チャプター2 「過去の僕」

 端的に言おう。僕は昔からなんでもできる子を演じ続けてきた。成績も優秀、部活も一生懸命、友達関係も“表面上は”完璧、家事も必死にこなしていた。そんな子供だった。僕には姉がいた。趣味こそ合わないものの喧嘩もしない。帰ってきたときには深夜2時3時まで語り続けるような、僕にとっては家族の中で一番信頼できるような存在である。僕が中学2年生の頃そんな姉が両親から進路関係とか部活関連で難癖付けられているのをみて「僕はしっかりしなければ」「僕は将来安泰な職業に就こう」と思うことがほとんどだった。だからこそ高専という就職率の高い高校になんとなく入ったし将来が見越せているかのようなフリをしていた。でも実際は違った。僕は低体重で昔から男子には「もやし」女子からは「痩せていて羨ましい」と言われ続け、いじられ続けてきた。それなのに今は摂食障害である「神経性やせ症」を発症しかけているのだから驚きだ。(笑)実際高専に入った理由。それは「認められたいから」である。僕は極度の承認欲求によって動いていた。「このたくさんの仕事をすれば褒められる」「テストで高得点取ればきっと褒められる」「どんなにいじられても努力さえすれば褒めてもらえる」そうやって生きてきた。どんなにいじられても蔑まれても、そうやって生きてきた。でも違った。

 僕には「次はもっと頑張りなさい」「もっと高い点数期待しているよ」という残酷な現実を突きつけられた。この時点で気づいていたのかもしれない。「どれだけ頑張っても僕の頑張りは、努力は報われない」ということに。だからこそ見返してやりたい。という僕の意地からくる高専の入学であったり推薦入試だったのかもしれない。

そうして始まった高専生活。ある意味僕にとっては刺激的な1年だった。まず不安と希望に満ち溢れた4月。自己紹介も完璧。担任は皆の自己紹介についていちゃもんをつけていたが(笑)勉強もまだついていける。寮生活は先輩の怒号が飛び交う中ではあったが何とか過ごしていた。5月。初めての遠隔授業。「全くやる気が起きない、もう何もやる気が出ない。」授業前、同室がいなくなってから自慰行為をしたのもいい思い出といえるだろう。その時期は彼氏恋人も言える人も居なく、ずっとネット上に転がっていた幼い少年の動画で抜いていたのを覚えている。(今となっては恥ずかしい話だが)6月。特に何もなくいつもの日々が流れた。憂鬱な日々が続く。毎日指導寮生に怒られる日々。頭が滅入ってくる頃だ。中間テストの結果も散々だった。親には「赤点とはなんだ」と聞かれ「凡ミスだよ」と虚言をついた。本当はただ勉強をさぼっていただけなのに。ゴールデンウィークも明け、戻ることに抵抗を感じていたのは鮮明に覚えている。7月。夏休みまであと一ケ月。そうすることでどうにか気持ちを保っていたような気がする。でもこのあたりから僕の精神は限界を迎え始めていたのかもしれない。今思い返してみてそう思う。

8月。夏休み真只中。特に何ということもなく過ごしていた。課題を一日数ページやるだけ、それ以外はゲーム三昧していた気がする。9月から違和感を覚え始めたのは確かだ。だが気になるほどではなかった。10月。ここからが僕の全盛期と言えよう。寮に戻る不安と成績不振からくる不安、その他諸々が身体症状として出始めたのだ。抑うつ、不安、空虚など精神症状が出始めたのだ。それに加えて摂食行動をすれば襲ってくる吐き気。そこで出会ったのが今の「彼」である。旧知の仲ではあったが途中で仲違いがあったため、まだ信用できない人物であることは確かだった。僕が一方的に仲を切ってしまったという罪悪感と、「他人を傷つけてしまった」という自分への罪悪感。それは現在の僕でも消えることはない。一生ものの心の傷。自分が受けてみないとわからなかった。

 本人は「赦している」とは言っているが僕は許されるべきでないことをしたと思っている。そういえば過去にも簡単に他人を傷つけてしまったと思う場面がたくさんあった。自分が傷つかないと人間は理解も学習もしないのだと心の底から思った瞬間であった。何より「なんで加害者の君が泣いているの?」その言葉が耳から離れなかった。そう。僕は加害者。被害者面なんてしてはいけない。そう思うようになった、それからは自責の波。「すべて自分が悪い」「自分のせいだ」そう思うような人間になっていた。いま思えばこれが“他人の痛みを知る”ということだったのかもしれない。今までの僕に足りなかったもの。それは「他人の痛みや辛さを知る」ということだった。奇しくも教えてくれたのは彼で間違いないだろう。彼には感謝してもしきれない存在であることは確かだ。もしみているなら「本当に有難う。」それを伝えたい。11月。また地獄の寮生活が始まった。前期よりはマシだったがそれでもツラいのは変わらなかった。独りの時間が取れないこと。それを理解してくれない親。すべてが嫌になった。自殺してやろうとも考えた。目の前にあるのは「レスタミンコーワ錠」240錠。「これを全部飲めば楽になれる」そう思いながら僕の11月が過ぎていった。

11月26日。全てが狂った日でもあり救われた日でもあった。その日はテスト数日前でみんな焦っていた。この日は同時に「テストが終わったら自殺しよう」と明確に決めていたそんな日だった。そんな中僕の焦りや思いなど知らずに突然告げられた、「休学の報告」。

僕は衝撃と悔しさそして何より怒りを隠せずにいた。「今まで完璧だったのに」「僕の人生はレール通りだったのに」そう思っていた。休めるという安息の思いとすべてが狂ったという今にも発狂しそうな気持ちの対峙に脳の処理が間に合わずにいた。正直親と顔を合わせるのも不安で気を張り詰めた。「なんて言われるんだろう」「どう思われているんだろう」「出来の悪い子でごめんなさい」そんなキモチがぐるぐる回ってどうしようもなかった。前日は少しだけ多めに睡眠薬を飲んで強制的に寝入ったのを覚えている。ただ一つお父さんとお母さんに言えること。それは「最後まで出来の悪い子でごめんなさい。」この一言に尽きると僕は思う。12月。僕は高専のクラスメートが学校祭を催している中、一日中スマホを触り、体たらくな日々を過ごしていた。「今頃ピタゴラスイッチ(学校祭祭の出し物)が評価されているんだろうな」とか「学校祭で楽しくワイワイやってるんだろうな」とか。自分が時間に置き去りにされたような感じがして虚しくなったのを今でも鮮明に思い出す。

12月の末。担任が実家に訪れてこう言った「自傷は悪いと思っているだけではダメ。」「持病持ちの人はみんなそれぞれ薬やそのほかの方法で症状を抑制しているぞ。」「自傷行為が止まっていないなら帰寮は無理だ。休学を伸ばして留年しろ。」と。つまりそれはアルコール依存症の患者にアルコールをやめれるようになるまで帰ってくるなというのと同じような、キツい宣告であった。精神症状なんていつ現れるかわからない。なのに「薬でどうにかしろなんて無知すぎやしないか?」と、カミついてやろうとも考えたが両親もいるしどうにか気持ちを押し殺した。話は戻るがそれを聞いた後僕は泣き叫んで何度も自分を殴った。「畜生、、、なんで…」だが自業自得である。自傷行為をやめられなかった僕の責任である。だからこの判断に今更異論を唱えるつもりはない。そうして暗い気持ちのまま2021年が幕を閉じることになる。

年越しもあって1月。独立して、帰省していた姉にざっくり事情を話した。自傷行為をしていること。本気で死のうと思ったこと。処方薬のこと。それ以外にもたくさん吐いた。でも姉ちゃんは反論することなくただ僕の話を聞いてくれた。震えの止まらない僕の全身を姉ちゃんは、背中をさすりながら聞いてくれた。感謝している。してもしきれないくらいに。この時の別れは少し僕にとってはかなりつらかったのかもしれない。

そして2月。いつもの日々が流れていく。家事をこなしながら。礼を言われるでもなく。さも当たり前のように。実家にいるというのに全く休めていなかったのかもしれない。主治医に入院の話を切り出そうか迷ったくらいだ。そこで紹介されたのが今の病院。とある精神科特化病院(ここではA病院(仮称)とする)だ。

「ここではカウンセリングも心理検査もやっている。大体どんな患者も断らない」そう言われて僕は数週間考えた。「ここに行くことで何か変わるのか?」「心理検査ってなんだ?」「ここにいけば楽になるかも」「でも交通費と医療費がな…」そんな葛藤を抱えついに結論が出た。

「俺はA病院ならカウンセリングも受けられるしここならよくなるかもしれない」そんな希望を抱いて親に告げた。それと同時に「自傷行為はもう止まってるよ。だから下宿に入って留年してもう一回高専に通おうと思う。」という虚言とともに。今まで通っていた主治医から紹介状と一か月分の薬を貰い、あとは予約状況がどうなるかを見届けるだけだった。幸いにも3月の中旬には受診出来るということで運がよかったのかもしれない。普通の精神科なら2,3か月待ちは当たり前なのだそう。そうして3月。僕は初めて本格的な精神科に行くこととなった。今までの病院は精神科に特化していない総合病院の精神科だったからだ。カウンセリングルームに呼ばれ、今までの事柄を話した。こうなった引き金は?家族の精神科通院歴は?的なことを聞かれたのを覚えている。「ほかに伝えておきたいことはありますか?」と聞かれたとき、母親がいるということもあって本当は言いたいのに言えないもどかしさを抱えていた。そのあとは簡易的なスクリーニングテスト(GHQ30というマーク型のテスト的な奴)を受けて診察に入ったわけだが、現在の主治医が少し高圧的に感じたのを今でも覚えている。最近の通院ではそんなことはないのだが。

そんなわけで通院を続けていったのだが僕が過ごしていく中で感じた違和感。それが「自閉スペクトラム症」いわゆる発達障害だ。通院二回目かそれくらいに主治医に相談したら「幼少期から特徴がなければ診断を下すのは難しいが、これはグラデーション的なもので、ないともあるとも言えない。」そんな答えだった。「ただコミュ障なだけか…」そうやって一人決まったわけでもないのに落ち込んでいた。今でもWAIS-Ⅳを受けたいと思う自分もいるが、これ以上病名を増やしても甘えるだけなのでやめておく。

 こんな感じで僕の過去をつらつら並べてきたがどうだろうか。これを読む大半の人は「病名欲しいだけだったのかよ(失笑)」とか「甘えんな」とか思うかもしれない。実際そうだ。僕は病名が欲しかった。そうすれば何かに守られている感じがして安心できると思ったからだ。

ここらへんで「過去の僕」は終わっておこう。

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