Dice roll; Advent of Monsters

 箱の中は嫌だ。

 一人のときは、特に。


 受験も間近となると、塾の帰りも遅くなる。

 補導されるのがギリギリの時間で帰されて、そこからさらに電車で二十分。夜も深まる頃合い、都会でもないこの街で電車の乗客はゼロに近い。菜奈香ななかのショルダーバックのベルトを握る手は固く、青白くなっていた。

 金切り音を立てて、せた深緑色の電車が停まる。

 古ぼけた蛍光灯が照らし出す車内。灰色の布のシートはガラガラだったが、たった一人だけ客がいた。ほう、と息を吐いて、扉のすぐ隣の席に浅く腰かける。


『ドアが閉まります。ご注意ください』


 女声のアナウンスともに扉が閉まり、列車が動き出した。カタン、カタン、と眠くなる音を立てて、電車が揺れる。

 もう一人の乗客は、女だった。二十代くらいか。長身で背中をピンと立てて座っている。長い黒髪。黒いシャツに白いジャケット。胸は大きく、身体はすらりとした印象。黒い革のパンツの脚を組み、ヒールの付いたブーツを履いている。

 雰囲気のある美女だった。睨むように向かいの窓をみやり、ピクリとも動かない。カッコいい、と密かに憧れる。これだけ凛々しく堂々とした立ち居振る舞い。きっとどんな男性も恐れをなして声を掛けることなどできはしまい――。


 電車の走行音が変わる。風を切る音が大きくなる。トンネルに入ったのだ。怪物の唸り声のような音に身をすくめた菜奈香は、視界の端に突如現れたものを察知して身体を強張らせた。ショルダーバックのベルトを掴んだ拳が固くなる。顔からは血の気が引いた。


 見られている。


 菜奈香は気づいていた。自分の右側。別の車両と行き来する扉の前に立ちはだかるようにあるそれが、八の視線でこちらを舐めるように観察している。

 菜奈香は、後悔すると分かっていて、少しだけ視線を右にずらした。すぐさまその正体を把握する。まるで蜘蛛の巣のように貼り付いたピンク色の肉塊。挽肉を丸めて適当にくっつけて形容し難い形に仕上がったその表面に浮かぶ八つの目玉。不規則に並べられたそれは、肉塊の上をバラバラに滑りながら、真っ直ぐに菜奈香に黒い瞳孔を向けている。

 口の中が干上がった。電車の扉の上にある電光掲示板に救いを求める。次の停車駅が表示されているが、菜奈香の目的地にはまだ遠い。降りようか。頭を過ぎった。でも、次の電車はもうない。帰れなくなる。親を呼ぶとして、なんと言い訳しよう。思い浮かばない。その間にも八つの熱視線が菜奈香の身体を這う。おぞましい。気持ち悪い。吐き気が込み上げる。口元を抑え身を震わせた菜奈香を見て、口のない化け物がニタリと笑った――。


 カツン、と。

 電車の床が鳴る。


 直ぐ側に差した影に顔をあげると、いつの間にかもう一人の乗客が目の前に立っていた。長い黒髪を右手で払い、仁王立ちして、電車の進行方向に背を向けている。

 顔を上げたまま、菜奈香はしばし呆けた。女の凄みのある美しさもそうだが、まるで自分を守る騎士のような頼もしさをその女から感じた。

 だが、彼女にが見えるはずがない。

 アレはいつも、菜奈香が独りのときに現れる。学校の教室、塾の教室。自宅のリビング。他の誰かが居るときはどこかに身を潜め、菜奈香が独りになった途端にぬるりと姿を現す。逆に、誰かが現れると姿を消す。ずっとそうだった。もう一月も前から――。


「これはまた、ずいぶんと趣味が悪いわね」


 女が朱唇から言葉を溢す。菜奈香は目を瞠った。恐る恐る目を向けてみれば、アレはまだそこに居た。気味の悪い視線を菜奈香に投げかけて。


「ど……して」


 ないまぜになる安堵と絶望。自分の幻覚でなかったソレに憮然ぶぜんとする菜奈香に、女はパープルのカラーコンタクトの入った瞳を向けた。


「こんなもの飼っているなんて、人は見かけに寄らないって言うけれど」

「か、飼ってない!」


 思いも寄らない誤解に、菜奈香はすぐさま声を上げた。飼っているなんて、まるで好き好んで一緒にいるみたいな言い方、はなはだ不本意だ。


「飼っているでしょ?」


 だが、女は菜奈香を否定する。腰に手を当て、身を屈めて菜奈香の眼を覗き込む。不自然なパープルアイに怯える自分の顔が映った。


「無意識だろうけど。だってアレは――あなたの妄想、トラウマ、心の闇。その類のものだから」


 菜奈香の脳裏に、ある場面が過る。

 学校の屋上で、菜奈香を囲む女子生徒たち。菜奈香をフェンスに追いやって、落ちろ落ちろ、と手拍子付きで嘲笑混じりに言葉を投げかけている。

 嫌で、けれど怖くて、フェンスにしがみついて必死に耐え続けた。

 そんなとき、心の奥であぶくを浮かせた妄想。


 ――お前らが墜ちろ。


 頭の中で彼女たちを突き落とし、肉塊になったさまを思い浮かべて、健気にそしりに耐える自分を慰撫していた。


 菜奈香はそろりと視線を動かし、化け物を見た。

 アレが自分の心の闇だというならば――なんとおぞましいものを抱えているのだろう。

 己の醜さに、菜奈香は身震いした。


「まあ、気にすることないわ。単にめぐりが悪かっただけだもの」


 菜奈香の本性を暴いた女は身を起こし、なんでもないことのように言う。持ち上げた右手。軽く握った拳を左右に動かした。


「普通、こんな風に具現化したりしないわよ。たまたま悪いモノが溜まったところでくだらない妄想したものだから、悪いモノが面白がってこぞって集って、あなたに付き纏っただけ」


 いまいち飲み込めなかったが、何となく自分が学校の屋上で、黒いオタマジャクシのようなものに取り憑かれる光景を思い浮かべた。


「まあ、そんな感じかな」

「……え?」


 まるで菜奈香の心の中を覗き込んだかのようなことを言う。

 その間にも女は右手を振っていた。それが手の中にある物を転がしている動作だと気付いたのは、少し後。女が自分を安心させるように、にやりと笑ったときだった。


「安心して。おねえさんが退治してあげる」


 呆然とした菜奈香に背を向けて、ブーツの脚を肩幅に開く。化け物に見せつけるかのように右手を大きく振ると、それを下から放り投げた。

 古ぼけた蛍光灯の下で、目玉くらいの大きさの青い光が放物線を描き、小さな音を立てて床に落ちる。


「……4、ね。まあいいわ」


 それは、青の硝子で作られた十面体だった。0から9までの白い数字が刻まれている十面賽子ダイス

 密かに魔法的な何かを期待していた菜奈香は愕然とした。化け物にサイコロなんかぶつけて、この女、いったいどうしようというのか。

 菜奈香には、女の口元に浮かんだ笑みが見えていなかった。

 かつん、とブーツのヒールが鳴る。


「出てきなさい」


 女の声に呼応して、賽の面から煙玉のように黒いもやが噴き出した。菜奈香が呆気に取られている目の前で、天井まで届きつつある靄は徐々に人のような形を作っていった。

 呆けた思考が再び活動しはじめる頃、その靄は、白い仮面を付けた黒い人型に成り変わる。仮面に空いた穴は四つ。それぞれから瞳孔の細長い黄色の目玉が覗き込んでいる。

 黒い影は、右手に自分の身長ほどもある黒い棘のような槍を逆手に掲げて立っていた。


「さあ。……行け」


 女の声とともに黒い影が前へ飛び出す。蜘蛛の巣のように張りめぐらされた肉塊に蛙のように飛びつくと、右手の槍で、ぐさぐさ、と肉塊を幾重にも突き刺し始めた。

 刺された傷口から噴水のように血が吹き出て、地面を汚す。

 菜奈香は口元を押さえて視線を逸した。スプラッタに慣れない少女には、あまりに衝撃的な光景だった。

 串刺しの音はしばらく続き、次第に何かを引き千切る音が混じり始めた。咀嚼そしゃくする音も。

 何が起きているのか、想像するまでもない。


 菜奈香は、音が止むまで、視線を床に落としたまま耐えた。


「終わったわよ」


 カツン、とブーツの踵が鳴った。菜奈香は顔を上げる。いつの間に拾ったのだろう、パープルアイの女が口元の辺りで、十面賽子を弄んでいた。

 菜奈香は恐る恐る視線を動かす。隣の車両につながる扉の付近。そこにはもう、何もなかった。ただ、捕まる者のない吊り革が、列車の振動で揺れるのみ。

 それでも、危機は去ったと手放しで喜べないのは何故だろう。


「あ、の……ありがとう……」


 それでもお礼だけは、と喉に張り付くような声を出して視線を上げた菜奈香は、女の口元に浮かぶ微笑に凍りついた。口の端に、赤いものがちらついた気がしたからだ。


「どういたしまして」


 女は長い黒髪を払って応じた。

 口紅だ。菜奈香はそう思うことにした。

 それでも、早くこのひとから離れたい、と菜奈香は思った。


『まもなく終点――』


 折よくアナウンスが入る。なにとなしに音の方へと視線を向ける菜奈香。ほ、と息を吐いたことに気づいたのか否か。


「どうやら、目的地に着いたみたいね」


 菜奈香と同じようにスピーカーを見上げていた女は、カツカツと音を立てながら、ドア付近に歩み寄る。銀色のバーを片手で握りしめ、減速する電車の扉が開くのを待っているようだった。

 一方、菜奈香は座席に座ったまま、鞄を握りしめ縮こまっていた。早く着くことを祈りながら。そうすればこのひとは、すぐに下車してくれるだろう。

 耳障りな金属音を立てて、電車が止まる。空気が噴き出すような音とともに、扉が開かれた。


「それじゃあね」


 女は紫の視線を一瞬だけ寄越し、菜奈香に手を振って電車を降りていった。蛍光灯に照らされたホーム。ヒールの音が遠のいていく。

 ほぅ、と菜奈香は息を吐き出した。助けてもらった立場で申し訳ないが、彼女にはあまり関わりたくないと感じたのだ。今回はたまたま菜奈香は助けてもらえたが――おそらく彼女はな人間ではない。


「……でも、私も」


 あんな化け物を創り出してしまうあたり、まともではないのかもしれない。

 嫌な想像を振り払い、菜奈香は電車を降りた。

 背後で電車の扉が閉じた。

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