第8話 願い

 それは、僕がまだ小さかった、遠い昔のこと。

 父さんも母さんも忙しかったから、保育園に僕を迎えに来るのはばあちゃんの仕事だった。

 夕暮れの明かりが灯る地下の町を、手を繋いで歩く。

 ――ねぇ、どうして夕方には影が長くなるの?

 ――明かりが斜めに差しているからね。

 そんな会話をしながら帰った。

 ばあちゃんは僕には何も言わなったけれど、母さんには本音を漏らすこともあった。

 休日の午後、昼寝から覚め掛かった僕の額を撫でながら、ばあちゃんは言った。

「私が子供の頃はみんな地上に住んでいた。昼には太陽が照り、夜には月や星が出て、時には雲が湧いたり雨が降ったりした。風が吹いて、葉っぱがかさかさ鳴った。この子にも、そんな世界を見せてあげたかった。そんな世界で、育って欲しかった。奇月なんてすぐに取り払われると思っていたけれど、気が付けば何十年も経ってしまった。私ももう一度でいいから地上へ行ってみたかった。でも、叶わないかもしれないねぇ」

 夢現でぼんやりと聞いたその言葉が、今でもはっきりと頭に残っていた。

 僕はその頃から両親の本を捲り、天体写真を眺めていた。

 新しい言葉を知ると喜びが湧き、知らない概念に触れると感動した。

 地上へ出てみたい。地上へ出て、天体写真で見た月の輝きをこの目で見てみたい。叶うならば、このプセマローゼ島の地上で――。心の底で、そう思い続けていた。

 奇月は今でも空に掛かっている。

 ばあちゃんはあの時の言葉通り、願いを叶えないまま、じいちゃんと共に息を引き取ってしまった。

 プセマローゼの人たちは、これからもずっと地下で暮らすんだろうか。もう二度と、地上で暮らすことはないのだろうか。

 ばあちゃんがいなくなっても、時々、手のぬくもりを感じた。

 もし、僕が本当に地上に行くようなことがあったら、ばあちゃんは喜んでくれるだろうか。

 大陸には奇月なんてない。毒の恐怖もない。空を見ることも風を感じることも、普通のことなのだ。

 僕たちの知らない『普通』が、大陸にはある。

 本当はこの島にだって、あったはずなのに。

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