアはかつてない信頼の情を覚えるのを感じた。

「……今回の《使徒》は、おそらく今まで会敵してきた中でも最も非情で冷徹な性格だ。危険を伴うぞ」

「わかってます。足手まといにならないよう、気を付けますから」

 危険を承知してなお息巻くクランツの威勢に、クラウディアは力強い笑みを見せた。

「死ぬなよ、クランツ」

「はい。行きましょう」

 クランツの言葉にクラウディアは頷き、二人は張り詰めた夜のレオーネの町を歩き出す。一歩を踏むごとに、カツ、カツ、と固い靴音が夜気の中に冷たく響く。

 クラウディアのすぐ横に護衛に付くように並んで歩きながら、クランツは背の高いクラウディアの横顔を盗み見る。凛としたその横顔は、どこか逡巡を秘めているように見えた。

 おそらく、まだ完全に割り切れてはいないのだろう。夕方に話した通り、彼女にとってこの状況は、そう簡単に整理の付けられる問題ではない。

 ならば、と、クランツは意気込み、密かに拳を握る。

 彼女の至るべき答えは、彼女自身で見つけるものだ。自分がどうこう言えるものではない。

 ならば、自分のすべきことは、彼女が答えを見出すまで、彼女を守り切ることだと。

 それが、自分にできる、彼女への貢献の形――クランツはそう、己の意志を確かめた。

 何かができるわけじゃない。けど、何もできないことはない。

 彼女の力になる――それが僕の、クランツ・シュミットの、ただ一つの願いなんだから。

 そこに、ある意志の変化が起きていることに、クランツは気付かなかったのかもしれない。

 やがて、二人は建物の密集する街区を抜け、開けた場所に出た。深青の夜空を照らす月明かりが夜闇の中に燦燦と降り注ぎ、安らかなる海辺の霊園を青く明るく照らしている。

 忽然となるような夜の光景の中、クラウディアは視線の先に逢うべき相手を捉えた。

 視線の先、彼女の母が眠る、霊園の最奥に横たえられている墓石碑。

 静かに佇むその前に、一人の人影がこちらに背を向けて立っていた。

 夜闇の中にあってなお、月明かりを照り返してきらきらと輝く深い青色の長い髪。修道女の僧服のような衣装に身を包んだその腰元には一振りの細剣が提げられており、清冽な印象を与えるその身からは、周囲をひりつかせるような静かな闘気が発散されていた。

 クラウディアは警戒を保ったまま、霊園に足を踏み入れ、その相手に近づいていく。一歩を踏むごとに足元を覆う青草がさわさわと音を立てる。クランツもそれに続いた。

 やがて、静かに眠る墓石の並ぶ一帯を抜け、クラウディアはその相手と一足飛びほどの距離にまで近づいた。まるでその間合いが最適とでも図っていたかのように、

「やっぱり来てくれましたのね。お待ちしてましたわよ、クララ」

 深青の髪をしたその相手はそう言って、流れるような動作で振り向き、対面したクラウディアに凄艶な笑みを見せた。その正体を認めたクラウディアが、張り詰めた声をかける。

「ミラ……やはり、あなただったのね」

「青色の髪といえば、私かサリューくらいしかいないですものね。久々に逢えて嬉しいけれど……残念ながら、今日はあなたとの再会を祝する日ではありませんわ」

 ミラと呼ばれたその女性は、鋭い目でクラウディアを見据えた。

「私はあなたを断罪するために来ましたの。これ以上、私達の故郷を奪った人間を庇い立てするような真似を続けるようなら、たとえかつての仲間であれ容赦はできませんわ」

 宣告し、静かに腰元の細剣の束に手を掛けるミラに、クラウディアは言葉を返した。

「ミラ。私は、あなたを……あなた達を止めたい」

 切実な目を向けてくるクラウディアのその言葉に、ミラは明らかに眉をしかめた。

「そんな言葉が、今の私達に通じると思って? あなたも随分と丸くなりましたのね」

「今のあなた達に、簡単に信じてもらえる言葉だとは思わない。それでも、私は……あなた達にこれ以上、そんな道を歩んでほしくない」

 諭すようなクラウディアの言葉に、ミラは諭し返すように言った。

「ねえ、クラウディア。私、あなたほどの女が愚かな人間達に誑かされているのが我慢なりませんの。彼らが私達にどんな仕打ちをしたか、忘れてしまったのですか?」

「忘れているはずがないわ。これまでに感じた何もかも、今でもこの胸の奥に残っている」

「では、なぜそのような不可解なことを口にできるのです? 私達を貶め続けた人間を庇い立てしようとするなんて、私には理解不能ですわ」

「私の母様は、きっとそんなことを望みはしないと思うから」

 クラウディアの答えに、ミラの視線が冷ややかになる中、クラウディアは言葉を続けた。

「母様だけじゃない。故郷を失ったあの日から、たくさんの人が私を助けてきてくれた。私は、全ての人間が悪だとは思えない。私を助けてくれた人達の気持ちを、私は信じたい」

「その程度のことで、あなたは全てを奪われた苦しみを捨ててしまえるんですの?」

「違う。人を信じたい気持ちは、憎しみに奪われるものじゃない。私は、そう信じたいの」

 追及してくるミラに、クラウディアは怯むことなく、己の中にある思いを言葉にした。

「彼らは、きっと私が憎しみに染まることを望んでいない。そして、私も……あなた達に、憎しみに染まってほしくない。私が信じる人達が、私達を貶めた者達と同じように成り下がるのを……そんな道を、私は信じたくない」

 だから、と、クラウディアはミラの目を真っ向から見返し、訴えるように言った。

「私は、私を助けてくれた人達を信じたい。あなた達も、ゼノヴィア様も含めて」

「つまり、人間に絆されたというわけですわね……呆れてしまいましたわ」

 クラウディアの答えに、ミラは失望したような眼をクラウディアに向けた。

「ハンスやカルロスから話は聞いていましたけれど……本当に甘くなってしまいましたのね、クララ。それ以上そんな戯言を口にするようなら――――」

 刹那、鞘走りの音が夜気の中に冷たく響き、月光を浴びた剣閃が閃いた。思わず身構えたクランツは、強い風が壁に衝突するような音を聞き、直後に眼前の地面にあった地を抉る鋭い斬撃の軌跡を見て、間一髪で自分が天意盤の反応障壁で命を拾ったことを知った。

「――私、本当にあなたを許すわけにはいかなくなりますわよ?」

 一閃を放ったミラは、青く光る剣先をクラウディアに向け、挑発するように言った。

「剣をお抜きなさい、クララ。今のあなたと交わして意味のある言葉は何もありませんわ。私を止めたいというのなら、私の骨を砕きなさい。あなたが私を止められなければ、その脇に控えている目障りなお子様を、あなたの傍から消してあげましょう。そうなれば――どうするべきか、わかりますわね?」

 ミラの言葉に、クラウディアは眼を閉じて開くと、後ろに控えていたクランツに言った。

「クランツ。隠れていてくれ。私に何かあった場合は、後を頼む」

「クラウディア、でも……」

「君は身を守ることに専念してくれ。これは私の戦いだ。決着は、私の手で付ける」

 言い残し、クラウディアはその腰に刷いた剣を抜いた。迷いの払われたその瞳に、対峙するミラは凄艶な笑みを浮かべ、鋭い目をクラウディアに向ける。

「やっとその気になってくれたようですわね。こちらも果たし甲斐がありますわ」

 そして、クラウディアに向けていた剣先を下げると、空いていた左手を天に上げ、

「とはいえ、さすがに墓前を荒らすのは忍びないので、用意しましょう――私達の闘技場を」

 パチン、と乾いた音を鳴らした。その手の先に集まっていた魔力が空気中に解放され、ミラとクラウディアを包み込む。光に包まれた二人の間に、青い光の円陣が、二人の入場を待つように現れた。イメージ通りの魔力の発現を確認したミラが言う。

「お乗りなさい、クララ。この円陣に乗れるのは、私の魔力の加護を受けた私達だけですわ。そちらのお子様には邪魔もできないので、ご安心なさいな」

「っ……お子様って……!」

 言い返そうとしたクランツは、ミラの向けてきた刃のような冷たく鋭い視線に思わず射竦められてしまう。その前で、クラウディアは一歩、円陣の方へと前に踏み出た。

「クランツ。私が帰ってくるまで、何かあったら町を頼む。私はミラと決着をつけてくる」

「クラウディア……」

 言い縋ろうとするクランツに、クラウディアは自信を与えるような笑みを見せた。

「大丈夫だ。私も、君を一人にする気はない。必ず決着をつけて帰ってくる。だから……頼む。今は君にしか頼めないことなんだ」

 クラウディアの信頼を示す言葉に、クランツは弱さを振り切り、彼女の瞳を見上げた。

「……わかりました。気を付けて、クラウディア」

 クランツの言葉に笑みを返すと、クラウディアは対面のミラに強い眼で向かい合った。

「ミラ……決着をつけよう」

「望むところですわ」

 言葉を交わし、クラウディアとミラは宙に浮かぶ円陣に足を踏み入れる。

 その瞬間、二人を乗せた円陣が光と共に消え去った。虚を突かれたクランツは咄嗟に周囲を見回し、やがて胸の奥に感じた何かの反応に導かれるように、その方向に目を向けた。

 青い月夜の上空――そこに、二人を乗せた円陣は移動していた。確かに、あんな位置では邪魔のしようがない。クランツは、彼女の運命が彼女自身の手に託されたことを悟った。

「クラウディア……どうか、無事で」

 クランツは天央に登った彼女に祈りを送り、見届ける覚悟を決めた。

 彼女の、分岐する道を決める戦いを、見届ける覚悟を。


 

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