第4話

第5章 工業都市エヴァンザ編 第4話(1)

 風玉ヴィントラを飴状に融かしたような微睡みの中、ルチアは遠い日の夢を見ていた。

 七年前、忙殺される町の窮状の中に命を亡くした母の最期の、儚くも優しかった笑顔。

 五年前、それに心を痛めたであろう兄が家を飛び出した時の、最後に見た背中。

 そしてそれらより以前の、何の変哲もなかった、忙しくも幸せだった日々の記憶まで。

 何よりも愛していたはずのそれらは、時のうねりの中にことごとく奪われてしまった。

(お母様……お父様……お兄様……!)

 どうして皆、私を置いて行ってしまうのですか。

 魂を衝くその想いが、ルチアの意識を覚醒させた。


「ん……」

 夢から覚めたルチアが最初に感じたのは、頬を撫でる優しい風の感触と、それに乗って運ばれる爽やかな花の香りだった。その香りは、ルチアの記憶を再び呼び起こすものだった。

 徐々に鮮明になっていく意識で、ルチアは色を取り戻し始める周囲の景色を認識する。

 硬質な鉛色の岩場の中、遠望にエヴァンザの街を見下ろせる高所。

「ここは……」

 天嶮・アムネシア山脈の麓の山道の半ばにある、霊脈の上に咲く花畑のある隠れた岩場。

 かつて、幼い日に兄に連れられて以来何度も通った、二人だけの秘密の場所。

 なぜ自分がここにいるのか、そう考えを巡らせようとしたその矢先、

「やあ、お目覚めだね。お嬢さん」

 兄に僅かに似た調子の、軽佻な声が聞こえた。

 ルチアが顔を向けるとそこには、草原に腰かけて風に揺れる青白い花を手の中で弄んでいる男がいた。意識を失う前、否、意識を失いここまで連れて来られた相手だと即座に認識したルチアが厳しい目で睨むのを横目で眺めながら、緑色の髪をした男は悠然と言った。

「安心してくれ。君に危害を加えるつもりはないよ。同じ血を流す者だしね」

「誘拐した相手に言われたところで、到底安心できる言葉ではないと思いますけれど」

 反射的に憎まれ口を返したルチアは、ふとその言葉に引っ掛かりを覚え、訊いていた。

「どういう意味ですの? あなたのような親類に覚えはありませんわ」

「いやあ、もっと大きな血筋のことさ。例えば、そう……君のお母様に流れていた血とかね」

 大河を眺めながら言うような男の言葉に、疑念を覚えたルチアの眦が険しくなる。

「まさか……魔女の血筋のことを仰ってますの?」

「やあ、ご名答。察しが良いね。さすがは公社長のご令嬢、聡くていらっしゃる」

 愉快気に言う男の言葉に、ルチアは警戒心を募らせる裏で、状況を分析し始めた。

 目の前で風を浴びるこの男が、自分をここに連れてきた下手人であることはまず間違いない。自分の身柄のみならず、今のエヴァンザや兄達が面している前後の状況を考えれば、その行動に関わる何らかの意図が働いていると考えるのは想像に難くなかった。

 だとすると、この男からはそれに関する情報を聞き出さなければならない。もしもエヴァンザの町に何らかの害を及ぼすつもりなら、せめてその目論見だけでも聞き出さなければ。

 そこまで思考を巡らせたルチアは、男の緩やかな視線に警戒を絶やさず、こう言った。

「何を企んでいるつもりか知りませんが……ともあれ、対等な会話をお望みのつもりなら、まずは名乗ってくださいな。一見、それほどの礼儀を心得ていない方にも見えませんわ」

「ふふ、そう思ってもらえているのは光栄だ。それじゃあ、改めて名乗ろうか」

 嬉しそうに小さく笑うと、男は慇懃に一礼し、風玉色に光る瞳を上げて、名乗った。

「《墜星メトゥス》十二使徒が一人、ジーク=ヴィントだ。お見知りおきを、お嬢様」

 凛々と瞳を光らせるジークに、ルチアはまずは軽く、最初の疑問をぶつけた。

「なぜ私の名前をご存知ですの?」

「君の名前は国家機密というわけでもないだろう?」

 しれっと返すジークに、ルチアは苛立ちを覚えながら、問いを重ねた。

「不躾な方ですのね。それよりも、私の名前を存じているということは、私の家がこの町の要職を務めている家系であるということも、当然ご存じなんでしょうね?」

「勿論だとも。それが、僕が君を攫った理由の、主たる一つでもあるからね」

「一つ?」

 ジークの物言いに引っ掛かりを覚えたルチアに、ジークは風を浴びながら言う。

「僕が君を攫った理由は主に三つ。一つ目と二つ目くらいは、まあ君にも想像がつくだろうし、君のお兄さんや付き添いの美人が推測しているだろう。だが、それらは君に関係しない。そういう意味で僕が君を連れて来た理由は一つ」

 そう言って、ジークは穏やかな風玉色の目で、ルチアを見た。

「僕は、君と話がしてみたかったんだよ。ルチア・コーバッツ嬢」

「え?」

 思いがけない言葉に、ルチアの心に空隙が生まれる。

「おや、頭に入らなかったかな。ではもう一度言おうか」

 突然のことに呆然とするルチアのその表情に、飄然と笑いながら、ジークはなおも言った。

「僕は、君と話がしてみたかったんだ。ルチア・コーバッツ。同じ魔女の血族に連なり、同じように、望まない形で母を……家族を亡くした身の上としてね」

 ジークのその言葉に、過去を思い起こさせられたルチアの心が微かに揺れる。

「貴方も……ご家族を?」

「まあね。もう十年以上も前、心無い者達に村を焼かれた。今は生き残った家族達とちょっとした計画を進めててね。この町に立ち寄ったのもその一環なんだ」

 ジークは、過ぎ去った日々を懐かしむような遠い目をして言いながら、ルチアに底の読めない目を向けてくる。それに油断のない眼を返しながら、ルチアは探るように言葉を選ぶ。

「これも、その計画の内の一つ、と解釈してよろしいんですの?」

「ふふ、聡いね。さすがはこの地の頭取を務める一族の末裔という所か」

 そんなルチアの様子を弄するような態度に、ルチアはなおも警戒を緩めずに追及した。

「軽口はおよしになって。第一、そんなことを聞いた所で、貴方にいったい何の得があると言いますの? 私と貴方には何の縁もゆかりもないはずでしょう。そんな私の個人的な話が貴方の計画の一助になるとは到底思えませんわ」

「そうだね。大した意味はないかもしれない。けど興味があるのさ。僕達と同じような境遇に育った僕ら以外の人間が、どんな感情を抱いているのかについてね」

 ルチアの推測に、ジークはさもありなんとばかりに言葉を返す。

「そして、あるいはそのこと自体に意味があると言ってもいい。僕達の感情が、同じ境遇に生きる者に共感されうるのか。あえて意味があるというのなら、そういうことになるかな」

「何ですって……?」

 意味深長な思惑に戸惑いを見せたルチアを目に、ジークは不敵に笑った。

「あまり深く考えなくてもいい。これは単に僕のちょっとした好奇心さ。あまり褒められた待遇じゃあないけれど、せっかく時間があるんだ。この王国の歪みに大切なものを奪われた者同士、少しお喋りでもしないかい? 悪い話じゃないと思うよ」

 軽い調子で誘うジークに、ルチアは緊張した表情の下で思考を巡らせる。

 どんな事情かは知らないが、この男がこの町を訪れ、自分を連れ去ったことに、何らかの思惑が働いていることは事実だ。それがこの町という場所に何らかの関係があるとしたら、町の運営の一端を担っている家の人間として、無視はできない。

 幸い、どうやらこの男は自分に対する必要以上の害意がないらしいことが、ここまでの言動と態度からわかる。ならば、相手が好意的な以上、自分の立場を利用できるかもしれない。

 今は、この男の思惑を探り、少しでも情報を聞き出すことで、兄様の役に立てるかもしれない。そう内心で企んだルチアは、緊張した様子を見せながら口を開いた。

「お兄様やお父様、エヴァンザの町に危害を加えないと約束してくださるのなら」

「おや、殊勝だね。自分の身の安全はいいのかい?」

 試すように言ってくる男の眼をキッと挑むように睨み返しながら、ルチアは言った。

「貴方に害意が見えれば、自分の身くらい自分で守りますわ。それに、必ずお兄様が助けに来てくださいますから。それまではお望み通り、少々お喋りにでも付き合ってあげますわ」

 ルチアがそこまで強気に出られたのは、この男にとって自分に利用価値があるということを理解していたからだった。そのことを読み取りながら、ジークは興気に笑んだ。

「ふふ、威勢が良いね。それじゃあ兄君が来るまで、少しお喋りしようか。僕達を傷付けてきたこの国の歴史の歪みと、今、そしてこれから見据えるべき僕達の真実について、ね」

 ジークの言葉と共に、談話の端緒を切るように、冷たい風が一筋、二人の間を吹き抜けた。

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