死者の心は-2

 思ってもみない言葉だったのだろう、正人は一瞬たじろいだ。


 「喜びますよ。勿論です。自分と同じ犠牲者を作らなかった。その事を褒めてくれると思います。」


 正人は、無邪気な子供のようににっこりと微笑んだ。


 想定外の反応に、保志の方がたじろぐ。

 自分と同じ犠牲者を作らなかった。それは、一体どういうことなのだろう。


 正人は、微笑みながら言葉を続けた。


 「僕はずっと、お母さんの死の瞬間を追体験し続けていました。あの日、帰らなかった僕を諦めて黒い紐を手にし、玄関を出る。脚立を物置から出してきて登り、紐を首に掛けて脚立を足で蹴る。その様子を繰り返し夢で見てきました。」


 保志は、絶句して正人の顔を凝視する。正人は、穏やかな凪のような表情で、淡々と言葉を紡ぎ出している。


 「間際のお母さんの心は、絶望と恨みで満ちあふれていて。死後の顔は、苦しみと悲しみで歪んでいました。その顔が、最近変わってきました。」


 微笑んだまま、正人が続ける。


 「心にあった苦しみから解放されて、最後はほっとしたのでは無いかと思うようになりました。命が消える瞬間の顔は、安堵の表情なんです。」


 仏のようだと、保志は思った。悟りを開いた仏のように、静かな笑みをたたえた正人が湯煙の向こうにいる。


 保志の唇が動く。

 やめろと、制止する自分がいる。しかし、唇が勝手に動く。


 「死者の心は、変わるのやろうか。」


 保志はそう、呟いた。


 「死ぬ間際の気持ちと時間が経った今、死者の気持ちが変わっている。そんなことがあるんやろうか。」


 正人は目を閉じて、首を横に振った。

 「……分かりません。」


 すがるように伸ばした手を、受け止めてくれなかった。そんな絶望感に襲われる。


 「でも、自分の夢の中でお母さんの心が変わり、最後の表情が変わったのは、自分の心のありようが変わったからでは無いかと思っています。僕はどこかで、お母さんに恨まれていたのでは無いかと恐れていました。でも今は、お母さんは最後の瞬間まで、掛け値無い愛を与えてくれたと信じることが出来ます。」


 その答えを、保志は上の空で聞いていた。


 求めていた答えとは、違う。自分の心は、変わらないのだから。


 ――そもそも、何を求めたというのだろう。正人に、何を。


 「……やっさん。」


 正人に名を呼ばれ、我に返る。湯気の向こうで正人は、じっとこちらを見つめていた。


 「やっさんの心にある悲しみは、何ですか?」


 その言葉は、保志の心を射貫いた。露天風呂の庇を支える柱がぐらりと揺れたように見えた。自分のせいで湯の面が波打っている。そう錯覚するほど鼓動が高鳴る。


息苦しさに、顎で息をする。


 ハイテシマエバラクニナルノニ。


 心のどこかでささやく声がした。


 保志は立ち上がった。

 サバンと湯が大きな音を立てる。屈強な身体から限りなく透明な茶褐色の水滴が落ちる。


 「のぼせた。先、上がるわ。」


 楽になるつもりなぞ、毛頭無い。

 ささやき声につばを吐き、ザバザバと湯の中を歩いて行く。

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