第6話 月夜のさや


 祖母が寝るのはいつも九時半と決まっている。今日も俺はテレビを観てから寝ると伝えて居間に残った。けれど本当はテレビなんか観るつもりはなくて、こっそりと近頃の日課をこなす。


 実はあれから毎夜祖母が寝静まった後に、俺はあの女の子を探して窓からこっそり外を覗いていた。外から見えないように部屋の電気を消したら、じっと林の奥へと視線を巡らせる。

 辺りを照らすのは月明かりくらいしかないけれど、積もった落ち葉を踏み締める音で人の気配は分かるはずだ。


 目をこらし、耳を澄ませる。田舎の夜は静かだ。


 汗ばむ額を首を振りながら掠める扇風機のサァーっという風の音と、ブゥーンというモーター音だけが聞こえて来る。時折外で風が吹いたら、ザワザワと葉っぱが擦れる音がした。けれど、やはり街に比べれば随分と静かだ。


 サクサク……サク……。


 とうとう落ち葉を踏み締める音が聞こえた気がした。聞き間違えかも知れないから、慎重にしっかりと耳を澄ませる。サクサク……と、やはり聞こえてきた。遠くの方に白っぽい影が見えた。


 あのシルエット……長い髪の毛、細い体、あの子だ。


「綾川さん!」


 掠れるような小声で、けれど懸命に名を呼んでみた。一瞬影の歩みが止まる。名前はまずかったか……?


「綾川さん! こっちだよ! こないだはありがとう!」


 用意していた懐中電灯をチカチカっと光らせた。一度歩みを止めた影はゆっくりとこちらへ近づいて来る。サクサク……と音を立てて。


「こないだの……男の子?」

「そう! こないだ、助けてくれてありがとう」


 コソコソとした声だけど、けれどなるべく大きな声で話しかけていると、もう窓から二メートルくらいのところまで女の子が近寄ってきている。こないだよりは幾分か小さな月でも、今日は少しずらした懐中電灯の灯りで顔が分かる。


「他に誰もいない? そこにはあなただけ?」


 警戒するような視線を周囲に向けながら女の子が尋ねてくる。


「うん、ばあちゃんはもう寝てる」

「どうして名前を……?」


 そりゃそうだ、勝手に教えてもいない名前を呼ばれたらびっくりするよな。感じが良くなかったかも知れない。俺とした事が……いつもならこんな事はしないのに、つい何とかして引き止めようと名前を呼んでしまった。


「こないだの夜の事は話してないけど、別の場所で見かけたってばあちゃんに特徴を言って、名前を聞いたんだよ。綾川さん、だろ? 夏休み明けになったら、俺も同じクラスになるんだって。転校生なんだ。よろしく」


 こちらがそう言うと、目の前の女の子は小首を傾げた後に少しだけ悲しげな表情をした。それはどんな表情なんだろう。他人の機微に鋭い俺でも、女の子のその表情の意味は分からなかった。


「転校生……。名前、何ていうの?」


 突然問われてハッと息を呑んだ。そりゃそうだ、自分の名前だけ知られているのはいい気はしないだろう。


「きりと。天野桐人あまのきりとだよ」

「きりと、ね。私の名前は……さや」

「さやっていうのか。よろしくな」


 フワリと笑った顔が青白い月光に照らされた。思わず胸を押さえてしまうほど、その顔は綺麗で。五十メートル走を走った時みたいに、心臓がドキドキと脈打った。


「どうして夜に出掛けたりするの? 危ないって怒られるよ? いくら田舎だからってさ」

「田舎……?」


 つい余計な事を言ってしまう。不思議だけどこの子の前ではいつもみたいに上手いこと相手に合わせて話す事が出来ない。さっきからずっと、言ってしまった後に「あぁ」と後悔するような事ばかり口走っている。


「いや、ごめん。でも、夜に小学生が一人だと危ないよ。それに、怖くないの?」

「怖くはないよ。大人に見つかるのが怖いけど、外は……怖くない」


 やっぱりさやも親と喧嘩をしたのだろうか。寂しそうな横顔は、自分と同じ匂いがした。


「俺は両親と仲が悪くてさ。こないだもばあちゃんちに家出してたところだったんだ。両親は俺のことがあまり好きじゃないみたい。もしかしてそっちも家出?」

「家出……?」

「ほら、子どもが夜に突然家を出たら少しは両親も困るだろ?」


 ああ、また余計な事を話してしまった。さやが誰かに話したら、田舎は噂話なんてすぐに広まってしまうのに。けれど、きっとさやなら俺の気持ちが分かってくれるんじゃないかと期待した。


「それじゃあ、これも家出……かな」

「やっぱり! 俺と同じだね」


 うーんとしばらく考え込んだ様子のさやは、なかなか続きを答えようとしなかったものの、やっとのことで口を開く。


「私は父さんと母さんのことが好きだけど、父さん達は私の事を好きじゃないと思う」


 本当に一緒だ……。俺だって本当は両親の事を嫌いなんかじゃない。逆に気を引こうとして必死なんだから。


「やっぱり、俺達は似たもの同士だ。何だか良い友達になれそうだね」

「……そうかも」 

 

 さやは初めてフッと息を吐き出して笑った。白っぽいワンピースを着ているから、闇夜の中でもさやだけが月明かりに照らされて浮き上がっているみたいだ。


「ごめん、もう帰らないと。私の事、絶対に皆に内緒にしててね」

「え……う、うん」


 結局ほとんど大した事は話せていない。神子って何なのかとか、聞きたい事は沢山あったのに。


「じゃあ、さようなら」

「あ、さや!」

「なに?」


 何故引き止めてしまったんだろう。分からないけど、くるりとワンピースを翻して去って行くさやに、もう二度と会えないような気がしたんだ。


「また、会えるよね?」


 俺は、何を聞いてるんだ。夏休み明けには同じ教室で勉強する同級生に、「また会えるよね」なんて馬鹿馬鹿しい事を。


「……どうかな? また、会えたらいいね」

「え……」

「さようなら、きりと」


 白っぽいワンピースは林の奥へと消えて行った。さやがいなくなると、急に木の葉の擦れる音がザワザワと大きくなって、木々の生い茂る風景が一気に別のものに変わったような気がする。


 ブルリと背筋が震えて、林の奥から今度は化け物が現れるような妄想に取り憑かれる。怖くなった俺は、窓と鍵をしっかりと閉めた。



 


 

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