遅筆作家の即興小説練習帖

森陰五十鈴

独自即興

レイディアント・アーク

 地面に突き立てた剣の先で、白い花びらが散っていった。

 膝を付き、剣にしがみつくようにして身体を支え、アディルは粗い息を調えようと、二度三度と深呼吸する。

 背を飾った青のマントが、アディルの華奢な身体にのしかかるように纏わり付いている。

 銀の軍靴は、力ない少年の震える足を地面に縫い付ける。

 襲い来る疲労感に、なけなしの気力で抗うアディルは、首をもたげて空を見上げた。銀の髪がさらりと流れる。紺碧の瞳が映すのは、星も消えた闇の天蓋。

 ようやく落ち着いた呼吸の中に、ふ、と失笑が混じる。

 身体が傾ぐ。

 支えにしていた剣から手が離れ、軍服姿の少年は、大地の上に横倒しになった。一面に咲く白い花。あるものは花びらを舞い上げ、あるものはアディルの下に潰れていく。哀れでか細い命を憂える余裕もなく、彼は己の指先を朦朧とする意識の中で見つめ続けていた。


 そこに、少女の姿があった。

 広がる黒髪。白い相貌。赤い唇は緩く結ばれて、長いまつげが縁取る眼は閉じられている。折れてしまいそうな細い首の下には、やはり折れてしまいそうな細い身体があって、あどけない顔に似合わない、黒のドレスで飾られていた。

 穏やかな眠りの表情。顔の真横に突き立てられた剣など気にも留めやしない。そんな彼女が暢気に思えて、アディルは頬を少しだけ緩ませる。


「……馬鹿なやつ」


 かすれ声が、眼前の小さな花を揺らした。


「黙っていれば、こんなことにはならなかったのに」


 アディルの表情が引き攣ったような笑みを作る。

 黒い手袋を嵌めた手に痺れを感じた。五指がぴくりと蠢いて、握ろうとしては諦めるのを繰り返す。その手がつい先程齎した所業を思い出し、喉に熱いものが込み上げてきたのを覚えた少年は、固く瞼を閉じた。

 強く息を吐く。片方の手を持ち上げて、額の上に置く。嗚咽は無理やり飲み込んで、ただじっと胸中の嵐が過ぎ去るのを待った。


 ――ふと、頬に何かが触れた。


 アディルは紺碧の目を見開く。真っ黒だった闇空が淡くなっている。紺色、藍色、緑に水色――端にいくほど白んでいき、地平は赤く染まっていた。

 アディルは身を起こした。果てしなく広がる平原の向こうから、朝の気配が押し寄せてくる。風がアディルの銀の髪を揺らし、足元の白く小さな花々を揺らして、誰かを急き立てるように通り過ぎていった。

 刻一刻と変わりゆく空に、しばらくのあいだ見惚れて。


「見ろよ、フィーネ」


 隣でまだ横たわる少女に、そっと声をかけた。


「世界の端が、光ってる」


 日の出が近い。緩く弧を描いた地平線、目を細めても見えないほど遠くの場所が明るくなり始めていた。誰もが心奪われる、美しく神々しい光景。知らず、アディルの目に涙が浮かんだ。


「終わったんだ……終わったんだよ」


 声が上擦るのも構わずに、眠り続けたままの少女にひたすら声を掛け続けた。


「もう、この世界に魔女はいないんだ。俺たちはこれから、平和に暮らせる。逃げなくていい。殺さなくていい。何処かの街で、ひっそりと、静かに、穏やかな毎日を暮らしていけるんだ」


 右手に体重を掛け、身を乗り出した。眠る少女を起こそうと、その肩に左手を置く。はじめはそっと、次第に強くその身体を揺さぶるが、彼女は一向に目を覚まさなかった。

 身動ぐことも、まるでない。

 何度も何度も揺さぶり続けて、疲れたところで手を引き戻す。掌を見つめてみれば、黒い手袋にべったりと赤い染みが付いていた。


 ああ、と声もなく、溜め息が漏れる。


 アディルは左手を握りしめ、拳を額へと押し当てた。固く目を閉じ、嗚咽を殺し、祈るようにそのまま在り続けた。


 地平の先から日が昇る。

 世界が輝き、色付き始める。


 まるで祝福を受けたかのようなこの場所で、彼はただ独り、静かに涙を流し続けた。

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