1-11 三回目
「藤堂さん、どうしたの? もしかして具合が悪い?」
心配そうな声とともに体が揺り起こされる。千春はかすかに痛む頭を抑えながらゆっくりと目を見開いた。
視界に入ったのは瀬川だった。中学の制服に身を包んだ瀬川が眉を下げ、千春を見下ろしている。千春の顔を確認するとほっとした顔をし、千春の肩においていた手を慌てた様子で引っ込めた。
「えっと、その、藤堂さん、机につっぷしてたから、もしかして具合悪くて動けないのかなって思って」
しどろもどろにそういって瀬川は両手を振った。頬がかすかに赤い。焦った様子に千春は違和感を覚えるが、それよりも自分が教室にいることが不思議だった。
「……私、階段にいたはずじゃ……」
「藤堂さん、俺が忘れ物とりにきたらここで寝てたんだよ」
瀬川が不思議そうな顔をする。忘れ物として示したのは机の上に置かれたプリント。瀬川が教室にとりにいくといったものだ。
「俺、今日の日直だったんだけどさ、もう一人の日直に頼まれてたプリント忘れて日誌だけもって職員室いっちゃって。もう一回行かなきゃいけないんだよね。ドジだよなあ」
アハハと瀬川が笑う。困ったような表情は人なつっこいが、どことなく距離があるように思えた。まるで初めて千春に話しかけた時のようだ。
それに瀬川の話は千春の記憶とは違っている。瀬川は職員室に行く前にプリントを忘れたことに気づいて教室に戻ったはずだ。それから戻ってきて、森田に階段から落とされた千春とそれを助けてくれたクティを目撃した。
「クティさんと森田さんは?」
千春は立ち上がり周囲を見渡す。そこはいつもと変わらない教室。手に持っていた鞄はなぜか机の脇にかけられている。まるで、瀬川が言うとおりずっとここで寝ていたみたいに。
「クティ……さん? 外国の人?」
瀬川が目を丸くした。その反応に千春は固まった。
「瀬川くん、昨日一緒に会ったよね」
「一緒に? 藤堂さんと?」
瀬川が眉を寄せる。首をかしげて考え込む瀬川を見て千春は言葉が出てこない。これが演技だとは思えない。瀬川は嘘をつくのが得意な人間ではないし、こんな悪趣味なドッキリを仕掛けるような人間でもない。短い付き合いでもそのくらいのことは千春にだって分かる。
「さっきだって、森田さんと一緒に……」
「森田さん?」
瀬川は困った顔で千春を見つめた。
「ごめん、どっちも知らない。藤堂さん、もしかして寝ぼけてる?」
千春は目を見開いて瀬川を凝視した。戸惑った顔で瀬川が千春を見つめ返す。やはりそこに嘘は見当たらない。
「うちのクラスに森田って人は……」
「いないよ」
恐る恐る聞いた問いに瀬川はあっさり答えた。なんでそんなことを聞くんだろうという顔に千春は確信する。森田という人間は最初からうちのクラスにはいないことになった。
「……ごめんね、私、駅にいかなくちゃ」
机の横にかけてあった鞄をつかむと千春は走り出した。後ろから瀬川の焦った声が聞こえたが無視した。早く行かなければ。早くクティに会わなければ。そんな衝動で体が動く。体力がない千春が駅まで走り続けられるはずがない。そんなこと考えれば分かることなのに、行かなきゃという感情に支配されて千春はただ必死に足を動かした。
森田という女子生徒はうちのクラスに存在しない。
だから瀬川と千波に助けてもらったこともなくなり、二人と駅前に向かった事実も消えた。瀬川はクティと出会っていない。千春と話したのも先ほどの会話が初めてということになっている。
信じられないことが起こっている。こんなことあり得ない。そう思う部分もあるのに、千春はこれが現実に起こりうる現象であると受け入れている。クティが関われば過去と未来が変わることもある。そう千春は記憶がないはずなのに心で理解している。
クティを問いたださなければいけない。その一心で千春は走った。息が切れて膝が震えて、何度も立ち止まっても、それでも駅に行かなければならないと足を動かした。クティがそこにいる保証はないのに、千春の心は行けという。
クティはよく駅前で人を眺めていたからと。
ふらふらになりながら駅にたどり着いたとき、昨日と同じくクティは花壇に腰掛けて人を眺めていた。ぼんやりと行き交う人を眺めている横顔は気が抜けている。珍しい顔だと千春は思う。昨日会ったばかりなのに、ずいぶん昔から知っているような気がする。それをもう疑問には思わない。千春には確信があった。覚えていないだけで、自分はクティとずっと一緒にいたのだ。
「クティさん!!」
ありったけの声で叫ぶ。駅前を歩いていた人がぎょっとした顔で千春を見た。そんなのお構いなしに千春は進む。信じられないという顔で千春を見つめるクティの元へと息を整えながら歩いて行く。
「なんでお前……」
「覚えてます」
クティが聞こうとしたことを先んじて答えるとクティは黙り込んだ。いつも自信満々の瞳が揺れている。不安定なその瞳を見ていると大丈夫と手を握りしめてあげたくなった。
「よくわからないけど、覚えてるんです。クティさんのことも知らないはずなのに、昨日あったばかりのはずなのに覚えてるんです」
千春の言葉にクティは顔を伏せ、額をおさえる。「マジかよ……」というつぶやきが聞こえる。その覚えていてほしくなかったという態度に千春は腹が立った。
「クティさん、私とあなたは昨日がはじめましてじゃないですよね」
千春の問いにクティは答えない。顔もあげない。答えたくないと全身から告げていた。都合の悪いことを問いただされてなんとか誤魔化そうとする子供のようだ。
「答えなくても私は確信しました。私とクティさんは前に会ったことがある。それをクティさんはなかったことにしましたね」
理屈は分からない。それでも出来るという確信があった。森田の存在が消えたこともそうだし、今まで感じてきた違和感の正体も納得がいく。到底信じられないような現実離れした結論でも、千春はそれが正解だと思った。それが正解であってほしかった。
「……申し訳ないけど、意味分からない妄想話に付き合わされるほど俺は暇じゃ……」
「クティさんのせいで初めて出来た友達に忘れられました」
往生際悪く誤魔化そうとしたクティの言葉を遮る。クティは顔を上げて千春の顔を凝視した。そんなことになるとは思っていなかったという反応。その後、しくじったという顔で舌打ちをするクティを見て、千春はクティの隣に腰を下ろす。
クティが身じろぎする。逃げたいという空気が伝わってきたのでクティの服の裾をつかんだ。本気で抵抗すれば千春を振り切って逃げることは出来るだろうが、それでもクティはそうしない。それに千春はほっとした。
「初めて一緒に帰って、休憩時間もお話できる友達だったのに……」
ぎゅっと服の裾をつかむ手に力を込めるとクティが居心地悪そうな顔をする。しばし空中をにらみつけていたクティはやがて大きなため息をついた。
「……責任とって友達になってくれって?」
「友達はいいです」
きっぱり断るとクティがなんともいえない顔をした。どことなく傷ついたようにみえて申し訳なくなったが、クティと友達になりたいわけではない。なにになりたいかと言われると、それも答えに困るのだが。
「でも、側にはいてください。また会ってください。定期的に。出来れば毎日」
「おい。要求がどんどんエスカレートしてるぞ」
眉をつり上げるクティを見て千春はなぜか温かい気持ちになる。覚えてないけれど、過去にもこんなやりとりをしたことがあるような気がする。それはなんとも不思議な感覚だ。
「クティさんがいないとお腹がすくんです」
千春はそういいながら自分のお腹をなでた。クティと会うまで早く早くとせかし続けていたお腹が今は収まっている。なにも食べていないのに。満足だと千春の体はいっている。
「私に足りなかったのは食べ物じゃなくて、クティさんだったみたいです」
クティの目が見開かれた。千春はそれに笑いかける。目の前でクティの表情が変わる。それを見ていられるだけで満足だった。
「私をこんな体にした責任とってください」
「……その言い方やめろ。捕まる」
「いいって言ってくれないと大声で叫びます」
「脅しじゃねえか」
大きなため息をつくクティを千春はただ眺めていた。本気で逃げようと思えばクティは逃げられるはずだ。原理は分からないが、急に学校に現れ消えてみせたのだから。
それでも逃げないのなら答えは決まっている。
「……仕方ねえ。その変な体質治るまでは側にいてやる」
クティはいかにも面倒くさいという口調でそういった。しかしその目は優しくて、千春からそらされない。きゅうっとお腹がうずく。これは空腹ではない。満腹だと千春の体がいっている。
これが千春とクティの三回目の出会いである。
「第一幕 席に着く」 終
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