第17話 ほんの少しでいいから

 じっと見つめていると、ノエルが窓から私に視線を移し、首を傾げた。


「どうかしましたか?」


 肩にかかっている黒髪が揺れて落ちる。湖のような瞳は相変わらず、さざ波一つ立っていない。

 その顔に、ほんの小さな波紋でもいいから起こしてみたい。だけどどうしたら、いいのかまったくわからない。


「――ノエルはどうしたら笑いますか?」


 ゆっくりとノエルの首が傾く。どうしてなのかと問いかけてきた時よりも深く。

 何を言われたのかよくわからない。そんな感じの仕草に、私も同じように首を傾げてしまう。


「どうしてそんな質問をしたのかを聞いてもいいですか?」

「……ノエルを笑わせてみたいと思いました」


 改めて口にしてみると、何を言っているんだろうと我ながら思ってしまう。なんだか、とても恥ずかしいことを言っているような。

 首を正位置に戻したノエルがじっと私を見つめながら、顎に指を添える。何かを考えるように。そうして少しの間を置いて、小さく頷いた。


「わかりました。笑い方を練習しておきます」

「練習しないと駄目なことなんですか」

「そうですね。長らく笑ったことがないもので……できる限り自然に笑えるように頑張ってみようと思います」


 違う。それは違う。間違っている。

 私はノエルが笑っているところを見たいわけではない。

 私がノエルを笑わせたい。それは練習してできあがったものでは意味がないし、作られたものでも意味がない。


「最後に笑ったのはいつですか?」


 だから、頑張るのはノエルではなく、私だ。

 ノエルが何を面白いと感じるのか。それがわかれば、笑わせる方法も思いつくかもしれない。


「覚えていませんが……道理のわからない赤子の頃であれば笑ったかもしれませんね」

「物心ついてからは?」

「覚えている限りはありません」


 ノエルを笑わせることは無理かもしれないと、心が折れかける。

 いやだって、ノエルは少なくとも十八年以上生きているはず。それなのに一度も笑ったことがないなんて。


「面白いと思ったことはありますか?」

「ありますよ。あなたと共にいる時間は、楽しくもあり面白くもあります」

「嬉しいと思ったことは?」

「あなたに求婚された時と、こうしてあなたと過ごしている間ずっとですね」

「くすぐられたことは?」

「それはありませんね」

「くすぐってもいいですか」

「構いませんよ」


 埒のあかない問答にしびれを切らし、強行突破することにした私に向けて、ノエルが「どうぞ」と言うように腕を広げる。

 馬車の揺れに気をつけながら席を立ち、じっとノエルを見下ろす。

 くすぐってどうにかなる問題なのかはわからないけど、何事も挑戦だ。さてこの場合、どこをくすぐるのが一番笑えるのだろうか。


 定番な場所といえば脇腹だけど、服の上からでくすぐられても笑ってしまうほどかはわからない。なら服の下から直接――そこまで考えて、伸ばしかけた手が止まる。


 何を考えているんだ、自分は。どうにか笑わせられないかムキになったとはいえ、発想がはしたないを飛び越えて痴女一歩手前だ。


「すみません、やっぱり忘れてください」

「いいんですか?」

「はい、どうかしていました」


 おとなしく、元の位置に戻る。よくよく考えてみたら、くすぐって笑わせるのも何か違う。

 ノエルには無理矢理ではなく、自然に笑ってもらいたいような気がする。


「残念です」


 自らの醜態を反省し、方向性を正そうとしていた私の耳に、小さな呟きが届いた。

 何が、と思った私が俯きかけていた顔を上げると、少しだけ水色の瞳が細まっていた――ような気がした。


 だけど思わず瞬きをした次の瞬間にはいつもの顔に戻っていて。一瞬で消えた変化に、瞬きする瞬間を勘違いしただけか、あるいは見間違いかと自分の目を疑ってしまう。

 でももしも、今のが見間違いとか勘違いとかではなく、実際にあったことなら、希望があるのでは。


「いつかノエルを馬鹿笑いさせてみせますね」

「期待しています」


 淡々と言うから、本当に期待しているのかどうかはわからない。

 でもこの数日の付き合いで、ノエルが話を流すような人ではないことはわかった。最初にお付き合いを申し込んだ時は別として。


 だからきっと、本当に期待してくれている、と思うことにする。そのほうが私の精神衛生上にもいいし、頑張る気になれるから。


「それはそうと」


 心の中で決意を新たにしていると、ノエルがふと思い出したかのように言葉を落とした。


「愛ある恋人を演じるにあたって、あなたにお願いしたいことがあります」

「お願い、ですか?」


 改めてお願いしないといけないこととはなんだろう。首を傾げなら繰り返すと、ノエルが「はい」と言いながら頷いた。


「お付き合いを初めて三日も経ったことですし……そろそろ自然体で話していただけますか」


 つまり、どういうことだろう。何を要求されているのかよくわからなくて、ええと、と曖昧な声を出す。


「自然体、と言いますとどういうことでしょうか。だいぶ気を抜いているつもりではあるのですが……」

「先日、あなたが妹と接する場を見たので、今のあなたがが自然体でないことはわかっています。つまりわかりやすく言うと、恋人に対して敬語なのは距離があるように思うということです」


 なるほど。世の恋人がどんな風なのかは知らないけど、たしかに言われてみればそうかもしれない。

 塔ではずっと敬語で話していたのですぐには難しいけど、愛ある恋人を約束したのだから、意識してでも改善すべきだろう。


「わかりま……わかったわ」

「これで、僕のお願いは以上です。あなたからは何かありますか?」

「……ノエルは敬語のままなの?」


 促され、思ったまま口にする。

 敬語なのが他人行儀というのなら、ノエルも気安く話すものだと思っていた。それなのにあいかわらず敬語のままだ。


「僕はこれが自然体なので」




◇◇◇



 そんな、私が肩透かしを食らうだけの時間を過ごしていたら、馬車が塔に到着した。

 なんとかジルが脱出する前に戻ってこれたようで、フロラン様の研究室に入るとジルが出迎えてくれた。床の上で、縄で縛られたまま。


「おや、お帰り。ずいぶんと早かったね。楽しめたかい?」


 ぐるぐる巻きのジルがこちらを見上げて言う。フロラン様はちらりとこちらに視線を向けた後、手元にある書類に視線を戻した。


「ええ、まあ、楽しかったですよ」


 家具を誰かと一緒に選ぶのは新鮮で、楽しかった。

 選ぶ基準は破壊された時の再納品が早いかどうかだったけど。


「それはよかった。私の可愛い弟子が楽しめたのなら、引き受けた甲斐があったというものだよ。それはそうと、これを解いてくれるかな? 私の可愛い弟子なら朝飯前だろう?」

「フロラン様が許可を出したらでいいなら」


 ちらりとフロラン様を見ると、首を横に振られた。駄目らしい。


「フロラン。手伝うことはありますか?」


 ノエルがジルの嘆願を無視して、フロラン様のもとに向かう。フロラン様は少し考えるようにしてから、書類の山をひとつ指差した。


「あなたはどうしますか?」

「私は……少し家に戻ろうかと思います」


 フロラン様のお手伝いはできるけど、手伝いの要請は出されていないので断られるだろう。フロラン様は真面目な人だから。

 だから家に帰ることにした。夜会から一度も帰っていないので、そろそろ服が足りなくなる。


「あまり寝泊まりすることがなかったので、汚れた時用の着替えしか用意がなく……いくつか服と、あと色々と必要なものを持ってきます」


 家で過ごす気にはなれない。アニエスから色々言われるだろうし、アニエスに何か吹きこまれた両親からも何か言われるかもしれない。

 だからこっそり帰って、こっそり必要なものを取って、塔に戻ってこよう。


「わかりました。そういうことでしたら送ります。フロランも構いませんね」

「……元々休みの予定だ、好きにするといい」


 フロラン様は書類から視線を外すことなく頷いた。


「それでは行きましょうか」


 はい、とあまりにも自然に手を差し出される。

 エスコートということはないだろう。塔の中でエスコートを受けたことはない。


 だからつまり、手をただ乗せるだけでは駄目だ、ということで。


「私の可愛い弟子と弟弟子の仲がよくて私は嬉しいよ。それはそうと、縄を解いてくれてもいいんだよ?」


 おずおずと、差し出された手を握る。その一部始終を見ていたジルが茶化すように言った。

 ちらりとフロラン様を見ると首を横に振られたので、ジルをそのままに研究室を後にする。

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