第二章 その②

「ごきげんよう、ロランヌお嬢様」

 カラランというドアベルの音がすると同時に、よく通る声に出迎えられた。ふくよかでいつ見ても感じのいい、この店の店主であるマダム・ブランシュだ。

「ごきげんよう、マダム。頼んでいたドレスの仮縫いが終わったのですってね。ずいぶん早くて驚いたわ」

「クロエが張りきってるんですよ。『ロランヌお嬢様に着ていただけるってことは、女王陛下にも近くで見ていただけるってことですもの』って。そうだ、クロエがお嬢様にご提案したいことがあるって言ってたんでした。クロエ、ロランヌお嬢様がいらしたよー」

 マダム・ブランシュが奥に声をかけると、トタトタという足音と共に若い娘が現れた。ブリュネットの巻き毛を揺らす、ロランヌと同じ年頃の少女だ。クロエと呼ばれた少女は、ロランヌのことを見て嬉しそうに笑った。

「こんにちは、ロランヌお嬢様。あたし、素敵なことを思いついたので、それをお話したくって」

 縫い途中のドレスを抱えてやってきたクロエは、それをロランヌの前に広げた。

 深い紺地のタフタを使ったドレスで、胸部と襟を白地に切り替えただけのシンプルなものだ。装飾といえばスタンドカラーのフリルと胸部に寄せたタックくらいもので、ロランヌの手持ちの衣装と比べると控えめである。ともすれば野暮ったくなってしまいそうな意匠だが、さすがマダム・ブランシュがこの店の有望株として推すお針子なだけあって、クロエの腕前は確かなものだと感じさせる。

「お嬢様のご要望通り、あくまで式典の主役は陛下だから目立ちすぎず上品にというのはわかります。でも、もう少しお嬢様の魅力を引き出して、華やかな意匠でもいいかなって思うんです。なので、スタンドカラーをスクエアカラーに変えて、裾もスカラップにして裏地の白を覗かせて、そこに刺繍をしたら素敵じゃないですか?」

 クロエはドレスを作業台に置くと、脇に抱えていた帳面を開いた。それは彼女のデザイン帳らしく、開いたページには目の前のドレスと同じ意匠の絵が描かれていた。実物のその絵が違うのは、襟と裾の白地の部分に色鮮やかな刺繍が描き込まれていることだ。

「せっかくの式典でお召しになるんですから、このくらい華やかなでもいいと思うんです。それに陛下は薔薇がお好きですから、薔薇の花の刺繍はお祝いになるかなって。刺繍はリボンを使って立体的にしてもいいですし、細かく蔓まで描いてみるのもいいと思うんですよ。お嬢様がお望みなら、もっと繊細な縫い取りを施すことも可能です! どうでしょうか?」

 クロエは自分の提案が素晴らしいもので、必ずロランヌがそれを受け入れると信じて疑わないキラキラした目をしていた。傍で見ているジャックも、この意匠自体はとても美しいと思うし、ロランヌの愛らしさを引き立てるだろうと感じた。

 だが、ロランヌの顔を見れば、気に入っていないのは一目瞭然だった。

「とてもいいセンスだと思うわ。可愛らしいし、わたくしくらいの歳の女性はこういうものが好きだと思う。わたくしも、別のドレスならこの意匠でお願いしていたでしょうね。でも……この日のドレスは華美にしないと決めているの。これまでも、これからも、ずっとよ」

 ロランヌはクロエを傷つけないよう、慎重に言葉を選んで言った。この意匠自体を悪く思っていないのは本当だろう。だが、この華美さを受け入れられない理由もあるのだ。

 ジャックにはそれが当然わかるし、古くからの付き合いであるマダム・ブランシュも知っている。だから彼女は、落胆するクロエをどう慰めようか頭を悩ませているようだった。

「そんな……どうして」

「式典の花はやっぱり女王陛下だからね。ロランヌお嬢様はそのあたりを弁えているのよ。それに、お嬢様には事情がおありだし」

 女王の生誕祭は、ロランヌの両親たちの命日に重なる。祝いの席であることはわかっているものの、だからといって華美な服装をする気にはなれないのは当然だろう。そのため盛装として何とか認められるであろう紺の布地で、装飾は最低限に留めた意匠のものを毎年注文しているのだ。

 マダム・ブランシュはそれを心得ているが、若いクロエは知らない。とはいえ、ロランヌの事情を話そうとすると血腥い事件のことを話すのは避けられないため、マダム・ブランシュは言葉を濁すしかなかったのだ。

「自分が作った服が陛下の視界に入るのかもしれないから、どうせならあたしの技術の目一杯を詰め込みたかったのに……」

「でもね、我々の仕事はお客様に喜んでいただくことだから。ただ、せっかくならお嬢様に少しでも華やかなものをお召しになってもらいたいという気持ちは、わかるけどね。少しくらいなら、お嬢様が着飾っても許されるんじゃないかって思いますし」

 マダム・ブランシュの言う〝許される〟というのは、痛ましい事件についてのことだろう。悼む気持ちはわかるがそろそろ前を向いても家族は許してくれるに違いないと、そう言いたいようだ。

 それが伝わったからか、ロランヌはクロエのデザイン帳をじっと見つめた。

「そうね……確かに、刺繍くらいはいいかもしれないわね。でも、こんなにたくさんの色は使わないで、控えめにすることはできるかしら?」

 ロランヌがうっすら微笑んで言えば、見る間にクロエの顔に喜びの色が浮んだ。落ち込むのも喜ぶのもわかりやすい娘だ。

「それなら、青系の糸で野薔薇を刺繍するのはどうかしらね。お嬢様の冥界の花は白い野薔薇でしたよね? サジュマン家の紋章も野薔薇がモチーフですし」

「できます! あたし、すごくきれいな野薔薇を刺します!」

「じゃあ、それでお願いするわ」

 マダム・ブランシュのとりなしによって、ようやく意匠の変更に決着がついた。ロランヌもマダム・ブランシュもほっとした様子だが、何より嬉しそうにしているのはクロエだ。まるでお菓子をもらった子供のように、顔いっぱいに笑みを浮かべている。

「お嬢様ありがとうございます! あたし、精一杯頑張りますね! これはチャンスだわ。あたし、いつか女王の仕立屋になるのが夢なんです。だから陛下の目に留まるような素敵なドレスに仕上げます!」

 高らかに宣言すると、クロエは慌ただしく奥へと戻っていった。

 すごい気合いの入りようだが、それも当然だ。女王に気に入られ、飛空城へと召し抱えられる〝女王の仕立屋〟の称号を得ることは、お針子ならば誰もが一度は夢見ることだ。それに、この国のファッションリーダーたる女王のお眼鏡に適う衣装を作り出せたとしたら、それだけで名誉なことなのである。

「ロランヌお嬢様は、これからクインガーデナーのお仕事へ行かれるんですか?」

 ドレスの仮縫いの確認と最終的な打ち合わせは終わったため、もう帰るという雰囲気になった。

「いえ、三番街のほうに評判のお菓子屋さんがあると聞いたので、そこへ行ってみたいと思っているの」

「ああ、あのお店ですか。確かに評判で私も気になっておりますけど、お仕事でないのでしたら、寄り道はあまりおすすめしませんわ」

 見送り前の世間話のつもりの軽い会話だったはずなのに、寄り道と聞くと途端にマダム・ブランシュの顔が曇った。不思議そうにするロランヌに、マダム・ブランシュは心持ち距離を詰め、声を落として話し始めた。

「こんなこと、大きな声では言えませんけれど、切り裂き魔が出ますからね。今の若い人たちに言うと、そんなの時代遅れだなんだと言って信じやしないんですよ。でも私は、時々通り魔が現れるのをちゃんと新聞を読んで知っていますからね」

 それは恐ろしいことと言うように、マダム・ブランシュは口にした。子供を脅すためにわざと怖い顔をして言っているというよりは、彼女自身が信じている様子だ。

 ロランヌもジャックもそのへんにいるただの若い人間なら、そんな都市伝説と化した通り魔の話を聞いたら失笑していただろう。だが、都市伝説に興味がないふたりでも、この話題は笑って流すことはできなかった。

「……通り魔って、ランバージャックのことですか?」

「いけませんよ! そんな軽々しく口にしては……あんなものは、この世界にいてはいけないのだから」

 気になってジャックが尋ねると、マダム・ブランシュは血相を変えた。本当に恐れていて、忌み嫌っているのがわかる。

「サジュマン家でご不幸があったあと、すぐに陛下が粛清してくださいましたけど、まだ生き残りがいるのかもしれませんからね。……恐ろしいことだわ」

 マダム・ブランシュはロランヌの顔を伺い、それから自分の体を抱いた。そんなふうにしていなければ、震えを抑えられないとでもいうように。

 ジャックもこの話題になってロランヌが心配になったが、その顔には不自然なほど何の感情も浮かんでいなかった。……表情を殺さねばならぬほど、その心の中に感情が吹き荒れているということに違いない。

 ランバージャックは、ロランヌの、クインガーデナーの名門家であるサジュマン家の敵だと考えられている。

 命を育む庭師(ガーデナー)に対して、木を刈る木こり(ランバージャック)は悪しき者だから。

 ランバージャックとは、ガーデナーと同様に常人には見えぬ冥界の花樹を見ることができ、そしてそれに働きかけることができる能力を持つ者だ。ガーデナーのように花樹を守る能力とは反対に、刈り取り終わらせることができる能力である。

 だからこそ恐れられていたし、疎まれていた。それでも、表立って虐げられることはなかったはずなのだ。十二年前までは。

 惨殺されたサジュマン家の人間たちは、誰もが体をばっさりと斬りつけられていたらしい。しかも、冥界の花樹ごと。その手口から犯行はランバージャックによるものとされ、女王はすぐさま国内のランバージャックをことごとく粛清したのだという。

 この事件と前後するように、切り裂き魔と呼ばれる通り魔事件が発生していたことから、切り裂き魔とランバージャックを同一視する見方もあるのだ。というよりも、無関係だとは考えられない。

 そのため、今でも時折似たような事件が起こると昔のことを知っている大人たちは惨劇を思い出し、眉をひそめるのである。若い人には本当のことかどうかわからない都市伝説の扱いでも、当時を知る人間たちにとっては今もうっすらと続く恐怖なのだ。

「とにかく、無用な出歩きを私は推奨しませんからね。大事なお嬢様に何かあったら、耐えられませんもの。三番街といえば、最近も何か事件があったみたいですよ。倒れた人がいたそうなんです。きっと何者かに切りつけられて……」

 三番街と聞いて、ロランヌとジャックは顔を見合わせた。時期といい場所といい、間違いなくこの前ふたりが遭遇した件だろう。だが、あのときの人は切りつけられたわけではなく倒れていただけだし、病院に運んでからは救貧院に引き取られていると聞いた。だから、切りつけられたり殺されたりといった、物騒な事件ではないはずだ。

「あの、それはたぶん……」

「ご忠告感謝します。お嬢様、今日は寄り道せずに帰りましょう。マダムに心配をかけてはいけません」

 あの件について本当のことを話そうとしたロランヌを制し、ジャックは礼を言って店を出た。

「あの日のことが噂になるうちに尾ひれがついて、切り裂き魔の話になったのでしょう。でも、マダムに訂正してはだめですよ。俺たちも切り裂き魔を都市伝説扱いする若者だと思われてしまいます。それに……外に危険がいっぱいなのは事実ですし」

「まあ……そうね。訂正すると厚意で忠告してくれたのを無下にすることになるものね」

「そうですよ」

 マダム・ブランシュから聞かされた不穏な話のせいで、ロランヌもジャックも気分が沈んでいた。だがそれ以上に、悲しくさせているのは別のことだ。

「……今日もあのお菓子屋へは行けないのね」

 ロランヌはひどくしょんぼりして言った。ジャックも言葉にはしなかったが同じように落ち込んできた。それに何より、情報を寄越したフレールへの怒りが湧いてきていた。


 真夜中、眠れずにいたジャックは庭に出ていた。

 月明かりが照らす庭は、青白く光っていてどこか別世界のようだ。眠れずに部屋にいると落ち着かないが、庭に出るとそのひとりの寂しさが少し紛れる。別世界のような庭では、植物たちは昼とは違う存在感を放っているから。

 女王の生誕祭が近づいてくると、ジャックは毎年寝付きが悪くなる。拾われる前の記憶なんてないはずなのに、落ち着かなくなって不安になるのだ。むしろ、記憶がないからこそ不安なのだろう。

「ランバージャックか……」

 昼間マダム・ブランシュに言われたことが、ジャックの胸に棘のように刺さっている。

 ランバージャックは悪いもので、粛清すべきものだ――それはこの国の人間なら誰もが知っていることで、そう信じていることだ。ジャックも、無邪気に信じていられればと思う。

 だが、自分が何者なのかわからない以上、そんな大衆の一員ではいられない。ずっと、拾われていろいろなことがわかるようになってから、自身の存在について疑いを持ち続けているのだ。

 まず、この名前だ。名付けたバローは「悪い冗談だった。あの頃の自分はおかしかった」の反省しているようだが、ジャックとしてはこの名はよく自分の正体を表しているのではないかと思っている。

 両手に花鋏を出現させることができるこの能力がガーデナーのものでないのなら、つまり自分はランバージャックなのではないかと考えているのだ。

 ロランヌと同じで冥界の花樹を見ることができるとわかったときは、彼女の何らかの繋がりがあると思って嬉しかったのに。

 今は、彼女を脅かすかもしれない存在になるのなら、こんな能力いらないと思っている。

 ただでさえこの国の人間ではないとひと目でわかる容姿で、その上みんなに嫌われ恐れられる能力なんて持っていたいわけがない。

「ジャック……こんなところにいたのね」

 何をするでもなく庭に立っていると、不意に声をかけられた。振り返らずとも、そこに誰がいるのかは明白だ。

「ロール様。もしかして、呼びましたか?」

 振り返ると、ナイトドレス姿のロランヌがそこにいた。月光の下に浮かび上がる銀の髪と白い肌は、彼女を妖精じみて見せている。昼間の姿よりもこちらのほうが、本来の姿なのではないかと感じさせる。

「呼んだわ。ベルを鳴らしても声を上げても来ないから、外へ見に来て見たの」

「すみません。……ホットミルクでもご所望でしたか?」

「そんなこと、今はどうだっていいでしょ。問題は、あなたが眠れずに庭なんて歩いていることよ」

 ジャックは、目の前の美少女が腰に手を当てて怒った表情を浮かべるのを見て、彼女が妖精の姫なのではなく自分の主人であることを思い出した。

「ロール様がぐっすりお休みになられていれば、俺がこうして起きているなんて気づくことはなかったんですよ。どうして起きてしまったんですか? お腹でも空きましたか?」

「あなたと一緒よ。……この時期はあまり眠れないの」

 飲み物が欲しかったとかお腹が空いたとかで眠れない理由を誤魔化してしまいたかったのに、ロランヌがそれを許してくれなかった。

 この時期にふたりが眠れずにいる理由なんて、それこそ言わなくてもわかるはずなのだ。それをあえて尋ねてくるところが、この主人の困ったことだと思う。

「……ロール様が眠れない理由と俺が眠れない理由は、繋がってはいても別物ですよ。ロール様が眠れないのは、惨劇を思い出すからでしょう? 俺は、何も思い出せないから不安で眠れないんです。ロール様と分かち合えるものは、ないんですよ」

 ジャックは言いながら、寂しくなるのが自分でもわかった。

 サジュマン家で起こった惨劇については、すべて伝聞で知っただけだ。そのときロランヌがどれほど怖かったか、つらかったか、苦しかったか、ジャックは想像するだけで心底理解してやることはできない。

 ジャックもロランヌも毎年この時期になると不安で眠れない夜が多く、幼い頃は身を寄せ合って乗り越えてきたが、その内側に抱えるものは異なるものだったのだ。それが今、はっきりしてしまったようにジャックは感じていた。

「何もないなんてことは、ないはずよ。眠れない者同士、仲よくしましょ。昔みたいに添い寝してあげましょうか?」

 ロランヌはジャックの手を取ると、そっと見上げてきた。からかっている様子はないから、本気で言っているのだろう。

 春とはいえ、まだ夜は冷える。ロランヌの手が少し冷たくなっているから早く部屋に帰らせねばと思うが、この誘いに乗るわけにもいかない。

「ロール様、ふざけるのも大概にしてください。お忘れのようですが、俺は男なんですよ」

 自分たちの立場を、関係を、わからせねばと思ってジャックは言った。

 幼い頃から一緒にいるせいなのだろうが、ロランヌはジャックに気安すぎるところがある。あまりにも他人行儀では嫌だが、こんなふうに己が何者なのか忘れたかのような振る舞いをされると、使用人としてというより年長者として叱るしかないだろう。

 貴族の、しかも嫁入り前の娘なのだ。こんなふうに不用意では困る。

 だが、そんなジャックの心配は微塵もロランヌに伝わっていないようだ。

「そんなの、知ってるわ」

 掴んだ手を離さぬままロランヌは言う。これは、ジャックの性別が男であることを知っているということなのか、男のジャックに添い寝をねだる意味をわかっているということなのか、判断しかねる状況だ。

 ジャックにとってロランヌは唯一の女性で、守るべき主人だが、ロランヌにとってもそうであっては困るのに。

「……ホットミルクを作って差し上げますから、部屋に戻りましょう。今から寝る努力をすれば、少しは休めるでしょうから」

 ロランヌが見つめてくる意味を都合よく解釈してしまいたくなって、ジャックは手を引いて歩きだした。

 勘違いしてはいけないし、弁えねばならない。この人はどれだけ近くにいても手に入らない人で、その代わりに絶対に守ると決めたのだ――そんなふうに自分を戒めながら歩いたのに、繋いだ手が少しずつあたたかくなっていくことに、どうしても嬉しい気持ちを抑えることができなかった。

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